越境者と、壁のこちら側にいる者のあいだ――『3934km 国境を越えて』
メキシコ、中南米が抱える大きな社会問題である「移民」。この作品は、メキシコ人作家がその現実に真っ向から挑んだ小説だ。なぜ危険を冒してまで故郷を離れ、アメリカを目指すのか。その道中にはどんな困難が待ち受けているのか。たどり着いた先には何があるのか。三人の女性を主要登場人物に、取材をもとにした、現実よりもリアリティを持つ物語として書かれている。
読み進めながら感じたのは、この本の力は物語の内側だけにはとどまらないということだった。
主人公イレーネの視点から描かれる過酷な国境越えの旅は、残酷なシーンと危険な現実がこれでもかというほど描かれ、重たい気分にさせる。それでいて、どこか寝苦しい夢にうなされているような、詩的な表現も同居している。物語として読めば、立場や属性を超えた連帯、いわゆる「シスターフッド」の物語として受け取ることもできるだろう。
だが、この本が持つ力はそれだけにとどまるものではない。
読んでいて何度も刺さったのは、先進国側にいる読者への問いかけだった。お前はどうなんだ、高みから見ているのではないか。死と隣り合わせに国境を越える者の姿を、どこか遠い他人事のように眺めているのではないか。そう問われている感覚が、繰り返し訪れる。
命がけで国境を越えずに済む生き方は、当たり前のような顔をしているが、それはひとつの「特権」にすぎない。この作品は、その事実を絶えず突きつけてくる。地球に蔓延る暴力と理不尽のなかに、わたしたちは一人残らず生きている。国境のどちら側に生まれるかなど、誰にもわからなかったはずなのに。
この本に登場する人々はフィクションだが、実在する人間の姿でもある。あえて小説という形を取ることで、実際には命の危険があって声を上げられない人々の現実を、世に知らしめようとしているものでもある。物語の中身以上に、その外側にある強烈な意志こそが、この作品の存在意義であり、生命なのではないか。
象徴的だと感じた箇所がいくつかある。
「もう一つ、あたしたちが直面していた大きな危険があった。メキシコ南部の道中に潜む移民狩りの群れだ。移民警察、兵士、人身売買業者――この三つの異なる捕食者たちが、犠牲となる獲物が通りかかるのを待ち構え、襲いかかろうとしていた」
これは世界の各地で起きていることと呼応する。この物語に特別なことではない。
命の危険に晒されながら辛うじて旅の果てにたどり着いたイレーネは、アメリカの乾いた砂漠で、ライフルを手にしたレンジャーに捕まってしまう。そのレンジャーがメキシコにルーツを持つアメリカ人だったという設定は、非常に象徴的だ。国境のどちら側に立つかは、人間の本質とは関係がない。何かのめぐり合わせで、命がけで国境を越える側と、それを捕らえる側、あるいは高みから見物する側に分かれてしまう。そのことを、この場面は明確に指摘している。
「壁は地獄のはじまりの終わりのはじまり」という言葉も、作中で謎めいたまま何度か現れる。壁のこちら側とあちら側で、ひとつの物語が終わり、また新しい世界が始まる。あらゆる「越境」のイメージが、この一文に凝縮されているように感じた。ソチトルの「バラバラの人生をやり直す唯一の方法は、新しい人生を自分で作り上げることなの」という台詞も、この「終わりのはじまり」と重ねて読むと、単なる決意表明ではなく、壁の向こうで新しく始まる生のことを言っているように見えてくる。
日本語版のまえがき「世界中のイレーネたちへ」で、著者自身が本作品のテーマの核心を語っている。そこには、著者の妻が移民として経験した生と死、この世界の理不尽さが、率直な言葉で綴られている。それでいて、その結びは決して絶望だけでは終わらない。「幸運であれ不運であれ、イレーネと世界中のイレーネたちには進むべき道がまだある。その歩みがどうか幸運でありますように」という一文で締めくくられている。
この一文を読んで、この作品が読者に手渡そうとしているものが少し見えるような気がする。それは悲惨な現実社会の訴えだけではなく、わたしたちが「彼ら」とは無関係の場所にいるのではなくて、同じ理不尽のなかで地続きに生きているという感覚そのものではないか。壁を越える者を高みから眺めている読者もまた、めぐり合わせひとつで明日の越境者になり得る。そのことを、この本は最後まで手放さない。
エッセイ100本プロジェクト(2023年9月start)
【93/100本】
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