音楽史・記事編152.ベートーヴェン、平均律の新しい道を決意する
ハイドンから入門の許可を得て、ベートーヴェンはボン宮廷のマクシミリアン・フランツ選帝侯から音楽留学を命じられ、1792年11月ウィーンに向け旅立ちます。ウィーンではアルザー・シュトラッセのリヒノフスキー侯爵家の屋根裏部屋へ落ち着いたものと見られ、数日ののちには1階に住居部屋を与えられ、モーツァルトのピアノの弟子でもあった侯爵夫人のクリスティアーネの配慮により夕食も侯爵夫妻と同じテーブルに席が用意されるなど優遇されたようです。侯爵家では毎週金曜日に音楽会が開催されウィーンの多くの貴族や音楽関係者が訪れ、ベートーヴェンのピアノ演奏はたちまちウィーンの評判となり、ハイドンの教育も始められたようです。

〇ベートーヴェンとハイドン・・・師弟の不幸な不和はなぜ起こったのか?
ベートーヴェンへのハイドンのレッスンは6ヶ月間、あるいは6週間の短期間であったといわれています。ベートーヴェンとハイドンとの間には不幸な不和があり、その原因については一般に次のように考えられています。
・40歳近い年齢差あった師弟には、趣味や価値観という面で埋めがたい溝が横たわっていた。(1)
・ハイドンは2回目のロンドン行きの準備に忙しく、ベートーヴェンにレッスンをする時間が十分に取れなかった。
・ベートーヴェンとハイドンは性格が合わなかった。(2)
・ハイドンは対位法の規則を遵守することばかりを考えていると、芸術の本質を見失ってしまうと考えていた。・・・ベートーヴェンはハイドンの元でのレッスンに実りを感じなかった。(1)
べートーヴェンのピアノ演奏はリヒノフスキー侯爵家の音楽会で絶賛されたちまちウィーン中の評判となります。ベートーヴェンはボンでザクセン出身でライプツィヒ大学に学んだネーフェにクラヴィーアを学んでおり、その教材はセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集でした。当時のウィーンはピアノが普及し始めた時期であり、それらのピアノは調性ごとの調律が不要な平均律で調律されていたものと見られ、平均律は音楽における新しい様式であり、ベートーヴェンはバッハの平均律クラヴィーア曲集をすべて暗譜していたことから、平均律の新しい様式の音楽を演奏したものと見られます。しかし、ハイドンは音楽の基礎はルネサンス以来の伝統の純正律にあると考え、これをベートーヴェンに伝授しようとの思いからバッハの平均律を弾かないように忠告した可能性も考えられます。しかし、ベートーヴェンは音楽において調性などの制限がなく自由に楽想を表現できるバッハの平均律こそが次世代の新しいあり方との考えを持ったものと思われます。ベートーベンのこの考えを理解したのは外交官としてベルリンなどに赴任し、バッハやヘンデルの楽譜をウィーンにもたらしたスヴィーテン男爵でした。ハイドンはロンドン行きにベートーヴェンを同行させず、使用人で筆写家のエルスラーを伴ってロンドンに出発しますが、スヴィーテン男爵はベートーヴェンを想いやり、自宅のサロン・コンサートにベートーヴェンを招いてベートーヴェンの演奏するバッハのフーガなどを楽しみにしていました。また、モーツァルトは移行期のクラヴィーアの平均律対応を行っており(参考:音楽史・記事編143.調律史とモーツァルト)、ベートーヴェンはモーツァルトの未亡人コンスタンツェの主催する歌劇「皇帝ティトゥスの慈悲」の幕間にモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466を演奏しています。モーツァルトは主和音の純正音律を木管楽器などで補いピアノでは分散和音などを多用する平均律対応を行っており、ベートーヴェンは新しい平均律による音楽創造に改めて自信を持ったように思われます。
作曲のあらゆる技法を習得したいと血気盛んなベートーヴェンはハイドンの対位法の指導に不満を募らせ、半年もするとハイドンに隠れてケルントナートーア劇場の専属作曲家で対位法教師として信頼されていたヨハン・シェンクに対位法の指導を受けるようになります。さらに、シュテファン大聖堂楽長のアルブレヒツベルガーに改めて対位法を、ウィーン宮廷楽長サリエリにはイタリア歌曲を学んでいます。
