【小説】偽りなき偽善 #2
旭川を出発して十分ほど経った頃、トンネルへ入った。窓ガラスに映る自分の姿にふと目を見張る。
気づいたら四十歳になっていた。三十代前半までは、二十代に見られることもあったのに、後半に差し掛かってからは、笑ったときの口元のシワや、写真に写る表情の疲ればかりが気になりだした。いよいよ自分が「おばさん」の域に突入したのだとショックを受け、アンチエイジング効果を謳う化粧品や、少しでもクオリティが高く見える「高見え」の服を選ぶようになった。
二十年ぶりの同窓会に着て行ける服など、我が家のクローゼットには一着もなかった。だから今朝、開店と同時に私は旭川駅近くのファッションビルに駆け込んだ。何着か試着して選んだのは、一枚で着映えするブルーのパフスリーブのワンピース。二の腕を隠し、エレガントにも見える、いい買い物をした。
トンネルを抜けた頃、生徒会メンバーだった松岡大樹のことをふっと思い出す。放送委員長で、中学三年生の秋から一年間付き合った、初めてのボーイフレンド。本当に好きだったけれど、進学した高校は別で次第に心も離れていき、最後は私から別れを告げた。もっとも大樹は別れ話をすることすら面倒で、自然消滅を狙っていたのかもしれない。当時は喪失感でいっぱいだったが、若さゆえ気持ちの切り替えは早く、私はすぐに高校のクラスメイトに夢中になった。その後、二、三度ばったり出くわすことがあったけれど、それきりだ。大樹は今日来るのだろうか。結婚しているだろうか。子どもは? 大樹は私のことを時々思い出したりするだろうか。私を見て、彼はどういう反応をするのか知りたい。彼に会えると思うと、急にあの頃の高揚感に包まれている自分に気づく。
生徒会で会計だった飯田くんも来るだろうか? これまでの人生を振り返ると、彼ほど私に執着した男はいなかった、と思う。当時は少し気味悪さもあったけれど、今は懐かしさしかない。むしろ、当時の自分を羨ましくさえ思う。東大理学部の大学院に行った彼は、今は大手製薬会社で次世代の医薬品開発をしているとフェイスブックで知った。きっと今の私とは話題も合わず、会話も成り立たないだろう。でも、もし、もしもまだ心のどこかで私を想っていたとしたら……? なんて。自分でも呆れてしまう妄想を止めることができない。彼を好きになれたらよかったのにと、SNSで彼のプロフィール画面を睨みながら地団太を踏んだ二十代の頃が懐かしい。
十代の頃から結婚する前までは、濃度の差はあれ、常に「恋」に囲まれて暮らしていた。なのに結婚し、子育てに追われる日々のなかで、いつしか「恋」という感情はその存在自体が消滅していく。「恋」から派生して選んだはずの結婚というシステムにおいて、どうして「恋」だけが生き続けられないのだろう。その矛盾にどうしようもなく人生の儚さを感じ、私はときどき、心の奥からかつての「恋」を取り出してはしげしげと眺めたくなる。何度も見返すから記憶そのものは鮮明だと思っているが、もしかすると都合よく作り替えてしまっている可能性だってある。こんな話を誰かにしたところで理解してもらえるわけはなく、もちろん誰にも明かしたことはない。
物思いにふけっていると、あっという間に札幌駅に到着した。半年ぶりの札幌。一時間半ほどで帰れるが、実家にはお正月の数日しか帰らなくなって久しい。今回も同窓会のあとはとんぼ返りの予定だ。
同窓会の開宴時間は十八時。会場は、駅から徒歩十分もあれば着くホテルだ。今はまだ十七時を少し過ぎたところだったので、大丸へ立ち寄る。高飛車な表情で並ぶバッグや靴を眺めた後、化粧室の個室で持参した固形の制汗剤を脇にグルリと塗り、メイクを念入りに直した。
