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閑話休題 仏と神と

*本のリンクを貼っていますが、アフィリエイトはやっていないです。
*今回は、認知行動療法とは関係なく、私のつぶやきです。

今回の言葉

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや 歎異抄

日本人は無宗教といわれている

皆様は神様、仏様は信じていますか?因みに私は典型的な日本人で、実家は仏教(曹洞宗)ですが、神棚もあり、海外の方からすると無宗教と言われる類の人間です。
ただ、学生時代から疑問に思っていました。なぜキリスト教ではない日本人が、ホスピスで終末期を迎えるのか。今でこそ日本のホスピスは宗教性がなくなっているものの、元はキリスト教の教えと共にある施設です。
キリスト教の教義よりも、日本人になじみのある仏教や神道の教えをもってした方が、終末期の精神的な痛み(スピリチュアルペイン)は癒せるのではないか、と思ったものでした。
そこで、浅学で、独学ですが、いくつか宗教にまつわる本を読んだりもしました。そうした本の内容と、うつ病の療養を通して感じたことを併せて、徒然なるままに書いてみたいと思います。

仏教について学ぶ

仏教に関わる本を読んでいると、難しい用語が沢山出てきます。私は哲学の本も少々読みますが、哲学書と言えるくらい、いわゆる論理的ではなくとも体系が整い、形而上学的な内容を扱っているように、素人には見えます。
そこで、ふと思うのです。仏教経典をもってして、俗人は救われるのであろうか?と。
そこで出会ったのが、原始仏典です。すべてを読んだわけでは無いのですが、人に勧められて先ずは『スッタニパーダ』を読んでみました。すると、そこに開かれる世界は、さながら聖書を読んだ時と同じ世界観を感じたのです。

また、法華経や浄土三部経も、同じように、聖書に近しいものを感じました。

八正道だとか、空の思想だとか、難しいことは色々ありますが、宗教の根っこにある信仰、という意味では、仏典に親しみ、そこに超越者の存在を感じ取ることが大切なのでしょう。そして、超越者を観相するという意味では、キリスト教徒符号するように思われるのです。
しかしながら、いずれも冗長かつ長いのが玉に瑕。やはり、幼少の頃から慣れ親しむべきものであろうと、結論に至りました。
特に、価値観が定まってしまった青年期以降では、どんな宗教も理性を介した、理解と解釈に走ってしまい、純然たる信仰にはなかなかたどり着くことができないのも、幼少期から触れるメリットであろうと考えます。
日本の公教育から宗教性が排除されているのは、まさに憂うべき事態と考えます。魂の縁をなくしてしまったのですから。

死に至る病

キルケゴールはその著書で、簡潔に言えば、神との精神的な結びつきがないものは、死に至る病に侵されている、と言います。
また、近代に入り、西洋諸国でもキリスト教とは名乗っても、その深い信仰心が薄れてきている状態で、生きがいを失う、実存的空虚、という状態に陥っている、とフランクルは述べています。
私は、うつ病になり、まさに生きている意味を探すことになりました。自分には子どもがいます。しかしうつ病を発症し、離婚し、入院までしている状態で、どうしても自分自身の存在意義がわからなくなってしまいました。自分には保険金がかかっていて、たとえ死んでしまっても、子どもたちの将来の金銭的な問題は大丈夫。むしろ私が生きていることでお金がかかり、社会的なお荷物である、と思っていました。
そんな時キルケゴールとフランクルの著書に出会ったのです。

フランクルの著書は『夜と霧』が大変有名ですが、アウシュビッツの話を読む気力は持てなかったために、上記を読んでいます。
神との深いつながりを持てないでいる私や、仲間たちは、実存的空虚に陥るのも無理がない、と少し客観視できたきっかけの本です。

生きる意味について

では、心のなかに超越者(仏や神)を持てない日本人は、救われないのであろうか?生きる意味は見つけられないのであろうか、と思いますが、そこにはフランクルの、魂の救済ともいえる名言がありました。まさに、コペルニクス的転回です。目から鱗でした。
本が手元にないため、その概要になってしまうのが心苦しいのですが、

