完璧主義で何が悪い。
「完璧主義より完了主義」。
私は長いあいだ、この言葉を正しいと思っていました。
完璧を求めるから手が止まる。考えすぎるから始められない。細部にこだわるから、いつまでも終わらない。だから、完成度に納得できなくても、まずは終わらせることを優先しなければならない。
そう考えて、さまざまな方法を試してきました。
「完璧主義者の100日間の挑戦」と題して、毎日文章を公開していたこともあります。
完璧でなくても出す。納得しきれなくても、まずは続ける。
その経験は、たしかに私を前に進ませてくれました。
でも、100日間を達成しても、完璧主義を「不要なもの」とは思えませんでした。
それどころか、SNSの至るところで目にする「完璧主義より完了主義」という言葉に、少しずつ違和感を覚えるようになったのです。
正直なところ、私はもうその言葉に飽き飽きしています。
完了を重視する考え方が間違いだと言いたいわけではありません。
けれど、完璧主義そのものが「手放すべき欠点」として扱われるたび、なぜか自分らしさまで否定されているような気がしました。
今思えば、自分で「完璧主義者」と名乗っていた時点で、私はこの性質をただの欠点として切り捨てたいわけではなかったのだと思います。
面倒で、厄介で、何度も自分の足を止めてきたもの。
それでもどこかで、自分らしさの一部として扱いたかったもの。
完璧主義を捨てずに、前へ進むことはできないのでしょうか。
この記事では、完璧主義を欠点として手放すのではなく、自分の力として扱うために、私がたどり着いた「執着だけを手放す」という考え方をお伝えします。
完璧主義に悩んでいる。考えるばかりで動けない自分のままでいたいわけではない。
でも、自分の中にあるこだわりまで手放したくはない。
そんな人が、どうか自分の性質を敵にせず、人生を少しだけ理想に近づけられますように。
完璧主義者は、完璧を目指しているわけではない
「完璧主義はやめたほうがいい」「完璧を目指してはいけない」などと、完璧主義は簡単に否定されます。
けれど、私と同じように完璧主義に悩んできた皆さんに、ひとつ問いたいのです。
「完璧なものを作らなきゃ」
「完璧に仕上げるぞ」
そんなふうに考えたこと、ありますか?
私はありません。
よく思い返してみると「完璧」なんて目標を掲げたことはないのです。
たとえば、私は以前、習慣を身につけようとしてハビットトラッカーを作ったことがあります。ハビットトラッカーとは、習慣化したい行動を毎日記録し、できた日を可視化するための表のようなものです。
頑張った日が目に見えれば、達成感が出る。達成感が出れば、やる気につながる。
そう考えて、カレンダー式の表を作りました。
ここまでは、まだわかります。
問題はその先です。
毎日見るものだから気分の上がるような可愛いデザインがいい。
各習慣項目ごとに色違いにしよう。
そうこうしているうちに、2週間が経過しました。
ツッコミどころが満載です。
やっと出来上がった可愛いハビットトラッカー。
習慣を続けるにあたって、どうにかして自分のモチベーションを上げようと、今度はポイント制まで設けました。
5日連続でできたら、連日ボーナス。
その日の項目をすべて達成できたら、パーフェクトボーナス。
一か月まるごと達成できたら、さらにボーナス。
当然、私は習慣を続けたかったのであって、ポイント制度を運営したかったわけではありません。
そして、使いはじめて3日目でポイントの計算が面倒になりました。
ここに書くのも恥ずかしいですが、続けるための仕組みで、続ける前に疲れている。カンペキな本末転倒です。
結局、お気に入りのハビットトラッカーは、ひと月も満足に使われることなく、鼻をかんだちり紙と一緒に可燃ごみになりました。
でも、そのときの私は「完璧なハビットトラッカーを作るぞ」と思っていたわけではありません。
習慣を義務感ではなく楽しく続けるには、何が必要か。
達成感を得るには、何が必要か。
できなかった日があっても、また戻ってくるには何が必要か。
そう考えていただけです。
仕事でも、文章でも、人との関わりでも、同じようなことがあります。
喜んでもらうには、何が必要か。
相手に不便をかけないためには、何が必要か。
納得してもらうには、何が必要か。
説得力を持たせるには、何が必要か。
疑問を残さないためには、何が必要か。
私たちが考えているのは、そうした具体的なことです。
ただ漠然と「完璧」を目指しているわけではありません。
「完璧」って何なのでしょう。
