【小説】「誰も見ていないところで」第十章
葉子の回顧「見誤った距離感」
四月十七日は、朝から、なんとなく憂鬱だった。
昨日は朝から登校できた朋樹だが、今朝はまた行きたくないという。
「少しでも行かない?」という提案も、学校への連絡も、作業として大した手間でもないのに、どうにもしんどかった。
結局朋樹はこの日、給食だけ行くというので、送り迎えのどちらも必要だった。
そして、私は一週間ぶりにほっとすぽっとへ行く日で、桂木さんから「裁きのメール」を受け取ってから、返信もしないまま初めて会う日でもあった。会ったら、なんと言おうか。謝ったほうがよいのだろうか。
桂木さんから見たら、私の行いは間違いだったのかもしれない。ただ、少しだけ冷静にみると、彼女の指摘の多くは、主観的なものが多いのではないか、と思えるようになっていた。
私にだって、これまでの人生で培ってきた大事な信念というものがある。桂木さんに謝るのは簡単だが、それでは自分にあんまり失礼でかわいそうな気がした。
桂木さんのことを尊敬し、憧れていたからこそ、内容そのものよりも、悪意のようなものを向けられた事実にひるんでしまう。
しかし、自分らしさを見失いたくはない。
ただ、つんけんして、ムードを悪くするのも本意ではない。
どうしたらいいだろう……。
十二時前に朋樹を学校へ送ってから、前夜の残りのご飯で簡単に昼食を済ませると、私はふと名案を思いついた。ちょうどいただいた甘納豆があるから、それでお赤飯を作り、桂木さんと高山さんへ持っていくというのはどうだろう。会話のネタにもなるし、また、せっかくなら佐藤さんにも食べてもらいたいと思った。
そうと決まればと急いで準備に取り掛かる。白米ともち米を三合ずつ合わせて、水に漬けておいた。
その間に他の家事を終わらせ、炊飯器のボタンを入れ、朋樹を迎えに行った。
帰り道、今日の給食で、デザートのゼリーをおかわりするじゃんけんで勝てたらしく、朋樹は喜んで報告してきた。
「朋ちゃんは給食だけ行ってるのにゼリーゲットしちゃって。『ずるいよ、ぼくらは一時間目から来てるのに』って言うお友達いない?」
「いないよ、誰もそんなこと言わないよ」
「へぇ、みんな優しいんだね」
私が子どもの頃は、辛辣な子が周りに多かったような気がする。
腹痛で遅刻したとき、その情報が伝わっていないために「遅刻、遅刻」と数名にからかわれたり、毎日給食のおかわりをしていたら「お前んちビンボーなの」と言われたり。時代だろうか、土地柄だろうか。
そのたびに泣いたり、落ち込んだりしていた気がするけれど、今振り返れば心の傷になっているということもなく、「学校楽しかったな」という記憶しかない。そうじゃなければ、我が子に朝「行ってらっしゃい」と元気に言うことなどできないだろう。
大丈夫、今のつらい気持ちも、数年後、数十年後にはなんてことないと思えているはずだ——
私は出来上がったお赤飯を冷まし、プラスチックのパックへ詰めたものを三つ用意し、紙袋へ入れた。
直樹も帰ってきたので、二人におやつを用意し、食べている彼らをぼんやり眺めながら、コーヒーを飲んで一服した。そろそろ行こうかと朋樹に声をかけると、「今日は行きたくない。兄ちゃんとゲームして待ってる」という言葉が返ってきた。
「あ、そう。それならそれで、ママだけ行ってくるけど」
気心の知れない先輩のいる場所へ朋樹を連れて行かなくて済むことに、内心私はホッとしながら立ち上がった。
次の瞬間、目の前が真っ暗になり、椅子の背につかまり、座り直した。立ちくらみだ。あぁ、寝不足のときは特にひどい——
「ママ、大丈夫?」
直樹が心配そうに声をかけてくれた。朋樹はもうゲームを始めて夢中になっている。
気休めにしかならないが、鉄分のサプリメントを飲み、今日は早めに眠ろうと思った。
「二人で大丈夫よね?チャイムが鳴っても出ないでね」
そう言って、私は急いで家を出た。
——これが、可愛い息子たちとのお別れになるとも知らずに。
風山中央公民館に着いたのは三時を少し過ぎた頃だった。女性コーラスを終えた年配女性たちが帰っていくところだった。
私は、事務所にいる佐藤さんに受付の小窓から挨拶した。
「あぁ、樫村さん、こんにちは」
いつも変わらぬ笑顔を向けてくれる佐藤さんに、今日は特に救われる思いがした。
「今日は朋樹くんは?」
「なんか兄弟でゲームするっていうので置いてきました。もう、気まぐれで。あの、これよかったら三時のおやつに召し上がってください」
持ってきたお赤飯を一パック渡した。佐藤さんは「なになに」と言いながら、受け取ってくれた。
「佐藤さん、北海道のお赤飯って召し上がったことありますか?こちらだと、小豆が入ると思うんですが、私の地元では甘納豆が入ってるので、おやつみたいな感じで」
「えー珍しい!いいの?」
「はい、良かったら。本当は金時豆の甘納豆を入れるんですけど、いただきもので、ひよこ豆の甘納豆があったので、今日はそれで作ってます」
「へぇありがとう、早速いただくね」
返事の代わりに佐藤さんに手をあげ、私は和室へ急いだ。
部屋に入ると、小学生が二人いて、桂木さんと高山さんが、子ども一人につき一人ずつ、という感じで相手をしていた。
「お疲れさまです、遅くなりました」
そう言って和室へ入るも、指導員の二人はこちらを見ない。
意図的に無視されているような気がした。
