聞こえない「山の音」――成瀬巳喜男と身体のリアリズム
〜9月14日 09:30
原作をいかに「裏切る」か――翻案という映画的自立
小説などの言語表現を下敷きとして映画を制作する際、原作への「忠実さ」がいかなる意味を持つのかという問いは、映像表現の本質に関わる重要な命題である。言語による描写は、読者の内面における想像力の飛躍を前提として成立している。
一方で、実写映画というメディアは、俳優の身体や具体的な美術セット、実際の風景などを通じて、その表象を物理的な視覚情報として固定化する。
したがって、原作の筋立てや台詞を表層的になぞり、いかに「忠実」な映像化を試みたとしても、文字情報が喚起していた無数のイメージから一つの具体物へと還元される過程において、読者が抱いていた内的世界との間には必然的に構造的な乖離が生じる。
現代の翻案作品において、設定や配役に対する齟齬が頻繁に指摘される現象も、本質的にはこのメディア間の構造的な差異に起因すると考えられる。
では、原作者からの厳密な制約が存在しない場合において、映画監督があえて既存の文学作品を映像化する意義はどこに見出されるのだろうか。
1950年代から60年代にかけての日本映画の黄金期において、近代文学や現代の純文学を原作とした作品が数多く制作された背景には、産業的な要請と表現者としての企図の双方が存在していたと推察される。
映画会社にとって、すでに文学的評価の定まった、あるいは一定の読者層を獲得している原作を用いることは、企画の承認を得やすく、興行的な安定性を担保するための有効な手段であった。しかし同時に、現場の監督たちにとっての純文学とは、映画という大衆向けの娯楽媒体を、文学と同等の芸術的表現へと昇華させるための挑戦の対象であった。
ここで重要なのは、優れた映画監督にとって、原作は単なる映像化のための設計図ではなく、自身の映画的言語を構築するための「枠組み」として機能しているという点である。
近年においても、村上春樹の短編小説を原案としながら原作の記述の空白を映画独自の空間設計や身体表現によって拡張したイ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(2018年)や濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(2021年)などの事例に見られるように、原作の設定や特有の雰囲気を借用しながらも、映画独自の主題論へと展開させる手法が散見される。これを単なる上映時間を満たすための脚色と見なすのは、映像表現の自律性を看過する一面的解釈と言えよう。
むしろ監督たちは、短編小説が持つ意図的な「空白」や原作のもたらす権威を戦略的に活用し、自らの作家性や映像的な問題意識を展開するための足場として原作を選択していると見るべきであろう。
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8月15日 09:30 〜 9月14日 09:30
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