音楽史・記事編169.ドイツ語圏の作曲家の定住先と宗派
ウィーンやパリを訪問して教会のオルガンの演奏に感動された方は多いと思います。しかし、ウィーンやパリの教会では重厚なバッハのオルガン曲が演奏されることはありません。それはオーストリアやフランスはカトリックの国であり、バッハはプロテスタント・ルター派の作曲家だからです。本編ではバロック期、古典派期、ロマン派期ごとにドイツ語圏の作曲家がどの宗派の地域に生まれ、どの地域で活躍したかという観点から見て行きます。カトリックとプロテスタントという宗派の境界において、お互いの音楽が互いに影響を与え、そして発展してきたように見られます。

〇バロック期にドイツの巨匠が現れる
中世、ルネサンス期、ドイツは音楽史においては後進地域であり、主な作曲家は現れておらず、唯一ルネサンス末期からバロック初期にネーデルランドのスヴェーリンクが現れ北ドイツのオルガン音楽の大家となり、その背景としてはカール大帝のゆかりの地であるアーヘンをはじめヨーロッパ北部に次々大聖堂が建設されそれらの大聖堂には巨大なオルガンが設置されたことによるものと見られます。バロック期にはドイツにシュッツが登場し、イタリアのベネツィアへ渡りイタリア音楽を学びドイツのコラールによる様式にイタリア音楽様式を融合しドイツ音楽の基盤を作りドイツ音楽の父と呼ばれています。ドイツ・プロテスタントは宗教戦争である30年戦争が勃発し、結果的には敵対するハプスブル家に勝利し、ドイツはそれぞれが主権を持つ大小300の諸国に分裂し、その後の荒廃した国土の復興のなかでテレマン、ヘンデル、セバスティアン・バッハというバロック音楽の巨匠が現れます。
〇ドイツの作曲家がイタリアへ渡る
バロック初期にイタリアのモンテヴェルディによって近代オペラが始まり、1640年にはベネツィアで歌劇場がオープンし、イタリアにおけるオペラは全盛期を迎え、ベネツィアだけでも16もの歌劇場が興行を行っていたとされます。ベネツィアは地中海貿易で巨万の富を集め交易船により多くの人々が集まり、これらが多くの歌劇場の建設を可能にした背景と見られ、ドイツにおいても1678年にハンブルクにゲンゼマルクト歌劇場(鵞鳥市場歌劇場)がオープンしています。ハンブルクは北海沿岸で貿易を行っていたハンザ同盟の中心都市であり、イタリアのベネツィアと同様に領主のいない自由都市(共和国)であり、貿易で潤い経済的に豊かな状況となっていたことが伺え、このため文化的豊かさも求められ歌劇場が建設されたものと見られます。ハンブルクの音楽監督となったテレマンはこの歌劇場のために50曲近くのオペラを作曲したとされ、これらはドイツ語のジングシュピールであったようです。1685年、ヘンデルとセバスティアン・バッハという2大巨匠が誕生します。バッハがドイツで宗教的カンタータ、器楽曲を中心に作曲し、ヘンデルはハンブルクに移りオペラを作曲し、さらに本場イタリアへわたりイタリアの作曲様式を学び、イギリスにイタリアオペラをもたらし、オペラやオラトリオの名作を残しています。

〇ウィーンを中心とした古典派期
古典派期にはハイドン、グルック、モーツァルト、ベートーヴェンが活躍し、これらの作曲家はカトリック圏で生まれ、カトリックのウィーンを中心に音楽活動を行っています。ドナウ川やライン川に沿った地域はカトリック教会とプロテスタント・ルター派の境界地域にあたり、カトリック圏のオペラ文化とプロテスタント圏で成熟発展したソナタ形式などによるシンフォニー様式が混在した地域であり、古典派期には頻繁にそれぞれの地域の作曲家が宗派を超えて行き来するようになっています。バロック後期から古典派期には、プロテスタントのハンブルク近郊エラースバッハに生まれたアドルフ・ハッセがイタリアへ渡り、ヘンデルに続くイタリア・オペラ作曲家となります。