〇ハイドンもロマン派に向けた音楽を作曲する
ルネサンス以来の純正律音楽を極めたハイドンですが、一方で将来のロマン派に向けた改革も行っています。1781年2月にエステルハーザ宮歌劇場で初演したオペラ「報われたまこと」でハイドンはフィナーレにおいて管弦楽を駆使し拡大を行っています。音楽学者ランドンの説によれば、ハイドンのオペラにおけるフィナーレの拡大をモーツァルトとダ・ポンテはオペラ「フィガロの結婚」に取り入れ、第2幕と第4幕のフィナーレを大きく拡大し、このフィナーレではすべてオーケストラ伴奏で進められます。語りにあたるチェンバロ伴奏のレチタティーヴォ・セッコは姿を消しすべてオーケストラ伴奏のレチタティーヴォ・アコンパニャートに代えられ、さらにオペラ「魔笛」ではフィナーレが全曲の半分にまで拡大されます。ロマン派のオペラでは序奏からフィナーレまですべてがオーケストラ伴奏で進められ、ハイドンの管弦楽によるフィナーレの拡大がその起源と考えてもいいように思われます。また、ハイドンはスヴィーテン男爵との共同作業で旧約聖書の創世記とミルトンの失楽園をもとにしたドイツ語の台本によるオラトリオ「天地創造」を作曲し、その序曲「混沌」はロマン派を先取りした音楽といわれています。
〇ベートーヴェンのハイドンへの献呈と新しい道
ハイドンはルネサンス以来400年の伝統ある純正律音楽を基本としてヨーロッパの巨匠に昇りつめてきていました。一方のベートーヴェンは当時としては斬新な平均律によるピアノ奏法を学んでおり、平均律を基本とする音楽の創造を行いロマン派以降の最高の音楽家となり、楽聖とまで呼ばれる巨匠に昇りつめます。音楽史において、バッハがクラヴィーアによる室内楽で純正律音楽の最高峰であるゴールドベルク変奏曲BWV988を作曲し、ハイドンは管弦楽分野で純正律音楽の最高傑作である104曲の交響曲を残し、声楽分野ではモーツァルトが純正律音律によりオペラ作品で音楽史に残る最高傑作を残し、さらにモーツァルトはクラヴィーアと管弦楽との協奏において純正律から平均律への橋渡しを行い、ベートーヴェンに至って和声は多様化し古典的な純正律音楽はロマン派音楽へ移っていったとみることが出来るようです。ハイドンとベートーヴェンという2大巨匠のぶつかり合いによって、音楽史におけるあらたな時代が切り拓かれたといえます。ベートーヴェンはピアノ演奏における平均律の弱点である長3度の不純性の克服に生涯にわたって取り組んだように思われ、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲第20番ニ短調や24番ハ短調を愛奏しモーツァルトのピアノ音楽作曲様式を学び、32曲のピアノ・ソナタでは様々な手法や様式を試し、生涯の最後にはディアベリの主題による33の変奏曲Op.120によってピアノ和声の集大成を行ってゆきます。
さて、ベートーヴェンのウィーン初期の時期に戻りますが、ベートーヴェンのウィーン留学は1年あるいは2年程度が予定されていたと見られるものの、フランス革命に伴うフランス軍の侵攻によりボン宮廷はフランスに占拠され、マクシミリアン・フランツ選帝侯のボンを新たな音楽の都にするという夢は潰え、ベートーヴェンはボンへの帰郷はできなくなり、2人の弟をウィーンに引き取り面倒を見ることとなります。ウィーンで音楽家として自立することになったベートーヴェンは満を持して3曲のピアノ三重奏曲を作品1としてウィーンで出版し、リヒノフスキー侯爵に献呈します。そして、ウィーンへの音楽留学のきっかけを作ってくれた師匠のハイドンへは交響曲でも弦楽四重奏曲でもなく、3曲のピアノ・ソナタ作品2を献呈しています。ベートーヴェンはこの時期にギリシャ神話に出てくる吟遊詩人オルフェウスの竪琴を持った肖像画(参考:音楽史・記事編134.ベートーヴェンの肖像画)に描いたように、「今こそ伝統的な美しく喜ばしい和声を中心とした純正律音楽様式と決別し、若干のうなりをものともせず、あらゆる転調を可能とし自由に音楽表現が可能な平均律によって人間の感情や情感、激情を表出して行く」という新しい道を歩むことを決意を表したように思われます。