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音楽史・記事編151.ハイドンの交響曲創作史・・純正律管弦楽曲の最後の輝き

 古典派期には貴族の館や裕福な家庭を中心にクラヴィーアが普及していった時代であり、これらのクラヴィーアは調性ごとの調律が不要な平均律で演奏されたことが想像されます。しかし、ハイドンはオクターヴの中で8つの純正な長3度が可能で、範囲は限られるものの転調も可能な中全音律で演奏を行っていたようで、ベートーヴェン以降、あらゆる調性への転調が可能な平均律を前提とした作曲が行われていくようになる中で、ハイドンの交響曲はルネサンス期以降の400年にわたって続いてきた純正律音楽の、管弦楽分野に限ってもバロック期以降200年間の主和音を中心とした古典的純正律音楽の最後の輝きとなったように思われます。

〇ハイドンの交響曲の創作時代区分(第1期から第5期)と創作の背景
 中野博詞著「ハイドン交響曲」(1)によれば、ハイドンの交響曲の創作時代区分についてはハイドン研究家によって5通り以上提起されています。本編では日本のハイドン研究家中野博詞氏の5つの創作時代区分に基づいて見て行きます。

【第1期】1757年頃~65年頃・・・交響曲様式への模索期
 ハイドンは様々な実験を通して古典派交響曲様式の模索を行います。
・急-緩-急の3楽章構成・・オペラ・シンフォニーに由来する様式、10曲
・急-緩-メヌエット-急の4楽章構成・・後の古典派交響曲の基本的構成、12曲
・急-メヌエット-緩-急の4楽章構成・・ハイドンが愛用していた様式、3曲
・緩-急-メヌエット-急の4楽章構成・・教会ソナタに由来する様式、4曲
・コンチェルト・グロッソ様式による構成・・合奏協奏曲や協奏曲に由来する様式、第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「晩」の三部作
・アダージョの序奏を持つ楽章と緩徐楽章を省略した3楽章による構成・・教会ソナタに類似、第25番
・緩-メヌエット-急-緩の4楽章構成・・フランス序曲風の様式、第15番
・急-緩-テンポ・ディ・メヌエットの3楽章構成・・シンフォニーを創始したイタリアのサンマルティーニの様式、第18番と第30番
・急-緩-メヌエット-急/緩の4楽章構成・・ディヴェルティメント風の様式、第31番「ホルン信号」、第72番
・1764年、フランスのパリでハイドンの交響曲が初めて出版される。
 ハイドンは1757年に交響曲第1番ニ長調を作曲していますが、この時期以降に宮廷楽長として迎えられたボヘミアのルカヴィツェに領地を持つモルツィン伯爵のために作曲されたかどうかははっきりとしないようです。1761年にはエステルハージ家と契約していますので、それまではボヘミアかあるいはウィーンの伯爵の館で作曲していたと見られます。この時期、ハイドンは交響曲のあらゆる様式を実験的に試し、古典派交響曲の様式を模索しています。1761年には元オーストリア陸軍元帥であったパウル・アントン・エステルハージ侯爵に宮廷副楽長として雇われ、早速パウル・アントン侯から、愛聴していたヴィヴァルディの「四季」をヒントに、1日の「朝」「昼」「晩」をテーマとした3つの交響曲作曲の依頼を受けたものと見られます。第1曲「朝」は日の出をイメージした序奏に始まり、第2曲「昼」は5楽章のディヴェルティメント、終曲「晩」の終楽章は「嵐」の標題を持ちます。ヴィヴァルディの「四季」、ハイドンの「朝」「昼」「晩」の三部作は標題音楽の走りとなり、後のベートーヴェンの交響曲第6番ニ長調「田園」に、更にベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調「合唱付き」を経て、後のリストの交響詩に導かれたものと考えられます。
【音楽史年表より】
1757年から58年作曲、ハイドン(25、26)、交響曲第37番ハ長調Hob.Ⅰ-37
モルツィン伯爵時代の交響曲の中で最も古い「1758年」の年代が記された資料が残る。1760年以前のハイドンの交響曲の自筆譜はひとつも保存されていない。そのため副次的な資料によって1750年代の作品であることが推定できる第1番と第37番以外のモルツィン伯爵家時代の交響曲については謎に包まれていた。しかし、20世紀後半になってブダペストの国立図書館で最初の14曲の交響曲を含む信憑性の高い筆写譜の貴重なコレクションが発掘される。(2)
1765年5月から9/13の間に作曲、ハイドン(33)、交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」Hob.Ⅰ-31
第1楽章は軍隊用のトラムペット信号で開始され、そのあとに郵便ホルンの旋律が続く。1788年に出版されたパリのシベール版の楽譜には「シンフォニア・コンチェルタンテ」という表題に続いて「ニュルンベルクの郵便ホルン」という副題が記入されていた。第4楽章では通奏を除くすべての楽器が独奏者として登場する変奏曲を置いている。そして、フィナーレのエンディングには第1楽章冒頭のホルン信号が現れる。(3)