ハッセはイタリア、ドイツでオペラ作曲家として活躍し、ドレスデンで宮廷楽長となってから以降は妻の出身地のヴェネツィアへ自由に渡航することが認められ、ドレスデンの宮廷楽長引退後はウィーンに移住しマリア・テレジアの音楽教師となり、親友のメタスタージョの台本によるオペラを上演しています。オーストリアのハンガリーに近いローラウという田舎町に生まれたヨーゼフ・ハイドンはその歌唱力によりウィーンの聖歌隊に招かれ、やがて苦学して音楽理論を学び多くの交響曲を作曲しヨーロッパにおける巨匠にまでのぼりつめ、晩年には2回にわたりイギリスのロンドンに渡り12曲の新作交響曲を初演しています。ザルツブルクの音楽家の家庭で生まれたモーツァルトは幼少期からその才能を見出されヨーロッパ各地の音楽様式を学び、オペラセリア、オペラブッファの分野で音楽史における最高傑作を残します。ハイドンの交響曲やモーツァルトのオペラはいずれも純正3度の和声が可能な中全音律で演奏されたものと見られ、伝統的な純正音律による交響曲、歌劇の分野における最高傑作となりました。また、カトリック圏のボンに生まれたベートーヴェンはプロテスタントのライプツィヒで学んだネーフェに師事し、バッハの平均律クラヴィーア曲集を学び、ルネサンス以来の伝統の純正和声の音楽様式を超え、自由で斬新な音楽創りを行います。平均律は音楽史において伝統であった純正3度の和声を犠牲にするものの、転調の制限から解き放たれ多様な和声による斬新な音楽創りを行えるようになり、ベートーヴェンによってロマン派様式が導かれました。
〇ドイツ語ジングシュピール
ウィーンでは古典派期まではイタリア・オペラが上演されて来ており、一方のドイツではジングシュピールというドイツ語音楽劇が上演されており、バロック時代のテレマンがハンブルクの歌劇場のために50曲のジングシュピールを作曲しており、またイギリスのバラッドオペラやフランスのオペラコミックがドイツ語に翻訳され上演されていたものと見られます。音楽劇であったジングシュピールをオペラ芸術にまで高めたのはモーツァルトによってです。モーツァルトがウィーンに移住してきたころ、女帝マリア・テレジアはすでに亡くなっており、皇帝ヨーゼフ2世の改革が進められていました。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争以来プロテスタントのプロイセン王フリードリヒ2世と敵対してきており、それに対し皇帝ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世の啓蒙思想に憧れをもっていました。母親であるマリア・テレジアが没すると、皇帝ヨーゼフ2世は次々と改革を行いますが、音楽ではプロテスタントの地域で主に行われていたドイツ語劇のジングシュピールを奨励します。そして白夜の矢を当てられた作曲家がモーツァルトでした。モーツァルトは本格的なジングシュピール「後宮からの誘拐」を作曲、ブルク劇場で初演し大成功を収めます。モーツァルトはイタリアのミラノで3つのオペラ・セリアを上演しており、ミュンヘンではオペラ・セリアの最高峰となった歌劇「イドメネオ」を初演し、ウィーンでもドイツ語の「後宮からの誘拐」に引き続き、3つのオペラ史に残る名作ブッファである「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を作曲し、生涯の最後には民衆のためのドイツ語ジングシュピール「魔笛」を残しています。ベートーヴェンはモーツァルトのオペラに大きな影響を受け、ドイツ語の歌劇「フィデリオ」を作曲します。初校および第2稿は失敗に終わったものの1814年のトライチュケの台本による最終稿によって大成功を収めます。ドイツ語ジングシュピールはモーツアルトによってイタリア・オペラと並ぶ完成度に高められ、ベートーヴェン、そしてロマン派のウェーバーに引継がれます。

〇ドイツ音楽という伝統の成熟