そんな安易な一語で、私たちの思考を片づけないでほしいのです。
目の前の目的を果たすために、必要だと思うことを一つずつ考え、できる限りのことをしようとしている。
その内側にある「真摯に考え抜こうとする力」まで、欠点として捨ててしまうのは、あまりに惜しいと私は考えます。
完璧主義という言葉でひとまとめにされたものの中には、本来なら強みとして扱える力もあるはずです。
完璧主義の中には、才能になりうる力がある
完璧主義は、たしかに厄介です。
細かい。
考えすぎる。
時間をかけすぎる。
人の反応を気にしすぎる。
なかなか終われない。
自分でも「そこまで考えなくてよくない?」と思うことがあります。
それでも私は、完璧主義な自分を嫌いきれません。
なぜなら、その中には「高い基準を持つ力」「細部まで考える力」「相手の立場を想像する力」があると思っているからです。
完璧主義として嫌われがちなものを、別の角度から見直すと、たとえばこんな力が見えてきます。
細かすぎる
→ 小さな違和感に気づく力考えすぎる
→ 先回りして想像する力時間をかけすぎる
→ 自分なりの基準まで整える力人の反応を気にしすぎる
→ 伝わり方を調整する力なかなか終われない
→ もっと良くできる余地に気づく力全部やろうとする
→ 取りこぼしを減らそうとする責任感
こうして見てみると、完璧主義は単なる欠点ではありません。
ただし、それらは発揮されればされるほど良いものでもありません。
才能や強みは、出しすぎると短所になります。
慎重さは、ほどよく出れば長所です。
起こりうる問題を想定する力が、大きな損失を防いでくれます。
けれど出すぎれば、判断や行動の遅さになります。
規律性は、ほどよく出れば長所です。
決めた手順や約束を守る力が、物事を安定して進めてくれます。
けれど出すぎれば、融通の利かなさになります。
長所とは、才能や強みを多く出すことではなく、ちょうどよく使えている状態なのだと思います。
完璧主義も、それと同じではないでしょうか。
高い基準を持つことは、悪いことではありません。
細部まで考えられることも、相手の立場を想像できることも、本来は力です。
ただ、その力が出すぎたとき、自分を苦しめるものに変わってしまうのだと私は考えます。
完璧主義をまったく出さないのは、あまりにもったいない。
必要なのは、捨てることではありません。
どの場面で、どれくらい出すのか、その発揮度を調整することです。
私が手放したのは、完璧主義ではなく執着だった
完璧主義を捨てる必要はない。
そう書くと、何も手放さなくていいように聞こえるかもしれませんが、手放すべきものは確かにあります。
それは、執着です。
目的を果たすために考えていたはずのことが、いつの間にか目的から離れ、自分を縛りはじめる。
この記事では、その状態を「執着」と呼びます。
たとえば、相手に伝わる文章にしたいから言葉を選ぶ。
これは、私にとって大切なこだわりです。
一方で、もう十分に伝わる状態になっているのに、「まだ足りない気がする」「もっと整えないと不安だ」と手を止められなくなることがあります。
そこから先は、目的のためというより、自分の不安をなだめるための作業になっていきます。
以前の私は、仕事の場でも似たようなことをしていました。
業務上残す記録に、必要以上のことを書き込んでいたのです。
記録として必要なのは、何が起きて、どう対応し、どのような結果になったのか。その事実だけです。
それなのに私は、対応が難しかった事情や、必要な情報がそろわないなかで苦労したことまで、あれもこれも書き加えていました。
現状を記録に残せば、問題が伝わり、いつか業務環境が改善されるかもしれない。そんな期待がありました。
そしてその奥には、これだけ大変だったのだと、誰かにわかってほしい気持ちもあったのだと思います。
しかし、どれほど詳しく書いても、状況は何も変わりませんでした。
私が苦労したことを訴えたところで、読む人の反応が大きく変わるわけでも、仕事の仕組みがすぐに改善されるわけでもありません。
むしろ、時間も心も消耗していたのは私自身でした。
そこで、記録を「必要な事実と結論」だけに絞ることにしました。
すると、作成にかかる時間が短くなっただけではなく、結果的に仕事のあとまで引きずっていたストレスも減ったのです。
私は、問題が十分に伝わっていないから苦しいのだと思っていました。
けれど本当は、「自分がどれほど苦労したのかを、誰かに理解してもらわなければならない」という思いを手放せずにいたのかもしれません。