人生に生きる意味を問うても答えは返ってこない。むしろ、人生が貴方の生きる意味を問うているのです。その意味を、答えを出すように日々生きていくことが、生きていく意味なのです。

自分の記憶違いもあるかと思いますが、概ねこのようなことをメッセージだったと記憶しています。考え方が本当に変わりました。
世界に投げ出された、私という存在が、今この瞬間瞬間に何を選択し、考え、行動していくのか、その中に意味があると、受け取りました。同時にハイデガーの『存在と時間』を読んでいたので、現象学的と符合させた理解かもしれませんが、そう感じたのです。
そうすると、その一瞬一瞬の意味が、私の中で少しだけ変わりました。
マインドフルネスの一環で、瞑想をしていると様々な生活音に気づきます。今私がこうして生きていることとは別に、世界は回っている。しかし、この世界の一員として私は今、間違いなくこうして存在している。少し動くと風がそよぎます。そう、世界とつながっているのです。私は一人ではない。調子が良いときはそこまで考えが広がりました。その時、少しだけ超越者の存在に触れることができたような錯覚に陥ったのです。

明確な宗教は持っていない。しかし、超越者の存在は信じ始めている

今も、仏教の勉強を続けています。また、2度ほどヨーロッパに行った時、キリスト教文化の美しさと荘厳さに触れ、キリスト教にも興味を持ち、聖書も読み始めています。けれど、やはりそこでは理性が邪魔をします。明確に、何かの宗教に信仰心を持つには、まだまだ時間はかかりそうです。
ただ、親鸞の『歎異抄』はそんな迷いの中にある私に、一筋の光を当ててくれます。

冒頭の
善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。
です。
善人は往生を遂げる。そうであるなら、悪人においては当たり前である。
これは、一見すると悪人の方が往生を遂げる、と誤解されやすいのですが、ここでの善人と、悪人は一般の人が考えるものとはちがうようです。
善人とは、仏道修行をしっかり行い、経典に親しんでいる人たち。
一方で、悪人とは、そこまで深くは勉強できていないもしくは、まったくしていない人たち。
です。
ではなぜ、善人よりも悪人の方が往生に近いのか、というと、善人は理解が先行し、そこに信仰がかけるから、と言います。悪人は自分自身を深く悔い改めることもしばしばであり、そうなったときに心の底から仏様(阿弥陀如来)を信じることができる。つまり本当の意味での信仰心が芽生える。そのため、往生を遂げるのです、と私が読んだ解説本には書かれておりました。
浄土三部経においては、阿弥陀如来は死ぬ間際の一瞬でも、南無阿弥陀仏と唱えるなら、そのものを極楽浄土に生まれ変わるようにする、と誓願を立てています。すごいことです。
心の底から、信仰することができるか、難しくも、非常に美しいものだな、と感じます。
今感じている超越者の存在に今は名前を与えられるほど、どの宗教にも造詣は深くありません。ただ、おぼろげに、親鸞を信じ、ふと辛いときには胸の前で手をあわせ、南無阿弥陀仏と唱え、あのお優しい顔を思い描くようにしています。

スピリチュアリティの目覚め

最後にホスピスの話に戻りたいと思います。冒頭で述べたように、キリスト教徒ではない人間が、なぜ最後をホスピスで迎えるのか、そこに魂の救済はあるのか、についてです。
これは、部分的には、どうやらイエスのようです。
職業柄、こうした質問を直接ぶつけることができる環境にあるので、聴いてみたことがあるのです。すると、臨終に際して、人によってはスピリチュアリティの目覚め、といえる状態を経験する方がいるようです。
典型的な無宗教の日本人が、キリスト教の神の存在を信じ、そこに魂の救済を得るとのことです。

私は今まであえて超越者と記載してきました。それは、まだ自分の中で名称が定まっていないからです。
スピリチュアリティの目覚めや、私自身の実体験からすると、どうやら人は本質的に超越者とのつながりを欲しているのではないか、と考えたくなります。そして、そのつながりを欠いた状態は、まさにキルケゴールのいう通り死に至る病であろう、と。

今回はただただ、今自分が思っていることを書きました。
読んでくださったかた、ありがとうございました。

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