ロマン派に至り、交響曲という分野ではドイツ・プロテスタント圏から偉大な作曲家が排出されるようになります。交響曲は前期古典派期にその主要な様式であるソナタ形式がベルリンやマンハイムで完成され、ドイツ・プロテスタントの作曲家によって進化熟成されてきたわけで、古典派期にはカトリックのハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンによって完成されました。宗派が混在するドイツ語圏の作曲家によって、音楽史においてドイツ音楽という伝統を築き上げています。ユダヤ教の家庭に生まれながらもプロテスタント・ルター派に改宗したメンデルスゾーンは忘れられていたセバスティアン・バッハの大曲「マタイ受難曲」を復活上演し、偉大なドイツの作曲家セバスティアン・バッハの音楽がヨーロッパに知られるようになります。また、イギリスやイタリア旅行し、交響曲第3番「スコットランド」や交響曲第4番「イタリア」を残しています。また、シューマンはロマン派ピアノ音楽の申し子のように傑作を作曲し、その集大成として初めての本格的ロマン派ピアノ協奏曲イ短調を作曲し、交響曲においても交響曲第1番「春」や交響曲第3番「ライン」などの名作を作曲しています。シューマンの評論によって作曲家として世に出たブラームスは、シューマンが交響曲第3番「ライン」を初演してから25年後に交響曲第1番ハ短調をカールスルーエで初演し、音楽史に輝くこの交響曲はヨーロッパ各地で演奏され各地で感動をもって受け入れられますが、この交響曲の出現によってロマン派期のもっとも偉大な作品群であるチャイコフスキー、ドボルザーク、ブルックナーの交響曲が誕生したように見られます。
一方のオペラ分野でも、ロマン派期にドイツの作曲家が大きな役割を果たしています。19世紀最大のオペラ作曲家であったパリのマイヤーベーアはドイツ出身であり、パリのオペラ・コミックを主導したオッフェンバックもドイツ出身です。そして、ドイツ・ロマンオペラの巨人リヒャルト・ワーグナーが登場します。バロック期のテレマン、古典派期のモーツァルト、ベートーヴェンがドイツオペラのの伝統を創り上げ、ロマン派期初期にウェーバーは歌劇「魔弾の射手」を作曲し、真のドイツオペラが登場します。そして、ワーグナーはパリでマイヤーベーアのオペラに影響を受けるのもの、ドイツ・ロマンオペラという新しい様式を導きます。イタリアのオペラ様式を超え、声楽、管弦楽に加え、古代ギリシャの叙事詩を思わせる演劇の分野を統合した舞台芸術である壮大な「楽劇」という音楽史における最も規模の大きい音楽様式を創造します。ワーグナーは自身の楽劇のみを上演するための専用の劇場であるバイロイト祝祭劇場を建設し、楽劇「ニーベルングの指輪」は序夜である「ラインの黄金」、第1夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々の黄昏」の4つの楽劇で構成され、4夜にわたって上演されます。ワーグナーの楽劇はリヒャルト・シュトラウスに引継がれますが、リヒャルト・シュトラウスはモーツァルトに回帰し名作の歌劇「ばらの騎士」を残しています。
〇デュッセルドルフ・・・ドイツ・カトリックの牙城
音楽史において宗派の狭間で最も苦しめられた作曲家はシューマンかもしれません。シューマンはライプツィヒからライン川沿いのデュッセルドルフに招かれますが、プロテスタント圏に近いもののこの地はカトリック教会の牙城のような地域であったのです。ここで、ライン川沿いの複雑な成立経緯を見て行きます・・・西ローマ帝国が滅亡した後、帝国は東ローマ帝国の勢力下におかれます。しかし、ローマ・カトリック教会はその影響力を引き続き維持します。西暦800年、フランク王国のカール大帝はローマ皇帝を戴冠しヨーロッパは再び統合され、843年にはヴェルダン条約によりフランク帝国は3分割されます。