私を苦しめていたのは、問題が伝わらないことそのものではなく、その思いへの執着だったのです。
もちろん、対応が難しかった事情を記録に残すこと自体が、悪かったわけではありません。
必要な情報がそろわなかったなら、「情報不足により対応に時間を要した」と一言添えればいい。
判断に迷う点があったなら、「確認に時間を要した」と残せばいい。
それで、記録としての役割は果たせます。
ここで働いていた完璧主義は、必要な情報を取りこぼさない力でした。
あとから読んだ人が状況を判断できるように、できる限り丁寧に残そうとしていた。そこまでは、仕事において必要なこだわりです。
ただ、そのこだわりが「自分の苦労まで理解してもらわなければならない」という思いに変わったとき、記録は目的から離れてしまったのだと思います。
完璧主義が悪いのではありません。
問題は、必要なこだわりと、手放すべき執着の境目が見えなくなることです。
90点をやめても、評価は下がらなかった
執着を手放すと、仕事の質まで下がってしまうように思えるかもしれません。
少なくとも、以前の私はそう思っていました。
必要だと思うことを削れば、伝わらなくなる。根拠を減らせば、説得力が落ちる。細かいところまで整えなければ、相手に納得してもらえない。
だから私は、提案をするときにも、かなりの時間をかけて準備をしていました。
たとえば、ある業務で改善提案を出すときのことです。
私は提案に説得力を持たせるため、一定期間の事例をできる限り確認し、数値にまとめていました。
どのくらいの頻度で問題が起きているのか。
どんな場面で問題が起きやすいのか。
同じような困りごとは、ほかにも起きていないか。
そうした情報を集め、できるだけ抜けのない形に整えてから提案する。
それが、相手に納得してもらうために必要なことだと思っていたのです。
その業務での提案は、出せば必ず通るようなものではありませんでした。
それでも私は、かなり高い確率で提案を通せていました。
だからなおさら、「ここまで調べているから通るのだ」と考えていたのです。
けれど、あるとき別の仕事で手一杯になり、いつもと同じだけの時間をかけられないことがありました。
そこで私は、調査の範囲を狭めることにしました。
すべての事例を確認するのではなく、代表的なものだけを見る。
細かい数値をそろえるのではなく、問題が実際に起きていることが伝わる程度にとどめる。
少数の具体例を添えて、改善したい点をできるだけ簡潔にまとめる。
正直、不安はありました。
根拠が足りないと思われるのではないか。
いつもより雑だと思われるのではないか。
説得力が落ちるのではないか。
でも、結果はほとんど変わりませんでした。
相手から根拠不足を指摘されることもなく、提案が通りにくくなることもなかったのです。
それだけではありません。
意外なことに、いつもより調査範囲を狭めても、自分の基準を大きく下回った感覚はありませんでした。
すべてを調べ切ったわけではない。細かな数値をそろえ切ったわけでもない。それでも、提案の芯は失われていませんでした。
もちろん内容によっては、細かく確認しなければならない場面もあります。
間違えたときの影響が大きい仕事なら、時間をかけてでも丁寧に確認すべきです。
ただ、私がやっていた提案業務においては、すべてを90点まで作り込む必要はありませんでした。
必要だったのは、事例を漏れなく集計した精密な資料ではありません。
同じ問題が実際に起きていることと、何を改善すればよいのか。
それが伝わるだけの根拠があれば、提案としては十分でした。
それに気づいてから、私は少しずつ、必要十分なラインを確かめるようになりました。
どこまで削れるかではなく、何を残せば目的を果たせるのかを見極めるようになったのです。
それは、完璧主義を捨てることではありません。
むしろ、細部に気づく力や、相手の立場を想像する力を使って、自分に合うやり方を探すことでした。
90点をやめても、評価は下がりませんでした。
むしろ、目的を果たすために、自分の力をどこに使うべきかが、前よりもはっきり見えるようになりました。
完璧主義をチューニングする
では、完璧主義を捨てずに、執着だけを手放すにはどうすればいいのでしょうか。
私の中で、完璧主義による葛藤がなくなったわけではありません。
少なくとも15年以上、この性質と向き合ってきました。言葉の選び方ひとつで立ち止まることもあります。
それでも今は、毎朝文章を書き、24時間限定で公開するエッセイを続けています。
