花の行方(5)第三話「行方」
「離れ、建て替えるってよ」
夕方。
仕事終わり。
自宅近くの公園のベンチで、
缶コーヒーを飲む。
カラスの鳴き声。
気持ちの良い、風。
木々や、草花が揺れている。
花壇の花たちも。
目をそらす。
さっきチラッと見えた、
メッセージ。
上の妹、麻美からのLINEを、
もう一度見る。
「美子から聞いた?離れ、建て替えるってよ。
解体するから、いるもの取りに来てほしいって」
「聞いたよ。分別手伝えってことね」
「全部捨ててもいいなら、
来なくてもいいけどネ」
「土曜に行くわ。
おかあさんにも、しばらく会ってないし」
「私は土曜は行けないからね」
「いいよ。適当にやっとくで」
「あのね。ちょっと、びっくりしないでよ。
じゃあ。土曜、お願いします」
「了解」
画面を見つめたまま、しばらく止まる。
缶コーヒーを飲み干し、腰を上げた。
風呂上がり。
「里咲。
この週末、実家行くわ」
「ついていこうかな。
私も久しぶりに、おかあさんにも会いたいし」
「ほぼ、粗大ごみの仕訳の手伝いだぞ」
「わかってますぅ」
「ありがと」
「でも、道具は用意してよ。
軍手とか、袋とか」
「かしこまりました」
週末。
「ただいま」
玄関を、開ける。
中から、大きなテレビの音。
居間。
テレビ前のソファーに、
母の後ろ姿。
「ただいま」
「…」
近づきもう一度、
「ただいま」
振り向く。
「あぁ~。
お兄ちゃん、いつ来たの」
「いま着いたよ」
「あらぁ。
里咲さんも来てくれたの」
「お久しぶりです」
「ケーキ、買ってきたよ。食べる?」
「食べる」
ゆっくりと、立ち上がる。
カッカッと、杖をつく。
ソファー裏のテーブルに腰を下ろす。
「また、釣り?」
「今日は違うよ。離れ、壊すんだってね」
「麻美が、必要なもの、取りに来いって」
「壊すの?」
「聞いたでしょ。美子に」
「そうね」
「離れ、壊して、
美子がこっちに住むって」
「うん」
「…」
「さぁ、食べよ」
「おかあさんは、これね」
「うん」
「今話題のやつ!並んで買ってきたんだよ。
どう?うまい?」
「美味しいよ」
ケーキの欠片。ポロポロ。
「カフェオレ、あるよ」
ストローを差して、渡す。
母、ストローをくわえる。
「ゴクゴク」
「ズー、ズー」
飲み干す。
「早いよ」
笑う。
「んじゃ、あっち、行ってくるわ」
「後で、行くね」
「うん」
仏壇に、手を合わせる。
縁側からの眺め。
土と枯れた雑草だけの花壇。
「…」
父が建てた、離れ。
錆びた、狭い鉄骨の階段。
手すり、ひどいサビ。
壁、塗装が剥がれている。
触らないように、上がる。
懐かしく響く、
階段の音。
扉を開けると、パラパラと粉が降ってくる。
手で払う。
土足で入る。
布団や服で、
埋め尽くされた廊下。
右手、麻美の部屋。
左手、南向きのリビング。隅に美子の机。
もっと広かったはず。
様々な生地。
散乱。
古い足踏みミシン。
壁の、エアガンの穴。
覚悟した、ゲンコツ。
右手奥の、私の部屋。
ホコリだらけの学習机。
壊した、電動鉛筆削り。
シールだらけのタンス。
ステレオ。
30万円。父に渡された。
「電気屋に、自分で払え」と。
本棚。
見覚えのある、黒い金属の背表紙。
アルバム。
「ふーっ」
すごい埃。
ペリッ、ペリッ。
分厚い表紙を開く。
ベージュの厚紙に、
母の字。
「史郎 誕生」
めくる。
モノクロームの写真。
ダチョウの頭のような頭髪。
四角く、パンパンの顔。
タレ目で笑う、赤ん坊の私。
抱く、若き日の母。
めくる。
どれも、
小さい頃の私。
どの写真にも、
小さい私がいた。
そのすべてに、
母の手書きの短い言葉。
庭の写真。
井戸。
柿の木。
小さい畑。
手作りのブランコ。
写っているもののほとんどが、
もうない。
花壇。
紫陽花。
サルビア。
パンジー。
水仙。
チューリップ。
マーガレット。
そういえば。
母は、花が好きだった。
忘れていた。
庭に花壇を作って、