外に出て、夕方のひんやりとした札幌の空気を思い切り吸い込んだ。旭川駅前とは違う匂い。うまく表現できないが、札幌のほうが都会の香りが強く、緑の匂いとのバランスが黄金比だと思う。もう数週間早ければ、大通公園のライラックまつりやよさこいソーラン祭りに間に合ったのか、と思い出した。札幌で暮らしていた頃だって毎年来ていたわけではないのに、離れると恋しさが増すのは私の性分なのかもしれない。
同窓会の会場へ向かい、私は歩き出した。二十歳のときは地元の安い居酒屋だったから、時間の経過と共に自分たちの「ステージ」が変わったのだと突きつけられているようだった。しかし、変わったのは世間的な器だけで、私自身の中身は少しも伴っていない。あの頃の、賑やかで気楽な居酒屋のほうがよっぽど身の丈に合っていたのではないか、と不意に気後れが首をもたげる。二十年という長いはずの、でもあっという間の時間。もしも私の半生を描いた朝の連続テレビ小説があったとしたら、この二十年間はきっと、二ヶ月……いや、一ヶ月の放送枠で十分足りてしまう気がした。
ホテルの会場に着くと、五時四十五分になるところだった。同窓会の開始まで十五分。驚くほどの懐かしい再会がいつこの身に訪れるかと思うと、急に緊張に包まれる。受付をしている三人の女性には、見覚えがあった。しかし名前は思い出せない。なにせ一学年八クラス、三百人以上いる学年だったのだ。同じクラスになったことがなければ尚更思い出せるわけがなかった。確か、地味なグループの子たちだったような……
「塩沼、あ……逢見馨です」
「あぁ、二組の逢見さんですね。会費は八千円になります」
久しぶりに名乗る旧姓に不思議な感覚を覚えつつ、八千円という金額について考える。専業主婦の自分には高く感じるが、四千円だと居酒屋価格なのを考えると、こんなものかと思い直す。それに、懐かしい特別な時間への入場料だと思えば安いくらいかもしれない。
横で、男性の同級生が受付をしていた。私と同額を支払っている。そうか、今時、男女差はないのか。社会と離れている間の変化に自分がついていけていないような気がした。
会場に足を踏み入れた。天井が高く、中学校の体育館が丸ごと入りそうなほど広々とした空間に、きらびやかなシャンデリアの光が降り注いでいる。ざっと見渡したところ、集まっているのは六、七十人といったところだろうか。入り口に用意されたウェルカムドリンクのトレイを前に一瞬だけ迷い、私はウーロン茶のグラスに手を伸ばした。アルコールは、もう少し後にしておこう。
「あ、恭子……」
パーティー会場のステージ近くに恭子が見えた。幹事の彼女はホテルの会場の人たちと話したり、同級生に声をかけられたりしながらせわしなく動いていた。手伝い役はいるのだろうか? 同じ生徒会メンバ―だったにもかかわらず、私がその役に選ばれていないことに、なんとなく居心地の悪さを覚えた。でも中学を卒業してから彼女とは一切連絡を取っていなかった。きっと彼女が私のことを心から信頼してくれることは一生ないだろう……
紺色のパンツスタイルのスーツ姿。恭子らしいなと心の中でつぶやく。化粧っ気がないせいか、中学生の頃とほとんど雰囲気が変わらない。ショートカットで、彼女はあの頃から健康的なツヤツヤした肌をしていた。今、ほんのポイントメイクしかしていないことが、少し離れた距離からでもわかる。こんな数十年ぶりの同窓会ですらめかしこまない彼女に、なぜだかうっすらと妬ましさを覚えた。私は赤みを抑えるためにコンシーラーを塗り、つややかに見えるよう、フェイスパウダーを幾重も乗せてきた。だって、今日は二十年ぶりの同窓会。田舎町に急遽現れた期間限定の特設サーカスのような舞台。もしまた二十年後にやるとしたら私たちは六十歳、もう「老人」の域に入っていく。今ならまだ私は「女」として通用するのか、同級生やかつてのボーイフレンドから見た自分はどう思われるのか知りたい。もしや、恭子はそんなことには興味がないのだろうか。恭子だって大樹のこと好きだったのに──
