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茶の湯を歴史として考える 第45回 【写しという創造】

本歌は消えても、型は生き続ける

第45回|写しの思想史

――本歌と時間のあいだ――

写しとは何か。それは単なる模倣でも、代替品でもない。写しとは、過去を現在に呼び戻すための装置であり、時間を操作する文化的技法である。

茶の湯の世界では、本歌があり、写しがある。本歌とは、歴史のなかで権威を獲得した原作であり、名物であり、型である。写しとは、それを踏まえて制作されたものをいう。しかしこの関係は、単純な上下関係ではない。本歌の「権威」は、物質にのみ宿るのではなく、その背景にある歴史、使用の記憶、語り継がれてきた物語、そしてそれを用いる作法の総体に宿る。

十五世紀まで国内産の陶磁器は作られてはいたが、それらは唐物の代替品や日常雑器として使用されるのみで、基本的には賞翫の対象ではなかった。そこに侘び茶が広まったことで、それまで影の道具であった和物茶碗が表舞台にあらわれ、評価されるようになる。最初に支持を得たのは、唐物天目を写した瀬戸・美濃の天目、そして焼締陶の信楽水指や備前建水であったと考えられている。天文二十三年(1554)の奥書をもつ『備前記』には、唐物天目を写した瀬戸・美濃の天目が定番の道具の一つとして記され、『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』にも繰り返し登場する※。写しはすでに、安定的に用いられる「正統」になっていたのである。

ここで起きていたのは、外来的権威の内面化であった。唐物は外部の権威であった。それを写すという行為は、権威を奪うことではなく、自らの内部へ取り込み、再構成することである。写しは、文化的主権の獲得の技法であった。

写しには外面的模倣と内面的模倣がある。外面的模倣は、視覚的形態の再現である。内面的模倣は、思想的・精神的・心理的構造の継承である。和歌における本歌取りは、語句を借りながら意味をずらし、新たな感情を生成する。これは内面的写しの典型である。茶の湯もまた、型をなぞるだけでは芸術にならない。逸脱しすぎれば本歌との連続性が失われる。写しとは、距離の芸術である。

茶室の写しも同様である。藪内家の代表的茶室である燕庵の写は、相伝者のみに許され、本歌に忠実であることが義務づけられている。もし本歌が失われたときには、最も古い写しが寄進される。ここで守られているのは単なる建築形態ではない。動線、視線、光の入り方、床の間との関係、音の響き、温度、気配――そうした空間体験の構造である。写しとは、形態の保存ではなく、構造の保存である。

楽家の「木守」の事例※は、この問題をさらに鮮明にする。高松松平家に伝来した本歌の木守は、大正十二年の関東大震災で失われた。瓦礫の中から破片が見つけ出され、当時の当主であった楽家十五代惺入によって、破片を埋め込む復元が試みられた。その復元を可能にしたのが、それまでに制作されてきた写しであった。一度割れ、その大半を失った茶碗が甦る。その背後には、写しという時間的保険が存在していたのである。本歌が消えたとき、写しは単なるコピーではなくなる。権威は物質から構造と系譜へと転移する。写しは未来の本歌となる可能性を内包している。

この論理を極限まで推し進めた制度が、伊勢神宮の式年遷宮※である。二十年ごとに正殿を建て替え、神座を遷す。物質は保存されない。常に新材である。しかし一三〇〇年にわたる連続性は失われない。ここでは本歌は建物ではなく、型と儀礼と技術の継承に宿る。写しこそが本歌なのである。物体の不変性ではなく、構造の持続が権威を支えている。

では、写しはどこまで逸脱できるのか。忠実再生でなければ写しではないのか。侘び茶の歴史は、写しが必ずしも固定的再現ではないことを示している。唐物天目の写しがやがて独自の景色を持ち、和物として自立したように、写しは微細な差異を内包する。その差異が繰り返されるとき、歴史が生まれる。写しは保存行為でありながら、同時に創造行為である。

本歌の権威はどこに宿るのか。物質か、記憶か、系譜か。それは単一の場所には宿らない。使用の連鎖、語りの積層、そして写しの継続によって立ち上がる関係性のなかに宿る。本歌が消えたとき、写しは本歌になりうるのか。伊勢の遷宮と木守の復元は、その問いに肯定で答えている。

写しとは、時間に抗う技法ではない。時間を循環させる技法である。過去は失われない。ただしそのままでは残らない。写しによってのみ、過去は現在に立ち現れる。本歌は消えても、型は生き続ける。そこに茶の湯という文化の、静かな強度がある。


【脚注】
末吉佐久子、「「写し」の研究―中世から近世にかけての茶陶の「土物」を中心に―」、東アジア文化交渉研究 第12号。『松屋会記』『天王寺屋会記』『宗湛日記』は、戦国期から桃山期にかけての茶会記であり、道具の使用実態を知る基礎史料である。

※楽家「木守」の復元は、大正十二年の関東大震災後、十五代惺入により行われた。写しの存在が復元の基礎資料となった。

※伊勢神宮式年遷宮は、天武天皇の定めに始まり、持統天皇四年(690)に第一回が行われたと伝わる。物質の更新によって構造の連続性を維持する制度である。

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