【第2期】1766年頃~73年頃・・・バロック様式の同化期
 第2期は前期古典派とバロック音楽の総合において、バロックの書法、特に対位法を積極的に導入した時期とされます。
・バロックのポリフォニックな書法の積極的な導入
・シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)と呼ばれる強い感情表出と短調交響曲の集中・・第26番ニ短調「ラメンタチオーネ」、第49番ヘ短調「受難」、第59番イ長調「火事」、第44番ホ短調「悲しみ」、第45番ヘ短調「告別」
・宗教的目的のための交響曲・・復活祭のための第26番「ラメンタチオーネ」、聖金曜日のための第49番「受難」、教会のための第64番「テンポラ・ムタンツァー」
・チェンバロの使用は控えられ、ファゴットに独立声部が与えられる。
・古典的均整を持つ主題・・第45番「告別」
・2声の対位法による主題・・第49番「受難」
・対位法を駆使した展開部の充実・・第35番
・展開部に独自の主題を登場させる自由なソナタ形式・・第45番「告別」
・1770年代前半、パリの公開演奏会コンセール・スピリチュエルなどでハイドンの交響曲が演奏される。
【音楽史年表より】
1768年作曲、ハイドン(36)、交響曲第59番イ長調「火事」Hob.Ⅰ-59
この作品では、劇場的ともいえるような突然の変化や唐突な表情、あるいは何らかの身振りを連想させるような箇所が随所に認められる。実際、シュヴェリーンの保管されているある筆写譜には「1774年にエステルハーザでヴァール一座による『大火事』の幕間音楽として書かれた」と記されている。(3)
1769年作曲、ハイドン(37)、交響曲第48番ハ長調「マリア・テレジア」Hob.Ⅰ-48
1773年ハプスブルク家皇太后マリア・テレジアがエステルハージ家を訪問する。3日間の歓迎行事の2日目にこの交響曲ハ長調が演奏される。この曲につけられている「マリア・テレジア」という呼び名はこの時の演奏に由来する。(3)

【第3期】1774年頃~84年・・・聴衆への迎合と実験期
 第3期はオペラ活動が本格化した時期でもあり、対位法を駆使した前期に代わって、簡潔な和声による優美な親しみやすい主題を多く使用しています。
・ソナタ形式よりも変奏曲や変奏曲風ロンドといった形式で、明快で親しみやすい主題を中心とした形式が用いられる。
・多忙なオペラ活動の合間をぬって、交響曲は集中的に作曲される。74年頃から76年に10曲、78年から80年に5曲、82年に3曲、84年に3曲。
・1778年にはオペラ活動が本格化し、オペラ、人形劇、演劇が239回の公演が行われ、演奏会はわずか3回に限られる。
・この時期の6曲の交響曲がオペラや演劇に関連している。
・民謡をはじめとする親しみやすい主題にもとづく変奏曲を緩徐楽章に愛用する・・第53番ニ長調「帝国」、第63番ハ長調「ラ・ロクスラーヌ」、第70番ニ長調
・作曲様式では内声部の充実、フルートの増加、ファゴットの独立などにより多彩な音色が得られるようになり、ピッチカート奏法やクレッシェンド、ディミヌエンドの多用など、第4期以降の手法が着実に試みられる。
・ハイドンは1770年頃から筆写楽譜の売却を行っているが、1778年にはウィーンで印刷楽譜出版が始まり、ハイドンは1782年にウィーンで初めての印刷楽譜として交響曲第73番「狩」を出版し、83年の交響曲第69番「ラウドン」出版にあたってはより広い愛好者層を考慮するようになるなど、出版譜の拡大によりハイドンの交響曲はヨーロッパに急速に広がる。
【音楽史年表より】
1778年4月~79年11月の間に作曲、ハイドン(46、47)、交響曲第53番ニ長調「帝国」Hob.Ⅰ-53
第53番ニ長調交響曲のフィナーレには2つの版がある。A版はおそらく79年11/18のエステルハーザ宮オペラ劇場火災後に作成されたと考えられる。取り換えられたB版のフィナーレは80年あるいは81年作曲の交響曲第62番の第1楽章に改作された。「帝国」の呼び名は同時代の楽譜には現れておらず、19世紀に付いたものと考えられる。(3)