あまりにじろじろと見すぎたせいか、恭子が私に気づいて手を上げ、近づいてきた。
「馨! やー久しぶりだねぇ。元気だった?」
「恭子、久しぶり……全然変わらないね。今日はありがとう。わざわざ旭川まで招待状送ってくれて……」
恭子は私の全身を上から下までサッと眺め、また顔のところに戻ってきた。まばたきでもすれば見逃していたと思うほど一瞬のことだった。悪意はないと思いたいが、まるで私の人生をスキャンして読み込まれたようで、いい気持ちはしなかった。
「恭子今、何してるの? バリバリのキャリアウーマンって感じ」
そう言ってから、少し後悔した。表現があまりに野暮ったい。それにもし同じことを聞き返されたら、自分は平凡な専業主婦だと言わなくちゃいけなくなる──
「今、中学校の教頭やってるの」
「えっ、恭子が教頭先生? この若さで?」
「今、五十代の層がスカスカで、四十代で教頭もそんなに珍しいことじゃないの」
「へぇ、そうなんだ。教頭先生と言えば五十代のおじさんをイメージしちゃうけど」
そういって笑い合ったが、恭子にうっすらと自慢の色が浮かんだように見えた。この場を早く離れなくては。そうしなければ、恭子にマウンティングされてしまう。「好きな人を横取りした女」が落ちぶれてるなんて思われたくない──
「あ」
幸い私は、遠くに同じ生徒会の仲間だった同級生を見つけた。
「あ、あっちに元図書委員長がいた。ちょっと行ってくるね。今日は本当にありがとう」
離れてから、恭子に訊きたかったことを思い出す。今日は何人くらいが来るのか、恭子は一体何人に連絡をしたのか……大樹にも直接連絡をしたのか。そして、私は今日、この場に誰が来るのかをイメージしきれていなかったことに気づいた。それはそうだ。娘のことで頭がいっぱいだったのだから。私は元生徒会メンバーにばかり気を取られていたけど、そういえば、三年二組のカーストトップにいた女子たちも来るのだろうか。あの頃は「カースト」なんて言葉はなかったけれども。
彼女たちに会いたいとは思わない。どちらかというと会いたくない。でも、どうなっているかは見たい。マジックミラー越しに見物だけ出来たらいいのに、と思う私は性格が悪いだろうか。
元図書委員長のことは見失ってしまい、周りを見回していると、二、三年生のときに同じクラスで、教室でよくいっしょに過ごしていた宏美を見つけた。彼女もナチュラルメイクだからか、すぐにわかった。
「宏美、久しぶり!」
声をかけると、「あっ」と小さく声を漏らし、宏美は遠慮がちに私を見た。おとなしい子だったけど、変わっていない。無難な紺色のワンピースを着ていてホテルのスタッフと見間違いそうだ。
「元気だった? 札幌に住んでるの?」
そんな質問をしてみたが、私は宏美が今どこに住んでいるのかなど驚くほど興味がないことに気づく。私のそんな思いを見透かしたのだろうか、宏美は、「ごめん。恭子の手伝いに行くね」と、その場から去った。そうか、宏美が手伝い役の一人か。そういえば、宏美は恭子と中一のとき同じクラスだった。それに、二人は同じ高校に行ったんだっけ──
宏美が去った後、自分は誰からも相手にされないのではないかという空虚な不安に駆られた。まもなく開宴。もしもつまらなかったら帰ればいいか……でもせっかく旭川から出てきたのだ。できたら楽しんで帰りたい。
入り口がざわついている。見ると、大柄な男性が入ってきた。
「おー!」「お前、太ったんじゃねえの」などと声をかけられている。
──大樹だ。
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