音楽史においてはルネサンスの美しい和声のポリフォニー様式から、バロック期には不協和音や半音階などによる破天荒な時代に移り、エマヌエル・バッハの多感様式、ハイドンの時代の疾風怒濤様式などを経て、ベートーヴェンに至って純正律音律から平均律音律に移行し、多様な和声による新しいロマン派様式へと受け継がれたように感じられます。ハイドンへの3曲のピアノ・ソナタの献呈は単なる献呈ではなく、ベートーヴェンの新たな道を行く決意をハイドンにも伝えたいとの思いからだったのでしょうか。ベートーヴェンは3曲のピアノ・ソナタの印刷譜の表紙にハイドンが期待したとされる「ハイドンの弟子」という肩書きをつけることはなく、ベートーヴェンのハイドンへの献呈は、音楽史の新たな船出を思わせられます。
【音楽史年表より】
1793年末初演、ベートーヴェン(22)、3つのピアノ三重奏曲第1番~第3番Op.1
リヒノフスキー侯爵家の夜会で初演される。一方、ハイドンがロンドンからウィーンに戻った1795年8月20日のリヒノフスキー侯での夜会で初演されたとの説もある。この初演でハイドンはこの三重奏曲の第3曲ハ短調について出版しないように勧告したのだが、大きな希望に胸をふくらませている血の気の多いベートーヴェンとハイドンは性格が合わず、ハイドンの対位法の指導に不審の念を抱いたベートーヴェンはハイドンのもとを去ることになる。(2)
1794年1/15、ハイドン(61)
ハイドン、ロンドンへ向けウィーンを出発する。(3)
1794年12/15、ベートーヴェン(23)
ヴァン・スヴィーテン男爵、リヒノフスキー侯邸のベートーヴェンに招待状を送る・・・「もし、差し支えなければ、今度の水曜日に私の家にいらっしゃいませんか?夜8時半に就寝用帽子など一切を持ってお越しいただきたい。即答くだされるよう。12月15日月曜日、スヴィーテン」。スヴィーテン男爵はバッハと、ヘンデル作品のコレクターとして知られ、しばしばサロンコンサートを開いていた。バッハ作品を達者に演奏するベートーヴェンも男爵邸サロンによく招待され、サロンコンサートにベートーヴェンが出演したときは、全ての客人が帰宅した後までもベートーヴェンだけを引き止めバッハのフーガを数曲演奏してもらうこともしばしばあった。のちにベートーヴェンはスヴィーテン男爵に交響曲第1番ハ長調Op.21を献呈する。(4)
1795年7月頃、ベートーヴェン(24)、ピアノ三重奏曲第1番~第3番Op.1
アルタリア社からパート譜が出版され、リヒノフスキー侯爵に献呈される。出版はリヒノフスキー侯の援助のもと予約出版で行われる。初版のピアノ・パートには124人(245部)もの予約者名簿が掲載されているが、予約者の多くはウィーンとボヘミアの貴族たちでリヒノフスキー侯とその家族の27部を筆頭に、何人かは複数部を予約している。(5)
1795年8/15、ハイドン(63)
かずかずの成功をおさめて、ハイドンはウィーンへの帰途につく。ハイドンの伝記作者A・グリージンガーはハイドンから直接聞いたロンドン旅行の成果について次のように述べている・・・「満3年のイギリス滞在中にハイドンは2400ポンド(約2億4000万円)を得たが、費やしたのは旅費、滞在費など900ポンドにすぎない。ハイドンはイギリスで過ごした日々を一生で最も幸福な時期だと考えていたし、また、イギリスを通じてドイツで有名になったのだとしばしば話していた。(6)
1795年8/20以降初演、ベートーヴェン(24)、ピアノ三重奏曲第1番~第3番Op.1
リヒノフスキー侯爵の夜会で私的に初演されたとみられる。たまたま居合わせたハイドンはベートーヴェンに第3曲のハ短調の曲を出版しないようにと勧告した。ハイドンは多くの賛辞をのべはしたが、この曲だけは認めなかった。ところがベートーヴェンはこのハ短調の曲の出来栄えに最も満足していたので、ハイドンの勧告はいたく彼の気持ちをそこね、彼は自分を嫉妬しているのだとさえ考えた。この曲の作風がハイドンや当時の一般的な嗜好にそぐわないもので、ある種の驚きを与えたことは十分に推測できる(フェルディナンド・リースの記述より)。このことから、Op.1の成立と初演はハイドンが第2次ロンドン旅行に旅立つ1794年1/19以前であると考えられてきたが、一方ジョンソンはリヒノフスキー邸での初演はハイドンがウィーンを出発する前ではなく、帰郷直後ではないかと推定した。つまり、出版後ということでもある。第3番についてハイドンが助言したのは、この曲が容易に理解されないだろうという理由からだった。一般聴衆には受け入れ難いその進歩性を指摘したにすぎないとすれば、この発言と出版時期は必ずしも矛盾していないと言えよう。(5)
