雨のあとで
雨が上がったばかりの夕方だった。
濡れた歩道に、信号の赤が細く揺れていた。
美咲は仕事帰り、駅前の喫茶店に入った。
四十歳で離婚してから、七年が経っていた。
ひとりの食事にも慣れた。
休日の静けさにも慣れた。
誰かを待たない暮らしは、思っていたより平らで、楽だった。
恋はもう、生活の外に置いてきたものだと思っていた。
窓際の席に座り、いつものコーヒーを頼む。
カップから立つ湯気を見ていると、声がした。
「ここ、空いていますか」
顔を上げると、何度か店で見かけた男性が立っていた。
名前は知らない。
けれど、雨の日によく同じ席にいる人だと覚えていた。
「どうぞ」
向かいに座った彼は、礼を言って静かに傘を畳んだ。
無理に話しかけてこない。
必要以上に距離を詰めてこない。
それだけで、美咲は少し安心した。
若い頃なら、沈黙を埋めようとしていた。
笑わなければ。
感じよくしなければ。
退屈だと思われたら終わりだと、勝手に焦っていた。
でも今は違う。
沈黙が苦しくない人は、それだけで特別だった。
店内には古いジャズが流れていた。
スプーンがカップに触れる音。
雨粒が看板から落ちる音。
外を歩く人の靴音。
その全部が、二人の間をゆっくり満たしていく。
「雨の日のこの店、いいですよね」
彼が窓の外を見たまま言った。
たったそれだけなのに、美咲の胸が小さく跳ねた。
同じ景色を見ていた。
同じ静けさを好きだと思っていた。
恋は、強い言葉から始まるものだと思っていた。
けれど本当は、こういう小さな一致のほうが危ない。
気づいた時には、心の端に灯っている。
会計を終えて店を出ると、空には薄い夕焼けが残っていた。
駅までの道を並んで歩く。
肩は触れない。
手も繋がない。
けれど、歩幅が自然に合っている。
それだけで、妙に意識してしまう。
四十七歳になっても、胸はちゃんと騒ぐのだと知った。
駅の入口で、彼が少しだけ足を止めた。
「また雨が降ったら、来ると思います」
誘いではない。
約束でもない。
だから、逃げ道があった。
だからこそ、優しかった。
美咲は少し笑って答えた。
「私も、たぶん」
彼も笑った。
ほんの一秒。
それだけで、次の雨が待ち遠しくなった。
恋かどうかは、まだ分からない。
でも帰りの電車の窓に映る自分は、朝より少しだけ明るい顔をしていた。
誰かを待たない暮らしは楽だった。
けれど、誰かを少しだけ待つ明日も、悪くない。
美咲はそう思いながら、濡れた街の光を見つめていた。