このとき、イタリアの皇帝ロタール1世は現在のフランスのブルグント、ドイツのロートリンゲン、ライン川の西部を中部フランク王国として、カール大帝のゆかりのアーヘン周辺のロタリンギア地方を領有します。そして、ロタール1世の弟のルートヴィヒ2世はライン川東部の東フランク王国(現在のドイツ)を支配し、ロタール1世の異母弟のシャルル2世が現在のフランスを統治することとなり、現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型ができることとなります。962年にはドイツのオットー大帝によりロートリンゲンとイタリアを併合して神聖ローマ帝国が成立し、さらに1356年には金印勅書によってローマ皇帝は7人の選帝侯による選挙で選ばれるようになり、ローマ教皇からの戴冠は廃止されます。選帝侯は3人の聖職諸侯と4人の世俗諸侯により構成され、聖職諸侯は筆頭のマインツ選帝侯(ドイツ帝国大宰相)およびケルン選帝侯(イタリア王国大宰相)、トリーア選帝侯(ブルゴーニュ王国大宰相)であり、イタリア大宰相のケルン選帝侯によってアーヘン大聖堂で皇帝戴冠が行われるようになりますが、やがてドイツ帝国大宰相のマインツ選帝侯がフランクフル大聖堂で皇帝戴冠を行うようになります。(参考:32・選帝侯と皇帝戴冠式)
このような経緯からケルンに近いデュッセルドルフはカトリックの勢力が強く、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世の宗教的寛容令によりカトリック地域におけるプロテスタント・ルター派の共存が認めらるようになったものの、シューマンがデュッセルドルフでセバスティアン・バッハのマタイ受難曲を劇場で上演しようとした時、合唱団員からは猛烈な拒否反応が起こり、シューマンが精神に異常をきたした原因の一つと考えられます。シューマンにその才能を認められ、ライン川沿いを旅行したブラームスはカトリックという文化に触れ、シューマンの苦悩に関わったことから、シューマンがデュッセルドルフで交響曲第3番「ライン」を初演した後、カトリック圏のウィーンへ移り20年の歳月をかけて交響曲第1番を完成させ、初演はウィーンではなく思い出のライン川沿いのカールスルーエで行っています。
〇ロマン派期のウィーンの作曲家
ベートーヴェンの後期と重なりますが、ウィーンではシューベルトが現れています。シューベルトは31年の短い人生で異稿も含めると約2000曲の作品を残しており、半数以上はドイツリート、重唱曲で占められ、その他室内楽曲、宗教曲、歌劇、そして交響曲も残しており、ロマン派の代表的な交響曲第7番ロ短調「未完成」、交響曲第8番ハ長調「グレイト」の名作を残しており、これらの交響曲はシューベルトの生前には知られておらず、死後に名曲として世に現れています。また、オーストリアのリンツにはブルックナーがオルガン奏者として登場し、ワーグナーの重厚な音楽に影響を受け、交響曲作曲家として大成します。しかし、初期においてはウィーンでは田舎者のオルガン奏者という見方をされ、厳しい評論にさらされています。交響曲第4番「ロマンティック」で交響曲作曲家として認められ、交響曲第7番はヨーロッパ各地で演奏されます。
〇ロマン派期のウィーンの喜歌劇
舞踏の街ウィーンでは、モーツァルトの時代から新年のクリスマスの最期の行事である顕現節が終わると、カーニバルのシーズンまで舞踏会が開催されています。1840年頃にはランナーやヨハン・シュトラウス1世などの作曲家がワルツやポルカを作曲するようになり、つづいてヨハン・シュトラウス2世やヨーゼフ・シュトラウスなどが現れています。1858年にドイツからフランスに渡ったオッフェンバックが「天国と地獄」を上演すると、この小歌劇が喜歌劇の起源となったようで、ウィーンではスッペの喜歌劇「軽騎兵」やヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」などが作曲され、ウィーンでは舞踏会と喜歌劇が人気を集め、1905年レハールはオペレッタの名作「メリー・ウィドゥ」を初演しています。
