【初稿】石破茂を“応援”したリベラル──あのデモは何だったのか?
人はパンのみにて生きるにあらず。しかし、パンがなければ生きてはいけない。
そんな言葉が、最近の日本政治の風景にしっくりと当てはまる気がします。
とくに「石破辞めるなデモ」なるものを見かけたとき、その象徴的な歪さに、思わずため息が漏れました。
石破茂氏を支持する人々――その多くは、グローバル資本の恩恵を享受したエリートには見えない。むしろ、生活に不安を抱え、既存の政治にも社会にも不満を抱えている人たちでしょう。
にもかかわらず、彼らがなぜ保守系の政治家をなぜ「左の側」から支援するのか。それは、「より右の存在」に対する拒否反応――つまり高市早苗氏のような人物の台頭を恐れるがゆえの、“防波堤”としての石破支持に見えます。
この構図は、日本の「リベラル」が長らく抱える“ある病”を示しています。
それは、現実を直視せず、「見たいものだけを見る」態度です。
◾️ 理念だけでは、腹は満たされない
グローバル化の進行とともに、貧富の格差、地域間格差、生活の不安定化は、確実に日本社会を蝕んできました。
「食べていけない」「家族を持てない」「未来が見えない」――これが、現代の現役世代や子育て世代の本音です。
本来なら、こうした声を拾い上げ、格差是正や生活の安定を図るのがリベラルの役割だったはずです。
ところが今のリベラルには、現実に向き合う粘り強さがない。代わりにあるのは、“理念”と“正義”の美名を掲げて、保守的な価値観をひとまとめに「軍国主義」「反動」とレッテルを貼る姿勢です。
まるで1970年代の全共闘運動の尻尾を残したまま、時代の現実に目を背けているように映ります。
◾️ ポピュリズムは「民意の代弁」である
「ポピュリズム」という言葉は、しばしば侮蔑的に使われる。
だが、本来それは「大衆の声を代弁する政治」のことにすぎません。
エリートや中央官僚、大手メディアといった“支配階層”に見捨てられてきた地域や労働者、庶民が、自分たちの不満を託せる場所を探し出したとき、それがポピュリズムの形をとるのは自然なことです。
トランプ現象やブレグジットは、その最たる例です。
そして今、日本でも国民民主党や参政党といった新興政党が、現役世代・無党派層の「見捨てられ感」に応える形で台頭しています。
この動きこそ、政治本来の使命――「民意の吸い上げ」ではないでしょうか?
◾️ 変わるべきは「保守」ではなく、「リベラル」なのかもしれない
今、保守とされる勢力の中にも、「生活者感覚」や「格差是正」に真剣に向き合おうとする人たちが現れ始めている。
かたや、リベラルと呼ばれる側には、保守を一括りにして「それはポピュリズムだ」「国家主義だ」と切り捨てる者たちがいます。
本来なら両者は、価値観や背景を超えて現実の課題で連帯できるはずなのに、
「保守=軍国主義」「リベラル=知性と正義」といった固定観念が、その連帯の橋を焼き続けています。
だからこそ、いまこそ問いたい。
「理念に殉じるリベラル」は、果たして本当に「人間のための政治」と言えるのか?
あとがき
石破茂氏を支持するか否か、それ自体は本質的な問題ではありません。
問題なのは、なぜ今のリベラルに“防波堤としての保守政治家”しか選択肢がなくなっているのか、という構造です。
そして、もっと大きな問題は、「現実に立脚した議論」があまりにも日本の言論空間から失われていることです。
リベラルと保守、都会と地方、理念と生活――そのどちらかではなく、両者を橋渡しする新しい視点と連帯の可能性を、私たちはもっと探っていくべきではないでしょうか。
「あなたは“ポピュリズム”をどう捉えますか?ご意見をぜひコメント欄でお聞かせください。」
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