【小説】「誰も見ていないところで」第十一章
犯人の悔恨
その日は朝から、何かが壊れてしまうんじゃないかという不安をかすかに感じていた。
やるせなさや焦り、そしてもうどこにも行き場のない怒りが、体の奥でグツグツと煮えたぎり、これ以上ないほどに煮詰まっている、そんな日だった。
一年の三学期から付き合っている優華から、放課後に話があるとLINEが来たので、帰りに玄関で待っていた。
同じクラスで可愛いと思っていた子から告られるという信じられないミラクルが起き、俺は一気に普通の高校生の幸せを味わう生活に変わった。
平日の放課後は一緒に過ごし、一瞬で着くけど毎日駅まで一緒に帰って、お互い反対側の電車に乗る直前まで、ベンチに座ってしゃべる。そんな最高の高校生活に。
ただ俺には五歳の妹、りんながいて、平日は五時半までに保育園のお迎えに行かなきゃならない。優華には塾と家の手伝いがあるから五時半までに帰らなきゃいけないんだと嘘をついて。
だけど、春休みの平日には優華とほぼ毎日デートできた。本当に幸せだった。親や近所の人にはバレたらまずいから、電車とバスを乗り継いで萱野辺プラザに行って、一日中一緒に過ごした日は最高だった。
高二になって、クラスが変わってしまって、俺は落ち着かなくなった。優華が他の男を好きになったらどうしようという焦り。優華も同じように思ってるらしい。
——もっと会いたいのに。一番の悩みは、土日に会えないことだった。なにしろ父さんは、生活費だけは入れてるけど全然帰ってこないし、母さんは平日に仕事をかけもちしてて遅くて、さらに土日はどっか行っちゃう。
俺だけだったらよかったのに。りんながいるから俺はどこも行けない。もう五歳だから家でYouTubeでも観てれば二時間くらいは大丈夫だけど、それ以上はちょっと無理。
自由な時間がもっと欲しかった。母さんには、「誰のおかげで学校行けると思う?」とか、「りんなの世話もできないなら、高校の学費払わんぞ」とか言われる。
最近保育園のお迎えの時間がちょっとすぎてしまうことが続いて、前の日に母さんからめちゃくちゃ怒られた。お前彼女いるんじゃないだろうな、とまで。
彼女がいるなんて言ったら、泣き暴れて、りんなと私を捨てる気か!とか絶対言い出す。もう完全におかしい。
母さんにも優華のことを知られたくないし、
優華にもうちのことは知られたくなかった。絶対に。
公民館に行って地域の子たちと関わるのは楽しくて、「りんなの世話役」じゃなくて、自分がちゃんと「信輔」として必要とされてる感じが心地よかった。ちゃんとしてる、しっかりしてる、って言われるのも嬉しかった。
親が非常識って言われても、俺は違うって思われたかった。
なのに、あの人たちに、「ヤングケアラ―」とか言われて——
ヤングケアラ―って、なんだよ。障害のある親とかの介護をして全然外に出られないような若者のことだろ。俺は普通に高校も行ってるし、彼女だっているし、ただ妹の世話がちょっとあるだけだから、違う。
そんな名前を勝手に付けられて、ひとまとめにされたくない。
優華が階段を下りてきた。
沈んだ顔をしていて、俺は嫌な予感がした。
「信輔、もう無理。別れよう」
こんな予感ばかりいつも的中する。
「ちょっと待って。別れたくない。急になんで?」
「全然急じゃない。前から言ってる。信輔、バイトもしてないし、部活もしてないのに、土日会えないって……なんで?いつもごまかして、ちゃんと答えてくれへんし。怪しすぎるし、もう無理」
「あぁ、もう……」
「ねえ、ほんとになんなん?なにを隠してるん?私のこと好きじゃないならそう言って。もうこれ以上、信じたいのに信じられないって苦しいんやから……」
優華は泣いてしまった。
どうしたらいいんだろう。どんな解決策があるっていうんだ。
不安にさせないためにできることなら、号泣でも土下座でも裸ダンスでもなんでもしたいくらいだった。ほんとのこと言っちゃった方がいいか、とも思う。
——言えない。
言ったら絶対「信輔、うそでしょ」「普通じゃないよ」ってドン引きされる。
破局する未来しかない。
りんなを連れてデートでもいいかって何度も喉元まで出かかった。でもどうしても言えなかった。どう考えても普通じゃない。普通の高校生はそんなことしてない。
「それに、おそろいで買ったエスバニのキーホルダーどこ行ったん?なんでなくすの?」
「なくしてなんかない。家にある。妹が取っちゃったんだよ。家にあるから!」
エスターバニーは、女子中高生に人気のあるウサギのキャラクターらしくて、萱野辺プラザでおそろいで買ったものだった。
俺は正直興味ないし、なんならちょっと恥ずかしいんだけど、優華がおそろいでつけたいというなら、もちろんその通りにする。
「ホントに?」
「あぁ、ホントだよ」
「じゃあ信じる。明日絶対リュックに付けてきてよ。もしつけてこなかったら、もう本当に終わりだから」
「えっ、わかったよ」
風山駅に着いて、俺は歩きながら必死に考えていた。
優華にはあんな風に言っちゃったけど、実は家では見つけられずにいる。先週、大掃除もしたのに。
あ、公民館は?もしかしたらあそこにないか?