1795年8/20以降初演、ベートーヴェン(24)、ピアノ・ソナタ第1番~第3番Op.2
リヒノフスキー侯爵の夜会で初演される。帰国したハイドンを招いて開かれたリヒノフスキー侯爵家の夜会で初演されたのは3つのピアノ三重奏曲作品1ではなく3つのピアノ・ソナタ作品2であるという説がある。(7)
1796年3月、ベートーヴェン(25)、3つのピアノ・ソナタ第1番~第3番Op.2
ウィーンのアルタリア社から出版され、J・ハイドンに献呈される。ハイドンはリヒノフスキー邸で行われた作品1の3曲のピアノ三重奏曲の初演において、ベートーヴェンに、第3番ハ短調は将来機会があっても出版しないように強い口調で忠告したが、ベートーヴェンはこの件について後に弟子のリースに「ハイドンが彼の成功をねたみ、人前で悪意ある批評をしたものと思い込んでしまったのだ」と語っている。当時の高名なフルート奏者のルイ・ドゥルーエは「この一見陽気で快活な老大家は、ベートーヴェンの内なる、対立する諸要素が生み出す複雑でデモーニッシュな魂を見て取って、それがうけいれがたかったのかもしれない。」と伝えている。ベートーヴェンもその辺のことに気付くようになったに違いない。ピアノ・ソナタOp.2の出版に当たってベートーヴェンは、ハイドンが表紙に入れるように期待した「ハイドンの弟子」という肩書きを付けることはしなかった。(7)
1799年4月作曲、ベートーヴェン(28)、弦楽四重奏曲第1番ヘ長調Op.18-1
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。この曲の初稿はバイオリン奏者の親友カール・アメンダとの送別の記念に贈られた。この初稿の表紙には「四重奏曲第2番」のタイトルがあり、情感あふれる献辞と「1799年6月25日」の日付があり「第2番」はこの曲の作曲順を示している。ベートーヴェンは出版前の1800年夏に根本的な改作を行う。そしてアメンダに宛てて初めて自分の耳疾を告白した1801年7月1日付けの手紙でこの改作にふれている。・・・「君の四重奏曲を他の人に見せないで下さい。というのは最近やっと正しい四重奏曲の書き方がわかったので書き直してしまったからです」この初稿は1913年にアメンダ家の遺産の中から発見され、1922年に出版された(Hess32)。(5)
1801年6月、モロ社からパート譜が出版される。(3)
1800年3月以前作曲、ベートーベン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
作曲を完成する。自筆譜が消失しており、正確な成立年代は不明。4/2には初演されているので遅くとも3月には成立脱稿され、演奏会用のパート譜作りの準備がなされたものと考えられる。この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(8)
【参考文献】
1.池上健一郎著、作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ベートーヴェン(音楽之友社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)
4.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)
6.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
7.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
8.キンスキー・ハルム・ベートーヴェン作品事典(G.Henle
Verlag 1955)
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