小学生のうち一人は、朋樹とクラスメイトの敬太くんで、もう一人は、三年生の沙菜ちゃんだった。二人とも常連さんだ。
敬太くんは最近パズルにハマっているようで、来るたびに夢中になってやっている。高山さんが、手も口も出すことなく黙って付き添っている。
沙菜ちゃんは、折り紙が得意で、難易度の高いものにチャレンジしているようだった。つまずいたところでも桂木さんは上手に声をかけながら完成まで導いている。
支援員のこの二人に対し、いろいろ思うところはあるけど、亀の甲より年の功……敬うポイントはたくさんあったのに見落としていたのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
——もしかしたら、私は謙虚さというものを忘れていたかもしれない。
手持ち無沙汰だったので、廊下にある「風山ほっとすぽっと」のチラシや、「やんぐこあらの会」のパンプレットを整えたりした。
室内の棚には、ボードゲームやカードゲームが並べられ、また文房具や紙類が引き出しに入っている。雑然となっている箇所を整理したり、汚れがあれば拭いたりと、普段はなかなかしきれない掃除などをしてみた。気持ちがよく、憂鬱な気持ちが少しだけほぐれていくような気がした。
四時頃、沙菜ちゃんが帰ると言うので、玄関先まで見送った。
すると、「私ももう帰っていいかしら」と桂木さんが言い出した。
「あれだけ今日きれいにしてくれたなら片付けも楽でしょう。今日はお先に失礼するわね」
そう私の方を見て言った。
「あ……」
お赤飯を渡したかった。
しかし桂木さんは、「高山さん、あなたはどうするの?」と高山さんの方を向いた。
「あ、それなら、私も失礼するわね。もうあとは敬太くんだけだしね、よろしくね」
そう言い残して二人は帰っていった。
確かにもう子どもは一人だけど、今までは子どもが〇でも、五時より先に帰ることなんてなかったのに。
子どもがいない間は支援員同士の意見交換や雑談の時間にもなっていた。
実はそれも私にとっては楽しみだった、と今頃気づいた。
私はすっかり置いてきぼりを食らってしまい、心がまた萎れるのを感じた。
お赤飯も渡しそびれてしまった。いや、あれでは渡せる雰囲気ではなかったか。
気を取り直して和室へ戻り、敬太くんに「おまたせ」と声をかけた。
「樫村くんは今日は来なかったんですか?」
敬太くんが珍しく口を開いたので一瞬驚いたが、
「そうなの、今日は家で五年生のお兄ちゃんとゲームしたいって。そんなん言うの、今日が初めてだった」
「おばさん、オセロやりませんか」
「おーいいよ。やろうやろう」
私は朋樹にはまだ負けたことはなかったが、敬太くんにはあっけなく負けた。
「おかしいなぁ……ここを取ったのに、どうしてこんなに取られちゃったんだ、不思議だなぁ」
私はある程度の勝ちパターンを押さえていると思いこんでいたが、通用しなかった。敬太くんの方が何枚も上手だったのだ。
「やっぱり、謙虚さや初心は忘れちゃいけないね」
私がそう言うと、
「初心、忘るべからず!」
敬太くんが急に大声を出すので、驚いた。
「すごいねぇ、敬太くん、難しい言葉知ってるんだ」
「国語辞典毎日読んでます。ことわざ辞典も」
「へぇ、すごい」
楽しみな子だなぁと思った。パズルなど、好きなことには常人離れした集中力を発揮しているし。
「あ、もう四時半ですね、帰ります。今日療育なんです」
「あっ、そうなの?気を付けて帰ってね」
玄関まで見送り、佐藤さんに、「敬太くん帰るみたいです」と伝えた。
「敬太くん、気を付けて帰るんよ、寄り道しないでね、お母さん心配するからね」
佐藤さんは口うるさいほどに敬太くんに声をかけた。
「敬太くん、気を付けてね」
私は手を振った。
「樫村さん、私五時までに何か所か電話しなきゃいけないんで、それ終わったら、和室行きますね」
「あ、はい!」
和室はきれいに片付いており、もう掃除の必要もなさそうだったので、私は掃除機をかけた。
その後、会議用のテーブルを畳んでいると、佐藤さんが和室に飛び込んできた。
「樫村さん……さっき敬太くんのお母さんから電話があってね、まだ家に帰ってないって連絡が来て。ここ出たの四時半やったよね」
時計を見ると、四時五十五分だった。
「はい、敬太くんって三丁目ですよね。それなら十五分もあれば着きますもんね」
「ああ、やっぱりどこか寄り道してしまってるのかしら。樫村さん、ごめんなさい、心配だから見てくる」
「あ、私はいいんですけど……だけど敬太くんのお母さん、家にいるなら、出てきて一緒に探してくれたらいいのに」
「ええ、まぁそうなのだけど、実は、ちょっと話が通じないところがあって」
「そうなんですか……じゃあ、私は片付けしながら待ってますね」
「ごめんなさいね、急いで戻ります」
私が行ったほうがよかったんじゃないか、と思いながら、福祉のサービスはいくらあっても足りないなと、テーブルを倉庫に運びながら考えていた。
「樫村さん、一人なんですか」
突然、信輔くんが現れた。
——なぜ、こんなことになってしまったんだろう。私はただ、温度のある会話を、したかっただけなのに。
「支援」を「承認欲求を満たすための手段」だとはき違えてらっしゃいませんか——
桂木さんの言葉が頭の中の響いた次の瞬間、プツンと消え、目の前がまた暗くなった。
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