「あ、敬太」
保育園は公民館の裏にあるが、その手前に食品スーパーがある。
そこに、敬太が入っていくのが見えた。その後ろから佐藤さんがあわてた様子で、敬太を探している。
「あ、また……」
だけど、俺はふと思った。
エスバニのキーホルダーを俺が持ってたら、彼女いるってバレるんじゃないか。女子に人気のウサギのキャラなんて、俺が持ってたら不自然だし。
今なら公民館、無人状態だろうから落とし物箱からサクッと持ち帰っちゃおう。佐藤さん、敬太、ごめん。見ないふりして……
公民館に寄ったら、ビンゴだった。箱にあったのを見つけて、「おーっ」と歓声をあげた。よかった。これで優華と別れないで済む……
ふと、倉庫で誰かが片づけている様子が見えたので、入っていった。
「わっ、びっくりした」
「樫村さん、一人なんですか?」
「そうだよ、信輔くんこんな時間にどうしたの?」
「あ、はい。いや……ちょっと探し物。でもあったんで」
「そう!よかったね。そうだ、信輔くん。よかったらこのお赤飯、持って帰らない?りんなちゃんと食べてよ」
「お赤飯……」
「お赤飯、好きじゃない?」
「あ、実は食べたことなくて」
「そう、じゃあよかったら食べてみて」
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
正直、樫村さんから何かをもらうのは気が引けた。
悪い人じゃないけど、うちと揉めたことあるし、母さんもなんかすごい嫌ってる。うちのケンカも全部聞かれてると思うと、気まずさしかない。
だけど、りんなに作る手間が省けるのは良かった。俺はリュックにしまった。
樫村さんは、床に置いてある印刷物の束を棚の上に載せる作業をしていたが、疲れたのか、ふぅ、と言いながら床にしゃがみこんだ。
「信輔くん、探し物ってさ、もしかして、あの落とし物箱のウサギのキーホルダーだったりしない?」
「え、なんでわかったんですか」
「わー当たり?落とし物箱にあったあれ、中高生の女子に人気ってSNSで知って。なんとなく、信輔くんが彼女とおそろいでつけてるんじゃないかって」
「彼女ってなんで……俺、彼女なんていません」
何言ってんだ、と思った。カマかけてるのか?
「うそ?あれ、そうか。前に萱野辺プラザで、信輔くんが彼女らしき人と一緒にいるのを見かけた気がしたんだけど、別人かな」
まさか。見られてた。
せっかくあんな遠くまで行ったのに。しかもよりによって、隣人に見られるって……。
「あ、大丈夫だよ、誰にも言わないからね。もちろんお母さんにも」
笑いながら樫村さんが言った。
そのとき、頭のなかで何かが壊れた音がした。
母さんが優華のこと知ったら、何するかわからない。泣き叫ぶだけならまだしも高校やめさせられるかもしれない。樫村はそこまでわかってるのか……?
「……なんですか。もしかして、俺のこと脅してますか?」
「え?」
「俺にご飯くれて、俺の秘密も黙っとくからって。完全に弱み握ってるって言いたいですか?」
「信輔くん、なんで。そんなわけない、そんなつもりないよ」
「うちの親がおかしいって手紙書いてきたじゃないですか、それに、うちの親が騒いでるとき、いつもあんたは窓から監視してる」
「監視って……私は、ただ何事かと見ることはあるよ、りんなちゃんや信輔くんが大丈夫かなって思うこともあるし」
「そういうのがウザいんですよ!善意振りかざしてるけど、結局はただの傍観者じゃないですか。野次馬の方がまだマシ」
「やだ、そんな風に思わせたなら、ごめんなさい」
俺は今までの抑え込んでいたものが止まらなくなっていた。おそらく、誰にもぶつけてこなかった不満や怒り。
「だいたいあんただって、ここでは浮いてますよね」
「え……何?」
「桂木さんたちからハブられてんやん。今まで悪口も聞いたことあるよ。今日だってこんな一人で片付けって、いじめられてるでしょ」
「……そうかな」
「ハッキリ言って、すぐ人の話に土足で踏み込んでくるところ鬱陶しいよ。だから周りから浮いてんやろ。ほんまウザい」
「なんでそこまで……じゃあ信輔くんはどこでもまったく浮いてないの?みんなと一緒なの?別に違ってたっていいでしょう!」
樫村は怒りの目をこちらに向けた。
黙れ——
そう思った瞬間にはもう、引き返せないところにいた。
それまでしゃがんでいた樫村が立ったと思ったら、フラっと壁に手をついて、またしゃがんだ。
気づいたら棚にあった災害用ロープで、俺は後ろから、樫村の首を持ち上げるように強い力で締め上げていた。
怖かった。もうここまで来たら完全に引き返せない。そう思うと腕により力を込めた。自分の脳内だけがやけに静かだった。
樫村は暴れた足で近くにあった段ボールを蹴とばしたけど、すぐにぐったりした。
——殺すつもりはなかった。ただ、黙ってほしかった。
これから俺は幸せになるんだから、やっと。
物干し用のフックに、結んだ災害用ロープをひっかけて、彼女が首をつったみたいにした。信じられないほど冷静だった。
樫村が蹴とばした段ボールを積み上げて、蹴って崩して、まるで踏み台にしたみたいにした。
おそらくわずか十分くらいの出来事だった。
俺は急いで公民館から出た。
そのとき、俺はエスバニのキーホルダーを落とし物箱から持ってこなかったことに気づいた。でももう引き返す余裕はなかった。
それのために来たのに、なぜか取り返しのつかないことを。何をやってるんだ、俺は——
何食わぬ顔で、保育園までりんなを迎えに行った。
帰宅してから、もらった赤飯を捨てるつもりだったのに、りんなが勝手に俺のカバンを開けて食べ始めてしまった。
気持ち悪かったけど、実際はご飯を作る手間が省けてよかった。どうせ今日も親は帰ってくるかわからないし。
りんなが「甘い、おいしい」って言いながら食べていた。こんな黄色い豆のご飯を赤飯っていうのか。
食べたことないから、俺はこれが赤飯なんだと思ってしまった。
俺は一口も食べなかった。
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