花を育てていたこと。
公園で、
蓮華やシロツメグサを摘んでは、
母に渡していたこと。
ある日、
大きな花を持ち帰った。
道から見える、
よその家の庭に咲いていた花。
どうしても、
母に見せたかった。
母は、
少し困った顔をした。
「どこに咲いてたの」
バス停の前の家。
そう答えると、
母は私の手を引いた。
その日の母の手を、
覚えている。
その花が、
いつしか庭に咲いていたことも。
少し大きくなると、
母の日に、
カーネーションを渡したこと。
いつからか、
渡さなくなった。
母は、
一度も催促しなかった。
そのことだけは、
思い出せる。
きっかけは、
思い出せない。
居間。
テレビの音。
母は、
さっきと同じ場所にいた。
テレビを見たまま、
言った。
「終わったの?」
「うん」
「今度、どこかご飯食べに行こうか」
「何がいい」
「美味しかったね」
「ん。何が」
「ハンバーガー」
「この前買ってきたマックのこと?」
「食べたでしょ」
「次に食べに行くところだよ」
「なんでもいいよ」
「…」
ガラッ。
「おっ、美子」
「どう?進んだ?」
里咲が、軍手を外しながら、
外を指した。
「この人が役に立つと思う?」
「外の袋、全部私だよ」
「アルバム見てただけ」
「ははは」
「ははは、じゃないわ。
まぁ、わかってたけどね」
「さて、そろそろ帰るね。
また来るね」
母、「ん?」
「また来るでね」
小さく手を振る。
「また、おいでね」
小さく手を振り返す。
車。
シートベルトを引いた。
美子が、
窓の外から声をかける。
「なー」
「ん?」
「おっかあ、いつからあんな感じ?」
「ちょっと前からね」
「びっくりしないでよって、これのことか」
「おねーちゃんが、言ってた?」
「うん」
「そうか」
「そろそろ、
一人暮らしは心配だからって、
おねーちゃんと良さそうなところ、
探してるんだけど」
「…」
「また、様子、教えて」
「今度、いつ来る」
「ちょっと忙しくなってきたから、
ひと月後くらいかなぁ」
「再来週くらいに、
離れ、壊しちゃうからね」
「そうか、早いな」
「うん」
「私も、ここに入るって決めたから」
「そうか」
「ずいぶん遠回りしたけどね」
「……そう、だな」
「まあ、ちょうどいいの」
「おかあさんの近くにもいられるし」
「うん」
「美子ちゃん、またね」
「じゃあね」
夜。
「おやすみ」
「おやすみ」
静かになった、リビング。
水割りを作る。
持ち帰った、
アルバムをめくる。
とても、古い。
写真の四隅のシールが、
乾いている。
ページをめくるたび、
写真がはらりと落ちる。
母の写真は、
少ない。
母が、
撮っていたから。
ほとんど、
私だけの写真。
水割りを、口に含む。
めくる。
まとめて挟んである写真。
一枚ずつめくる。
手が止まる。
ピンボケでもわかる、
母の笑顔。
撮影者はきっと、
私。
麦わら帽子。
スコップ。
花壇の前に、
しゃがむ、母。
たくさんの花たち。
「花、かぁ」
数日後。
美子から、LINE。
「解体工事、始まってる」
「今日見に行ったら、
半分くらい、もう家がなかった」
「なくなる前に見せた方がいいかなと思って、
おかあさんを外に連れて行ったの」
「屋根が壊れるのを見たとたん、
口がへの字になって」
「目、真っ赤になってきたから、
すぐ戻った」
「座らせて、
カフェオレ飲ませたんだけど」
「落ち着いた?」
「悲しくなっちゃったの?」
「何が」
「すごい音、聞こえてるでしょ」
「何かしてるの」
「今、外で見たでしょ」
「何を」
「……って」
「こんなの見せたから、
進んじゃったのかな」
「マジか」
「それで、
ひとりにして大丈夫なのか?」
「おねーちゃんと相談する。
ちょっと心配だから」
「すまん。
週末になっちゃうけど、行くわ」
「頼むね」
「うん」
夜。
スマホを開く。
生花。
花束。
プレゼント。
おまかせ。
ゴージャス。
検索。
華やかな花束を、
注文。
