「期待」と「納得」を分ける。
最近わかったことがある。
それは「自分がどうしたいか」よりも、
「こうすべき」や「期待される役割」
を無意識で優先してしまうってこと。
そして期待に応えると感謝されやすい。
感謝されるのは嬉しいことだから、
その喜びを「自分がやりたいこと」だと勘違いしてしまう。
だけどそれって本質的には
「やりたいこと」ではなかったりするから
「このままでいいのかな」と定期的に迷い、考える。笑
期待されることって得意なこと、
向いてることである場合も多いのもまた事実。
だからこそ嫌じゃないしなって、簡単にできるしなって。
でも一体この感情はどこに向かって
どこに着地しているんだろうと
ある時から私はすごく不思議に思い始めて、
気持ち悪く感じ始めた。

あぁそっかと。
私は納得していなかったんだと。
私は昔から色んなことを器用にこなしてきたタイプで、
そういう意味ではできないことのほうが少なかったと思う。
勉強も、運動も、人との関わりにおいても。
社会人になってからの仕事でも。
何か大きく悩ませる出来事って
30年以上生きてきてあまりなかった気がする。
以前会社に所属してる時も
順調にキャリアアップして、人間関係にも恵まれて。
割と周りに好かれてて。(自分で言うけど。笑)
今思えば「期待されやすい人」だったように思う。

期待されてきたその一方で
人生イージーモードに見えるその割に、
自分の内側で勝手に悩むことが多かった。
(最近、環境や現実では関係なく
自分が持っている性質がそうさせてると知って
だいぶ生きやすくなったのだけど。)
「あ、結構適当でいいんだな」
大人になるにつれてそう思うシーンや出来事が多かった。
それは仕事の中でのちょっとした作業だったり
誰かの適当な振る舞いに対してだったり
誰かの優しい一言にだったり。
逆に言うと私はすごく細かい。
(どうでもいいところはものすごくどうでもいいのに)
前職のアパレルの時は
ディスプレイの角度1つをとっても細かかったし、
今のヘアメイクの仕事も眉毛1本がすごく気になるし、
仕事以外でも
あの人今日はいつもと違うなとか(元気がないなとか)
あれ?前はこう言ってたのに矛盾してるなとか。
その細かさは時々私の中に
病的なストイックさを生むのである。笑
だから私が感じてきた
「あ、結構適当でいいんだな」は
どちらかというと救われた、その感覚に近い。
救われて、「諦め」を覚えた。

納得のキャパがすごく小さい
おそらくそれが私自身が私自身の首を絞めていた正体である。
納得をザルの網目に例えると、私のそれはとてもとても細かい。
そのことをとても自覚している。
自覚しているからこそ
自分がとてもめんどくさいのだ。笑
(母が以前「時々自分がめんどくさくなるわ」と笑っていたのを思い出して怖くなった。笑)
(実に似ている。。)
いつも納得を探しているうちに
期待の方がどんどん大きくなって、
納得を探すことがめんどくさくなり、
結果「諦め」からの「期待」を選ぶことのほうが多くなった気もする。
ただ幸いにも私が感じてた「期待」は大きく見た時に、
いつもやりたいことや人生の方向性から
大きくズレているわけでもなかったのが
よかったのか、悪かったのかって感じで。笑
つまりその1ミリのズレが気になるのが、めんどくさいのだ。
そして皮肉にもそこがとても私らしくて嫌になる。
普通は、そんなこと気にしないんでしょうから。笑
(きっと人から見たらサイゼリアのメニューにある間違い探しレベル。)

そもそも「期待」って。
期待って勝手に自分がそう捉えているだけ。
自分が勝手に作り上げた虚像でしかないんだよね。
現実的に、人間的に器用にできてしまうからこその
特殊な悩みであることもわかっているし、
(そして上には上がいますし、)
自惚れといったらそうでもあるし、
人によっては偉そうに聞こえてしまうかもしれないな〜と
それも分かってて書いてみてます。
そんな感じで(?)
悶々とずっと考えてたことがちょっと解明できたので
私は「誰かの期待」ではなく
「私は納得しているか」を基準に生きてみてる。
意識してまだ1ヶ月だけど、
結構色々納得できてない。爆笑
今年は自分の納得を探す旅になりそう。