【第4期】1785年~89年・・・古典的完成期(11曲のフランスのための交響曲)
 20数年にわたり育成してきた交響曲を、ハイドンが古典的と呼ぶにふさわしい完成された様式に高める機会は、大音楽都市パリから訪れます。
・ハイドンはパリの優れた大規模なオーケストラと聴衆の音楽趣味を意識しながら交響曲を作曲する。
・ハイドンの交響曲の最初の出版はパリで行われ、パリにおけるハイドンの交響曲に人気はウィーンやロンドンを上回っていた。パリではハイドンの交響曲をもっとも数多く出版される。
・1773年にはパリのコンセール・スピリチュエルで初めてハイドンの交響曲が演奏され、80年代に入るとパリの様々なオーケストラによってハイドンの交響曲が演奏されるようになる。
・1785年から86年にハイドンはパリのコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックからの依頼によって6曲のパリ交響曲を作曲し、自筆譜をパリに郵送する。ランドンはパリ交響曲に関して、誰にでも親しまれる様式と知性、技法とインスピレーション、ユーモアとモーツァルト風の精神とに結合を特色としている。
・1787年にはエステルハージ侯爵家のオーケストラのバイオリン奏者トストがパリに行って演奏活動を行うにあたり2曲の交響曲を作曲する。
・1788年から89年にはパリのドニィ伯爵からの依頼で3曲の交響曲を作曲、パリ交響曲と同様にオランピック演奏会で演奏されたと見られる。第92番「オックスフォード」では模倣やフガートをはじめ、対位法のさまざまな書法を駆使し、各曲は華やかなコーダで結ばれ、交響曲様式の完成を告げている。
【音楽史年表より】
1786年作曲、ハイドン(54)、交響曲第82番ハ長調「熊」Hob.Ⅰ-82(パリ交響曲)
「熊」という名称は18世紀か19世紀の初めに冠されたもので、最終楽章冒頭の低音部における前打音付きのハの音が熊の唸り声のようにきこえるところから名付けられた。自筆譜はパリ国立図書館に所蔵される。(3)
1789年作曲、ハイドン(57)、交響曲第92番ト長調「オックスフォード」Hob.Ⅰ-92
フランスのドニィ伯爵からの依頼を受けて書かれた交響曲の第3曲で、ハイドンの心技ともにきわめて円熟していて、すぐれた内容を示し、当時の代表的な作品としてザロモン交響曲に劣らぬ価値を持っている。オックスフォード大学はハイドンの崇拝者であるC・バーニー博士の推薦により名誉音楽博士の称号をハイドンに贈った。この好意に対して謝意を表するためハイドンはただちにオックスフォードに赴き、1791年7月6日から8日までの3日間にわたり3回の演奏会を開催した。最終日の8日にはハイドンは公式の学位授与式の席において、ガウンを着用し、みずから指揮してこのト長調交響曲を演奏した。(3)

