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ある企業人の憂鬱#14 ― 異動する先輩 ―

このシリーズ「ある企業人の憂鬱」は、会社で働く日常の小さな違和感を綴る物語です。会議、評価、人事、そして人。職場で起きた出来事を、帰宅後に座敷童の叶和(とわ)と話しながら、組織の中で起きていることを静かに見つめていきます。
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― 異動する先輩 ―


異動の一覧が出た。
この時期になると、みんな少しだけ落ち着きがなくなる。

「誰が動くんだろう。」
「部長は残るらしいよ。」

そんな話が、給湯室やTeamsのチャットを流れていく。

一覧を見ていたら、先輩の名前を見つけた。
異動先は、先輩が昔にいた職場だった。

「戻るんですね。」そう声をかけると、
「戻っちゃうね。」先輩は笑った。

この先輩は、やさしい。
仕事が丁寧で、面倒見がいい。
困っている人がいると、いつの間にか隣にいる。
気づけば、みんなが頼っている。

よく一緒に飲みに行った。
仕事の話もしたし、どうでもいい話もした。
たぶん、この会社で出会った人の中でも、かなり好きな先輩だった。

異動の一覧をもう一度見る。
先輩の同期たちの名前も並んでいる。

でも、少し違う。

同期たちの名前は、上のシートに載っていた。
ある一定以上の役職者の欄。
先輩の名前は、そこにはない。
別の一覧に載っている。

会社では、それだけの違い。
でも、その違いは案外大きい。

夕方、二人でコーヒーを飲んでいた。

「同期は、みんな偉くなっちゃったよ。」

先輩がぽつりと言った。

「そうなんですか。」

「うん。後輩もね。」

少し笑う。

「昔、かわいがってた後輩が、今じゃずっと上。」

その言葉に、変な気まずさはなかった。
ただ、少しだけ静かだった。

「やっぱり、気になります?」

聞いてみた。

「そりゃあね。」

あっさり認めた。

「気にならないって言ったら、嘘になる。」

そうですよね。
としか言えなかった。

仕事ができる人だった。

でも、運なのか。タイミングなのか。
誰かとの相性なのか。
昇進の波には乗れなかった。
年齢を考えれば、たぶん、ここから追いつくのは難しい。

しばらく黙っていた先輩が、急に言った。

「でもさ。」

「はい?」

「役職に就かなかったから、楽をしてきた部分もあると思うんだよ。」

思わず笑った。

「そんなふうに思うんですか。」

「うん。」

コーヒーを一口飲む。

「責任が軽い分、自分の時間もあったしね。」


趣味もできた。
家族との時間もあった。
やりたいことも、それなりにやれた。

「意外と、充実した人生だったのかもしれない。」

そう言った。

でも、少し間を空けて、
「ただね。」と続けた。

「役職に就かないと、できない仕事もある。」

幅広い仕事を動かすこと。
大きなプロジェクト。
経営に近い仕事。
組織全体を考えること。

「そういう経験は、やっぱりできない。」

「……。」

「給料も違うだろうしね。」

定年後の仕事も肩書がある人と、ない人では、たぶん条件も違う。

「どっちが幸せかなんて、分からないよ。」

そう言って笑った。

でも、その横顔は少しだけ寂しそうだった。
先輩は、これから昔いた職場へ戻る。

約二十年前にいた場所。
当時と、職位はほとんど変わらない。
あの頃の後輩たちが、今は上司になっている。
どんな気持ちなんだろう。

その日の夜。
家に帰ると、叶和がお茶を飲んでいた。

「おかえり。」

「ねえ、聞いてくれる?」

「今日は長そう。」

「なんで分かるの。」

「麦茶、大きいコップだから。」

確かに、今日は大きい方だった。
私は、先輩の話をした。
叶和は、黙って聞いていた。
話し終わると、

「ねえ。」と言った。
「その先輩は、失敗したの?」

「え?」

「会社では、偉くなれなかったんでしょ?」

「そうだけど。」

「でも、仕事もちゃんとして。」

「うん。」

「後輩にも好かれて。」

「うん。」

「趣味もやって。」

「うん。」

「飲みにも行って。」

「うん。」

「それで、失敗なの?」

答えられなかった。

叶和は続けた。
「会社って、不思議だね。」

「何が?」

「役職って、一人しか座れない椅子がたくさんあるんでしょ?」

「そうだね。」

「じゃあ、みんなが頑張っても、みんなは座れない。」

私は笑った。「そういうもの。」

「でも、座れなかった人が、自分はダメだったって思う仕組みなんだ。」

その言葉が、妙に残った。

周囲は、昇進した人を評価する。
それは当然だろう。

でも、その裏側には、昇進しなかった人がいる。
能力が足りなかった人だけじゃない。
タイミングや配置や、人事や、組織の都合。
いろいろな理由で、椅子に座らなかった人がいる。
そして、その人たちが組織を支えている。

先輩は、新しい職場へ行く。
昔の後輩たちの下で働く。

きっと、今まで通り丁寧に仕事をして、困っている人がいたら、そっと手を貸すのだろう。

役職は、人を評価する一つの物差しなのかもしれない。
でも、誰かの人生まで測れる物差しなのだろうか。

異動の一覧を閉じながら、そんなことを考えた。

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このシリーズでは、日常の中にある小さな違和感を綴っていきます。
「ある企業人の憂鬱」は連載(毎週木曜日更新)です。
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