お届け先は、
実家。
これで、よし。
そう思った。
週末の実家。
父の建てた、離れ。
更地に。
思っていたより、
広い。
玄関。
テレビの大きな音。
「ただいま」
居間。
破れた包装紙。
倒れた箱。
変色した花束。
受け取ったはずなのに、
届いていなかった。
母はソファーで、
ガーデニングの動画を見ている。
足元の花を、
拾い集める。
「ただいま」
「あぁ、お帰り」
「離れ、無くなっちゃったね」
「ん」
「…」
「また、そんなの見てたの?」
「うん」
「高倉健でも、見るか」
「うん」
麻美から、LINE。
「下見、行ってきた」
「ケアマネさんも、ここがいいよって」
施設の名前と、
食事の写真が送られてくる。
最後に、
「ひどい怪我をしないうちに、決めちゃう?」
しばらく見て、
「わかった」
と返す。
「いい?」
「……任せる」
「じゃあ、決めるよ」
「入所の日、休みもらう」
「俺が行く」
「お願いします」
スマホを伏せる。
「制服の高倉健。かっこいいね」
「なんか、親父に似てない?」
「似てない」
「カフェオレ、飲む?」
「うん」
ストローを刺して、渡す。
母、ストローをくわえる。
「ゴクゴク」
「ズー、ズー」
飲み干す。
「早いよ」
後日、
入所日の連絡。
前日の夜。
アルバムをめくる。
手が止まる。
昔の玄関。土間。
下駄箱の上の、花瓶。
挿してある、一輪。
白黒の、小さな写真。
でも、覚えている。
丸くて、
大きくて。
よその家の庭から、
勝手にもいできた花。
母に、見せたかった。
一緒に、頭を下げに行った花。
その花が、
玄関に飾ってあった。
——その花の名前。
思い出せない。
早めの朝。
「一緒に行こうか?大丈夫?」
「うん。今日はひとりで行かせて」
「ありがとう」
「じゃあ、気をつけてね。行ってらっしゃい」
頷く。
エンジン。
ラジオ、切る。
窓、少し開ける。
風。
木々のざわめき。
向かう。
花屋。
駐車場で、開店を待つ。
いろはが出てきて、
店先で伸びをしている。
車を降りる。
「あの、すいません」
「はい。おはようございます」
「まだ開店前なのは、わかってるんですけど」
写真を出す。
「この花、わかりますか」
いろはが、写真をのぞきこむ。
「わぁ……古い写真ですね」
「ちょっと、明るいところで見てもいいですか」
店内。
いろはが、写真をじっと見る。
「パパ、この花、ダリアかなぁ?」
「店長と呼べって」
「ん、どれ」
「白黒なのか。ちっさ」
「ちょっと待って」
奥から、メガネを掛けてくる。
「どれ、どれ」
「百日草……ではないな」
「たぶん、ダリアだ」
いろはが、こちらを見る。
「ダリアだと思います」
手で案内する。
「こちらが、そのダリアです」
「どうです?」
本物を見ても、
思い出せない。
「じゃあ、それを花束にして欲しいのですが」
「今日、いただけますか」
「お急ぎですか」
「母を、迎えに行くんです」
「今日、施設に」
言葉が、
少し止まる。
「母は、花が好きだったんで」
「何か、持たせたくて」
「これで、大きくて、華やかなやつ、お願いします」
「わかりました」
「でしたら、あまり大きすぎない方がいいかもしれません」
「あちらで、大きな花瓶も必要になりますし」
「よろしければ、
私に任せていただけませんか」
「あっ、是非。お願いします」
レジ横の仏花に、
目が止まる。
「これも」
いろは、うなずく。
「では、またあとで、寄らせていただきます」
車に乗る。
バックミラー。
深々とお辞儀をする二人。
いろは、
ダリアの花束の仕上げ中。
集荷のお兄さん。
「毎度~」
「あ~。お疲れさんね。
そこにあるやつね」
奥を覗く。
いろは。
花束に両手を添えて、
目を閉じ、
おでこを花束に付けている。
「今日は、これで全部ですか」
「いろはに聞いて~」
いろはが、花束を持って来た。
「それは?」
「これは、いいの」
「ふ~ん」
「ありがとうございまーす」
実家。