変わったのは、完璧主義そのものが消えたことではありません。
どこまでこだわり、どこで手を止めるかを、少しずつ選べるようになったことです。
仕事でも、文章でも、人との関わりでも、すべてを90点で仕上げようとすると、時間も心も足りなくなります。
一方で、何もかも50点で済ませようとすると、自分の基準まで失ってしまいます。
だから私は、完璧主義を「使う/使わない」で考えるのではなく、どこにどれだけ使うかを調整するようになりました。
私が実際に意識しているのは、次の3つです。
最優先で守る一点を決める
根拠を増やしすぎない
事前に潰す疑問と、あとから拾う疑問を分ける
一番大事な一点だけを死守する
まず考えるのは、「この仕事で絶対に外してはいけない一点は何か」です。
すべてを整えようとすると、完璧主義は止まれなくなります。言葉も、根拠も、見た目も、手順も、説明の順番も、全部気になってくる。
でも実際には、すべてが同じ重さではありません。
ここでいう「一点だけを死守する」は、雑に済ませるという意味ではありません。
基本的な配慮は外さない。そのうえで、一番大事な目的に力を集中させるということです。
提案なら、改善したい問題が伝わること。
記録なら、あとから読んだ人が状況を判断できること。
文章なら、読者にいちばん届けたい感情や考えが届くこと。
そこが守れているなら、多少粗い部分があっても、目的は果たせることがあります。
完璧主義は、まずはその一点に使う。
逆に言えば、その一点以外には、少し力を抜く余地を残しておく。
これだけでも、作業の終わらなさはかなり減ります。
根拠は一つか二つで止める
次に意識しているのは、根拠を増やしすぎないことです。
完璧主義でいると、根拠を積み上げたくなります。
一つより二つ。二つより三つ。できるなら全部。
そのほうが説得力が増すように思えるからです。
けれど、読む側や受け取る側にとって必要なのは、必ずしも「根拠の量」ではありません。
問題が実際に起きていること。その問題によって、どんな困りごとが生まれているのか。何を変えればよいのか。
そこが伝われば、十分な場面もあります。
根拠を増やす前に、私は一度こう考えるようにしています。
この根拠がなくても、相手は判断できるか
同じ内容を、別の言い方で重ねているだけではないか
これは相手のための根拠か、自分を安心させるための根拠か
最後の問いは、特に大事です。
この線引きができるようになると、完璧主義はただの足枷ではなくなります。
疑問は、起きてから真摯に拾えばいい
完璧主義者は、起こりうる疑問を先回りして考えます。
ここを突っ込まれるかもしれない。
この説明では足りないかもしれない。
こういう例外もあるかもしれない。
その想像力は、本来は力です。
相手の立場を考え、先に困りごとを減らそうとする姿勢だからです。
でも、すべての疑問を事前に潰そうとすると、いつまでも終われません。
だから私は、最近こう考えるようにしています。
事前に潰すべき疑問と、起きてから拾えばいい疑問を分ける。
間違えたら大きな問題になること。
相手に迷惑をかけること。
あとから修正しにくいこと。
こうしたものは、先に確認したほうがいい。
一方で、相手によって受け取り方が変わるものや、出してみなければ反応がわからないものまで、すべて事前に抱え込む必要はありません。
疑問が出たら、そのとき真摯に拾う。
必要なら説明を足す。
修正できるものは、あとから直す。
それは無責任ではありません。
むしろ、完璧主義を現実の中で使うための方法です。
完璧主義をチューニングするとは、自分の基準を捨てることではありません。
大事な一点を見極める。
必要な根拠を選ぶ。
先回りすべきことと、あとから拾えばいいことを分ける。
そうやって、完璧主義の力を、目的に届く場所へ向け直すことです。
完璧主義は、出しすぎれば自分を縛ります。
でも、必要な場所に必要な分だけ使えたとき、それは確かに自分を支える力になるものだと、私は思います。
完璧主義で何が悪い。
完璧主義は、あなたの敵ではありません。
高い基準を持つこと。
細部まで考えること。
相手の立場を想像すること。
その力まで、捨てなくていい。
ただ、目的を離れて自分を縛りはじめた執着だけは、手放していく。
どこで力を発揮し、どこで手を止めるのか。
それを自分で選べるようになればいいのだと思います。
完璧主義を捨てる必要はありません。
手放すべきものを、間違えなければいいのです。
完璧主義で何が悪い。
