清らかなものを求めて―遠藤周作「沈黙」―


前書き

読んでくださるあなたが、一体どのくらいの年齢のどんな方か、当然私にはわかりませんが、一つ聞いていいですか?歴史小説って読みます?
私の行きつけの本屋では棚一つが歴史小説に割かれています。なので一定の読者はいるのでしょうが……、「古くさい」「ワンパターン」と思う方も少なくないと思います。

私もね、歴史小説、そこまで好きじゃないんです。
理由はやっぱり偉人があまり立派に書かれることですね。
例えば豊臣秀吉とか徳川家康って、今で言う軍事政権のトップじゃないですか。十中八九ろくな奴じゃないと思うんです。
でもこの記事は、そんな歴史小説の話です。暇つぶしがてら覗いてもらえると、私としては幸いです。

沈黙―その神は真の神か―

隠れキリシタン」って聞き覚えありますか?
江戸時代、迫害されながらキリスト教の信仰を守った農民たちです。
(ただ、当時の農民は当然識字率も低く、彼らがキリスト教の複雑な教理をどの程度理解していたかはいささか疑わしい部分があります)

「沈黙」は長崎の隠れキリシタンに「真のキリスト教の教え」を教えようと張りきる、ロドリゴという外国人の司祭が主人公です。
しかしロドリゴの熱意は、たちまちくじかれてしまいます。例えば、農民たちの天国とは、

(略)あそこじゃ、年貢の厳しいとり立てもなかとね。飢餓うえも病の心配もなか。(略)

沈黙

という、よく言えば素朴な、悪く言えば現実の苦痛を和らげる都合のいい夢です。

コラム―宗教と呪術の違い―
ややこしい話になるので、「沈黙」のあらすじが知りたい方は飛ばして構いません。
宗教と呪術はときに見境がつかなくなります。
一応私の思うところを話すと、そこに個人の願望が含まれているかが一つの境目だと思います。
例えばてるてる坊主は、「明日晴れてほしい」という私たちの欲望を満たすために行う、宗教とは呼べない行い―「呪術」です。
そして、「でないと、首をちょん切るぞ」―(遊びとはいえ)脅迫によって願いを叶えようとします。
ここでロドリゴが農民たちの天国の理解に不快感を覚えたのも、それが彼らの「生の苦痛から逃れたい」という欲望に奉仕ほうしする「呪術」に変質するきざしを感じたからではないでしょうか。

私たちはエゴイズムを抱え、この今日も生きています。澄んだ信仰も次の瞬間には暗くねじくれた自己愛に変わります。人間の業は恐ろしいですね。
(阿満利麿さんの著作から一部の話をお借りしました。ありがとうございます。)


タイトルにある「沈黙」は神の沈黙を指します。以下は二人の農民―モキチとイチゾウ―が海ではりつけにされ殺された後の、ロドリゴの独白です。

闇のなかで聞えたあの暗い太鼓のような波の音。一晩中、意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せたあの音。(略)モキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ(略)あそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。

沈黙

ただ、いくら「神がいない」と言われても、神抜きの暮らしに慣れた私たち現代人には、その怖さが今ひとつ伝わらないと思います。 
つたない喩えですが、こんな場面をイメージできますか?夕方の公園で、一人の子どもが砂場で山を作っています。
その子は当然、見上げた先に母親がいると信じて疑いません(だから安心して遊んでいられます)。
けれどあるとき、突然母親の姿がどこにも見えなくなったら、その子は怖くてたまらないでしょう。

人間は、不意に大きい悪意や敵意に晒されること抜きには、生きられません。そのとき、きちんと手を握ってくれる誰かがいなければ、私たちはやがて壊れてしまいます。
(家族愛と神の愛とを単純に結ぶのは危ういですが)自分を常に見守る「誰か」が、ロドリゴにおけるイエス・キリストと思うと、神の不在の怖さが私たちにも多少は身近に感じ取れる、と思います。

この後も様々な試練がロドリゴに降りかかるのですが、ここでは割愛して結末踏み絵の試練から話します。
イエス・キリストの像を足で踏ませ、キリスト教徒かを確かめる儀式ですね。
ロドリゴは初めこそ拒むのですが、拷問を受ける農民たちを人質に取られ、苦しみながら踏み絵を踏みます。そしてこのときロドリゴは初めて神の声を聞きます。

(略)踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

沈黙

ここでロドリゴは信仰を棄てたように見えます。しかし彼は言うのです。

(略)自分は(略)あの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。(略)あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

沈黙

さて、これは単なる負け惜しみでしょうか。それともロドリゴは表面的な棄教によってより深い神の愛に出逢ったのでしょうか。
教科書的に言えば後者が答えでしょうが、この話は正解を決める授業ではありません、無理に感動しなくて大丈夫ですよ。

「沈黙」の作中、ロドリゴは長崎の農民たちを見下しています。当たり前と言えば当たり前です。彼は正当な神学を学んだ司祭、一方の農民たちは仏教の極楽浄土とキリスト教の天国(パライソ)の区別もつきません。
ある意味、ロドリゴは特権意識を持った人間であると言えます。上記の言葉は、そんな彼が自尊心を保つためにでっち上げた都合のいい論理だとしても、不思議ではないと思いませんか。

次に、もし本当にロドリゴが神の声を聞いたとしますね。
しかし、この声もロドリゴの自己愛が生んだ偽の神かもしれません。
人間とは絶えざる自己保身に振り回されて生きています。何よりも我が身が可愛く、そのために他人を傷つけて恥じないものです。
ロドリゴは踏み絵を踏み、自分が助かるため都合のいい神をでっち上げたのではないか。本当の神であるイエス・キリストは、このとき決して踏み絵を踏むなと言っていたのではないか。

私は浄土門の教えを信じていますが、やはり同じ思いをしたことが何度もあります。仏の御心に従ったつもりで、現実には自分の欲やエゴ、執着に振り回されています。そのたび、ひどく惨めになります。
人間は真に弱いもので、ときに神を捏造ねつぞうしてまで生き延びようとします。(それはまた、責められるべきではないとも思うのですが)


もちろん、これは遠藤周作さんの望んだ読み方ではないと思います。ここでは神学の体系に支えられた神ではない、弱い人間の弱い生き方を赦す神への呼び求めを読むべきでしょう。
けれど私自身、信仰を持った後も人に誇れるようなことは何一つできません。確かに私たち人間は哀れで弱いのですが、同時に狡猾こうかつで偽りに汚れてもいます。
果たしてロドリゴの出逢った神が真の神であったかどうか、私にはやはり信じきれません。

ただ、信仰とは、最後にはただ一人の人間のためにあると私は思います―何らかの組織や難しい論理に奉仕するためではなく。
また、どんな人間の信仰もはたから見れば疑わしさが残るでしょう。
私だって仏の御心と言いながら、本当は第二次世界大戦中の「天皇陛下の大御心」が口癖だった軍人たちのように、本当は悪行三昧をして、あなたを騙して弄んでいるのかもしれませんよ。
その意味で、誰から見ても確かな信仰など、そもそもこの世には存在しないと思います。

この先のロドリゴの信仰には、最後まで疑わしさが残るでしょう(私としては遠藤周作さんにその疑わしさまで書いてほしかったですが)。
それでも、ロドリゴの内側で確かに神の声がしたのなら―そしてそれをまやかしなく信じられるのなら―それも一つの信仰の形だと私は思います。
あなたはどう思いますか。



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