なぜ僕はケルアックで挫折し、ジャック・ロンドンで「道」を見つけたのか
大学生の頃、僕はジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を読み、そして挫折した。
「ビート・ジェネレーション」という響きへの憧れ、若さゆえの焦燥感。それらが僕をあの分厚い文庫本へと向かわせたが、結果は惨敗だった。ジャズの即興演奏のように溢れ出す言葉の洪水、目的のない疾走、内省的な独白。当時の僕には、彼らがなぜあんなに熱狂しているのか、その「道」の行き先がどうしても見えなかった。
それから年月が経ち、僕はもう一人の「道」の作家、ジャック・ロンドンの『ザ・ロード』を手に取った。今度は挫折することなく、一気に最後まで読み切ることができた。
僕は5冊くらいの本を並行して読んでいくスタイルなのだが、この本はトイレに置いておく、いわゆる「トイレ本」だ。日常の閉鎖空間で、毎朝の貴重な数分間を費やしてコツコツと読み進めたことを付け加えておく。
きっかけは、植草甚一の「ガッカリ」エピソード
なぜ今さらジャック・ロンドンだったのか。ふと思い出したのは、敬愛する植草甚一(J.J.)のエピソードだ。
若き日の植草氏がロンドンの『野生の叫び声』に夢中になっていたとき、英語の先生から「原書で読んでいるのか」と感心されたという。しかし、それが翻訳本であることが分かると、先生はあからさまにガッカリした顔をした。
周知の通り、植草氏は後に英語に堪能となり、『あしながおじさん』の原題に近い『蚊とんぼスミス』を読んで英語で読む楽しさに目覚めてからは、膨大な量の原書を読破するようになる。海外の新進作家を日本に次々と紹介するほどの洋書通となった彼が、初期には日本語訳のロンドンに、寝食を忘れるほどの熱量で没頭していた……。
そんなチャーミングな逸話が、巡り巡って僕を本棚へと向かわせたのかもしれない。
生き延びるための「即興演劇」
読み始めてすぐに、ケルアックとの違いに気づいた。ロンドンの綴る「道」には、精神の解放以前に、圧倒的な「飢え」と「生存」があった。
1900年代初頭、ホーボー(放浪者)として全米を旅したロンドンの記録は、もはや生存戦略の教本だ。いかにして鉄道員の目を盗んで列車にしがみつくか、いかにして見知らぬ家の玄関先でパンを恵んでもらうか。
特に僕が惹かれたのは、彼が食べ物を得るためにつく「嘘」の鮮やかさだ。
ちくま文庫版の解説で、川本三郎氏がアメリカ文学の伝統である「トールテイル(ほら話)」について触れている。厳しい開拓時代のフロンティアにおいて、大げさで奇想天外な嘘は数少ない娯楽だった。ロンドンはその伝統を、路上で完璧に実践してみせる。
相手の顔色を伺い、瞬時に「物語」を捏造し、悲劇のヒーローを演じて主婦の心を動かす。それはまさに、胃袋を満たすための「ストリートの即興演劇」だ。嘘が単なる欺瞞ではなく、命を繋ぐための「芸」として昇華されている。その切実なまでの知恵比べが、エンターテインメントとして最高に面白い。
トイレ読書と「生」の実感
先にも触れたように、僕はこの本をトイレの中に置いて、毎朝少しずつ読み進めた。
ケルアックの『オン・ザ・ロード』がどこか浮世離れした「観念的な自由」を求めていたのに対し、ロンドンの『ザ・ロード』は「今、ここにある肉体」をどう維持するかという、あまりに地べたを這うような切実さに満ちている。だからだろうか、毎朝のルーチンの中で数ページずつ読み進めるリズムが、驚くほどしっくりきたのだ。
意味を問う前に、まず食い、まず逃げ、まず生き延びる。ロンドンの筋肉質な文章は、理屈ではなく「生きろ」という野生の叫びとなって響いてくる。英語の原典に触れる喜びを知る前の若き日のJ.J.が、翻訳の壁すら超えてロンドンの熱に当てられた理由が、今ならわかる気がする。
読書という名の、時空を超えたリレー
100年前、線路脇で焚き火を囲んでいたジャック・ロンドン。 その旅行記を日本語訳でむさぼり読んだ(英語の本をまだ本気で読み始める前の)植草甚一。 そして今、便座に座りながら彼らの「道」をなぞっている僕。
読書とは、こうして誰かが歩いた軌跡をリレーのように受け取ることなのだ。ケルアックで挫折したあの頃の自分に、今ならこう言える。
「自分探しの旅に疲れたら、一度、食うために必死な男のほら話を聞いてみるといい。そこにも、立派な『道』が通っているから」と。