【音楽史年表より】
1706年?あるいは1708年以前初演、J・S・バッハ(21)、カンタータ第150番「主よ、われ汝を求む」BWV150
1706年?あるいは1708年以前に初演する。バッハ最初期のカンタータのひとつ。ファゴット・パートが短3度高く記譜されていることからワイマール時代に演奏されたと考えられる。終曲のオスティナート主題がパッヘルベルのあるシャコンヌと一致するため、この先人が没した1706年に彼へのオマージュとして作曲されたとする説もある。ロ短調の終曲はこれまでの諸曲とは対照的に厳格なシャコンヌ様式で書かれており、ロ短調ミサ曲の十字架楽章の原点として、しばしば引き合いに出される。またブラームスが第4交響曲の終楽章の手本とした。(2)
1800年4/2初演、ベートーヴェン(29)、交響曲第1番ハ長調Op.21
ブルク劇場で行われたベートーヴェンの初めての自主演奏会で初演される。演奏会では交響曲第1番の他にピアノ協奏曲第1番ハ長調Op.15(改訂稿)、七重奏曲変ホ長調Op.20、ベートーヴェンのピアノ即興演奏、モーツァルトの交響曲、ハイドンのオラトリオ「天地創造」から抜粋2曲が演奏された。自筆譜が消失しており、正確な成立年代は不明。4/2には初演されているので遅くとも3月には成立脱稿され、演奏会用のパート譜作りの準備がなされたものと考えられる。(3)
この交響曲は最終的にヴァン・スヴィーテン男爵に献呈されるが、当初はボンのマクシミリアン・フランツ選帝侯への献呈が予定されていた。しかし、フランス軍の侵攻により既にボンの宮廷は消滅しており、選帝侯は各地を転々としたのち、1797年からウィーンのシェーンブルン宮殿の近くのヘッツェンドルフで孤独な晩年を送り、1801年7/26に亡くなった。(4)
1851年2/6初演、シューマン(40)、交響曲第3番変ホ長調「ライン」Op.97
デュッセルドルフにおいてシューマン自身の指揮で初演される。1850年11/2~12/9に作曲される。シューマンはフェルディナンド・ヒラーの推薦によって、デュッセルドルフ市の指揮者となり9月にドレスデンからデュッセルドルフに転居した。交響曲第3番「ライン」はこのライン地方への旅行と居住を契機として作られ、ライン交響曲と呼ばれる。ただし、シューマンは「ライン」という標題は付けなかった。1851年ボンのジムロック社から出版される。(5)
1876年11/4初演、ブラームス(43)、交響曲第1番ハ短調Op.68
カールスルーエの宮廷劇場でオットー・デッソフの指揮で初演される。その後、マンハイム、ミュンヘン、ウィーンなど各地で演奏される。シューマンの音楽評論「第2の道」によって世に紹介されたブラームスは、交響曲の作曲を自分の最大の課題とし、1855年頃から交響曲の作曲に着手している。しかし、その後20年以上も完成に時間を要した。ブラームスは1876年ハンブルク近くのザースミッツで全体の仕上げをし、9月にバーデン・バーデンの近くのリヒテンタールで完成する。その後、初演の後にもいろいろと手を加えた。(6)
【参考文献】
1.菊池良生著、神聖ローマ帝国(講談社)
2.バッハ事典(東京書籍)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)
4.KINSKY-HALM:Das Werk Ludwig van Beethovens(1955)
5.最新名曲解説全集(音楽之友社)
6.西原稔著、作曲家人と作品シリーズ ブラームス(音楽之友社)
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