すでに、麻美の車。
玄関を、開ける。
「おはよう」
「あっ、おはよう。早いね」
「うん」
「美子は、施設で待ってるって」
「そうか」
「ちょっと待っててね」
「うん」
縁側。
庭を見る。
土と枯れた雑草だけの花壇。
「…」
居間。
台所。
客間。
見渡す。
仏壇の前に、座る。
花を供え、
手を合わせる。
立ち上がる。
長押の父と、目が合う。
「おまたせ」
振り返る。
麻美に手を引かれる、
母。
穏やかな顔。
「これで全部」
荷物を受け取り、
車に積む。
母の手を、受け取る。
小さい。
昔、この手に引かれて、
花を返しに行った。
謝ったのは、
母だった。
花を取ったのは、
私だったのに。
「じゃあ、おかあさん。行こうか」
麻美が、
後部座席のドアを開ける。
母を乗せる。
麻美が、更地を見る。
「おかあさん。
家に、ばいばいしようか」
更地を見る、母。
「ここ、何かあったかしら」
「離れだよ」
それ以上は、
言えなかった。
ドアを閉める。
「じゃあ、お願いね」
「うん。行くわ」
バックミラーに、
手を振る麻美。
その奥に、
自分の目。
花屋の駐車場。
「おかあさん、
ちょっと待っててね」
窓を、少し開ける。
風。
花の香り。
母、外を見る。
ドアノブをゴソゴソと触る。
「どうした?いっしょに行く?」
まだ、ドアノブを触る。
「行くか」
エンジンを止め、
母のドアを開ける。
手を取り、店内へ。
「カラン」
「いらっしゃいませ」
母は、手を離し、
花の方へ。
いろはに、会釈。
母は、上の花、下の花を、
ゆっくり見ていった。
いろはは、少し離れて、
その歩幅に合わせている。
「これは、なんてお花」
母が聞いた。
「…」
「それは、ラナンキュラスです」
「そう、とてもきれいね」
「そうなの!
私も、大好きなお花なんですよ」
「これは、なんてお花」
「それは、デルフィニウムです」
「こっちも、同じ種類なんですよ」
「これは、コスモスね」
「そうです。コスモスです」
「お庭でね。育てていたのよ」
「何度も枯らしてしまったけど」
母、笑っている。
「種まきと、お水やりが難しいですよね」
「私も、何回も失敗しちゃいました」
母、頷く。
「これは、ダリア」
「…!」
「そうです。
大きくて、華やかですよねぇ」
「お庭にね、
たくさん、咲いているのよ」
「…」
いろはが、
少し身を乗り出した。
「きっと、
素敵なお庭なんですね」
母、微笑む。
あの、白黒の写真。
土間。
下駄箱の上の花瓶。
一輪の花。
母の背中。
一緒に下げた頭。
その花が、
庭に咲いていたこと。
忘れていた。
ずっと。
膝から、
力が抜ける。
気づくと、
店長の腕をつかんでいた。
顎から、
ぽたぽた落ちる。
花屋の床に、
小さな点が増えていく。
店長が、
ティッシュの箱を差し出す。
二、三枚を取る。
拭いても、
また落ちる。
母は、まだ、
ダリアを見ている。
どれくらい、
そうしていたのか。
わからない。
「おかあさん、そろそろ」
肩に触れる。
「いろは」
奥から、店長。
「これ」
「うん」
受け取る。
「こちらになります」
きれいにラッピングされた、
ダリアの花束。
母、受け取る。
花を見る。
匂いを嗅ぐ。
「やっぱり、香りは弱いのね」
もう一度、花を見る。
「ダリアね」
微笑む、母。
いろはは、
前で組んだ手を、
ぎゅっと握った。
それから、
笑った。
「はい。ダリアですね」
「さぁ、行こ」
「ありがとうございました」
「本当に」
母の肩、手を添える。
「カラン」
「ありがとうございました」
花を抱え、車に乗り込む。
いろはが、
大きく手を振っている。
「……やっぱり、家に帰ろうか」
「なぁ」
振り向く。
母は、
ぼんやりと窓の外を見ていた。
エンジンをかける。
里咲から、LINE。
「大丈夫だった?」
返せないまま、
画面が暗くなる。
『花の行方』は、花を通して人の心の行方を描く連作短編です。
第一話から読む方はこちら。