【第5期】1791年~95年・・・円熟期(12曲のロンドンのザロモン演奏会のための交響曲)
 1790年9月、ハイドンが28年間にわたって仕えてきたニコラウス・エステルハージ侯爵が亡くなり、息子のアントン侯は音楽に関心を示さず大部分の音楽家を解雇し、ハイドンは名目上の楽長としてエステルハージ家にとどめられ、自由な音楽活動が認められます。ハイドンはボン出身のペーター・ザロモンの誘いでロンドンでザロモンが主催する演奏会のために新たな交響曲を作曲し、自らロンドンに渡り新作交響曲の指揮を行うこととなります。当時のロンドンはヨーロッパで最も盛んに公開のオーケストラ演奏会が行われていました。ハイドンの交響曲第96番「奇跡」はロンドン市民の圧倒的な支持を得て、以降ハイドンは12曲の新作交響曲を初演して行きます。
・1791年1月、ハイドンはロンドンに到着し、3月11日の第1回ザロモン演奏会を皮切りに6月までに14回の演奏会がハノーヴァー・スクェアーで行われ、第96番「奇跡」、第95番を初演する。
・1792年のシーズンには、第93番、第98番、第94番「驚愕」、第97番の交響曲が初演され、一時ウィーンに戻り、1794年には再びロンドンに登場する。
・1794年のシーズンには、第99番、第101番「時計」、第100番「軍隊」が初演される。
・1795年のシーズンはフランス革命の混乱の影響でヨーロッパからの一流歌手の招聘が困難になりザロモン演奏会は中止となり、2月からロンドンの音楽家たちが結集して、ロンドンのキングズ・シアターでオペラ・コンサートが開催され、ハイドンは第102番、第103番「ドラムロール」、第104番「ロンドン」を初演する。
【音楽史年表より】
1791年3/11初演、ハイドン(58)、交響曲第96番ニ長調「奇跡」Hob.Ⅰ-96
ロンドンのハノーヴァー・スクェアーで行われた1791年の第1回のザロモン演奏会で初演される。演奏会場となったハノーヴァー・スクェアーの大ホール(フェスティーノ・ルームズ)は、当時のドイツの音楽新聞によれば、パリやベルリンの演奏会場よりいくぶん広かった。観客の定員は800人で1792年のザロモン演奏会では倍近くの1500人が入場したという記録が残る。(2)
なお、「奇跡」という愛称についてはディースのヨーゼフ・ハイドンの伝記(1810年)に有名なシャンデリア事件が記述されているが、ハイドン自身が「そんなことは知らない」と答えるなど、その根拠は薄弱である。(3)

〇ハイドンの交響曲はルネサンス期から続いてきた純正律音楽の管弦楽曲の最後の輝きとなる
 セバスティアン・バッハは平均律クラヴィーア曲集を作曲し、1台のクラヴィーアで調律することなしにすべての調性で演奏することが可能であることを実証しており、古典派期に至って貴族の館や裕福な家庭にクラヴィーアが普及すると平均律による調律が一般に行われるようになっていったものと見られます。平均律の調律ではオクターヴの音程を一定間隔で調律するため、特にルネサンス期以来、音楽で最も美しく喜ばしいとされた長3度の和声を犠牲にすることになり、具体的には5:4の純正な長3度の周波数比が5.04:4程度の不純な和声となり、うなりを発生します。この純正な長3度の和声こそが音楽の神髄と信じていたハイドンには平均律でクラヴィーアを演奏した形跡が見当たらず、最後まで純正な長3度が可能な中全音律で演奏していたものと見られます。セバスティアン・バッハは室内楽のクラヴィーア曲でゴールドベルク変奏曲BWV988を作曲し純正律音楽の最期を飾りましたが、ハイドンは104曲の交響曲でオーケストラ曲の純正律音楽の最期を飾ったように思われます。声楽曲分野では、モーツァルトの10数曲のオペラにおいて純正律音楽の最後の輝きを飾ったものと見られます。ベートーヴェン以降、音楽では和声の多様化が進みロマン派の様式に移りますが、平均律によって転調を自由に行っても、オーケストラや声楽では長3度の和声を純正に響かせることは可能で、実際に演奏家はそのように演奏を行っています。しかし、ピアノ演奏においては、長3度の和声を純正に響かせることはできなくなり、作曲においてはモーツァルトがピアノ協奏曲で実践したように、なるべく長3度の和声の使用を避け、旋律や分散和音を多用する工夫が求められます。ウィーンでベートーヴェンがハイドンに弟子入りしたときに、ハイドンとの不和が起こったとされますが、おそらくベートーヴェンがハイドンの気に入らないセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を演奏したことが原因かもしれません。

【参考文献】
1.中野博詞著、ハイドン交響曲(春秋社)
2.中野博詞著、ハイドン復活(春秋社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
4.池上健一郎著、作曲家・人と作品シリーズ ハイドン(音楽之友社)

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