『孤独の迷宮』について
『孤独――自分がひとりであり、世界からも自分自身からも疎外されているという感覚と認識――は、メキシコ人だけに特有のものではない。すべての人間は、人生のどこかで、自分がひとりであると感じる。そして実際、ひとりなのである。』
パスは、原則的に人間は孤独であると定義づける。
『人間の本性は、他者のなかで自分を実現しようとする欲望にある。』
ここで彼が言うのは、つまり人間は孤独でありながら他者を求める、その矛盾の中にあるということだ。これをパスは試練であると言う。
『孤独は宣告であり、同時に贖罪でもある。それは罰であるが、同時に、私たちの追放がいつか終わるという約束でもある。すべての人間の生は、この弁証法に貫かれている。』
つまり孤独から始まり、出口には孤独の終焉があるという。これが弁証法の行き着く先である。そしてその出口にあるのが「死」である。
『死と誕生は孤独な経験である。私たちはひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。』
つまりこれは、孤独で始まり孤独で終わるということになる。早速、矛盾が露呈したようにも思える。
ちなみに誕生以前、私たちは母、つまり世界と一つであったとパスは定義づけている。そこから人は孤独の世界へと誕生するのである。
パスは疑問を投げかける。
『死こそが、もっとも真の生なのだろうか。誕生は死であり、死は誕生なのだろうか。』
これに対してパスは「わからない」と言う。これはヴィトゲンシュタインと同じ態度である。
次に愛について彼は語る。
『私たちが愛に求めるもの、それは、ほんの少しの真の生、ほんの少しの真の死である。』
この「ほんの少しの」という連体修飾語が重要なのである。パスはそれを「真の生」そのものとは言わない。つまりそれは一瞬のことなのだ。
『生と死、時間と永遠が結び合う一瞬を求めている。』
ここで男にとって女がどういうものか、パスは非常に鋭い論説を展開する。
『男は女を対象に変え、自分の利害、虚栄、不安、そして愛そのものが命じる歪みに従わせることによって、女を道具に変えてしまう。理解と快楽を得る手段、生き延びるための方法にしてしまう。』
つまり男は女を、そのものとしては見ない。別の目的のための手段へ変えてしまうというのだ。
つまり愛を得ることがいかに困難であるかがわかるだろう。
愛は破壊的であり、同時に創造的な行為である。だが一方で、結婚は愛とは反する。なぜなら、
『結婚は社会を守るための制度となり、その目的は同じ社会を再生産することにすぎない。』
からだ。
愛によって私たちは一瞬だけ、私たちが求めるものへ到達する。だが、そもそもその愛を手にすること自体が困難なのである。社会は愛と反し、愛は社会と反するからだ。
次にパスは社会について語る。これも非常に明敏な感性によって、社会の本質を明らかにしている。
『しかし社会は自分を不可分の統一体として考えながらも、その内部では二元性によって裂かれている。』
社会は、その内部で引き裂かれている。これは実に本質的な定義である。社会は悪ではないし、人間をコントロールする巨大なマザーでもない。
『そして近代人は、自分の思考が完全に覚醒していると思い込みたがる。
だが、その「覚醒した理性」は、私たちを悪夢の迷宮へ導いた。』
パスは、近代人こそが、実際にはより深い迷宮へ人々を誘い込んだと言う。迷宮であるというのは、私たちが本当に求めている出口へ向かうことが、果てしなく困難であるということだ。
近代人が陥った迷宮とは、理性の迷宮である。
『理性の鏡の中で、拷問部屋が無限に反復される悪夢へ。』
近代人は、ここでは自分が目覚めたと思い込んでいる。しかし実際には、
『目を開いたまま夢を見ている』
のである。
私たちが出口を見出すのは――とは言っても、それは一瞬だけであるが――愛と詩においてである。
あるいは、劇場、叙事詩、儀式、詩、そして祭りなどである。
『これらはすべて、人間を孤独から解放し、創造そのものと一体化させる。』
それについては、パス個人の感覚に寄りすぎているようにも思える。
ただ、パスが言いたいことの本質はこうである。
人間は迷宮の中にいる。その中で人間は出口を求めている。その出口は一瞬だけ現れるものである。そしてそれを実現するものの一つが、愛なのである。
