音楽史・記事編153.ロッシーニのオペラ創作史、報酬制度を改革
ロッシーニはヨーロッパにおいてオペラの一時代を築き、フリーランス作曲家の経済的基盤となる制度を確立し、フランスではグランド・オペラを創始するなどの音楽史における偉大な功績をあげながらも、「怠け者」などと蔑まれることもある不遇な作曲家であるものの、近年ロッシーニの多くのオペラが復活上演されるようになり、高く評価されるようになっています。

〇ロッシーニ、ヨーロッパを席巻する
ロッシーニはイタリア東部のアドリア海に面したローマ教皇領ペーザロの音楽家の家に生まれ、8歳でボローニャに移り住み音楽学校に通い、音楽学校ではハイドンやモーツァルトを学び、特にモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」については詳細にスコアの研究を行ったとされます。1810年18歳のロッシーニはベネツィアのサン・モイゼ劇場で1幕のファルサ「結婚手形」で歌劇作曲家としてデビューを行います。ファルサとは日本語では笑劇などと訳され舞台装置の転換などは行わない小歌劇のようなもので、ロッシーニはサン・モイゼ劇場と5つのファルサ作曲の契約を行っています。当時のベネツィアはヨーロッパ各地から多くの観光客が訪れていたようで最盛期には40もの歌劇場が公演を行い、サン・モイゼ劇場のような小歌劇場は入場料も安く公衆向けの劇場であったようです。ロッシーニは初期のファルサですでに屈託のない軽妙な笑いの作風を確立しています。ミラノのスカラ座で2幕のブッファ「試金石」を初演したロッシーニはオペラ作曲家としてイタリアでその名が知られるようになり、続いてベネツィアのフェニーチェ座で2幕のセリア「タンクレーディ」を成功させると、その名声はたちまちのうちにヨーロッパ中に広がり各歌劇場で上演され、続くブッファの「アルジェのイタリア女」、同じくブッファの「泥棒かささぎ」、「セビリアの理髪師」とヒット作を生み出し、ヨーロッパを席巻して行きます。岡田暁生氏の「オペラの運命」(1)によれば、・・・モーツァルトが他愛ない笑いの中にも毒を忍び込ませるのとは対照的に、ロッシーニの手にかかると陰惨な現実さえ軽妙で曇り一つない笑いに変える。例えば「泥棒かささぎ」では、横暴な代官によって銀の皿を盗んだと無実の罪を着せられた主人公のニネッタが死刑台に引き立てられ行くところに伝令が現れ、彼女が無実であること、そして犯人が鳥のかささぎであることが伝えら、陰惨な場面が笑いの場面に代わるというナンセンス喜劇に終わる。だが、ナンセンス喜劇だからといってロッシーニの喜劇を笑ってはいけない。ロッシーニの喜劇オペラは「他愛ない笑い」の純化であり、どんな場面でも常に「優雅な軽佻浮薄」を演じきって見せる徹底性こそ、ロッシーニをして比類ない、偉大な作曲家たらしめているものなのである。
〇ロッシーニ、報酬制度を改革
音楽史において救世主といえる作曲家を2人あげるとすれば、ルネサンス期のパレストリーナとロマン派初期のロッシーニではないかと考えられます。パレストリーナは「宗教音楽はそもそもグレゴリオ聖歌のように単旋律でおごそかに歌われるべきであり、世俗音楽のように声部を重ねるポリフォニー様式は宗教音楽にはふさわしくない」としたローマ・カトリック教会に対し、「教皇マルチェルスのミサ曲」を作曲し、宗教音楽においてポリフォニー様式を認めさせています。その後のルネサンス、バロック、古典派における宗教音楽の重要性を考えると音楽の隆盛はパレストリーナの功績によるものといえます。一方のロッシーニは、モーツァルト、ベートーヴェンに始まったフリーランスの作曲家の経済的基盤を確立する改革を行っています。ロッシーニは自身で作曲した作品の所有権を主張し、ロッシーニ以降作曲家は興行料の一部を手にすることができるようになり、すぐれた作品を作曲すれば上演されるごとに作曲家に収入が得られるようになったことから、多くのロマン派の作曲家が誕生したのではないかと考えられます。
(参考:音楽史年表記事編5.怠け者ではなかったロッシーニ)
〇ロッシーニ、パリでロマン派グランドオペラを創始する
この時代のヨーロッパはフランス革命、ナポレオンの侵攻を経て、王侯貴族中心の社会から海外貿易などで財を成した資産家や中産階級が勃興した時代であり、王侯貴族の支援を失った各地の劇場経営は苦境に陥っていました。イタリアの興行師バルバヤは興行の採算性を高めるために作曲家を苦しめ、さらに当時フランスで開発されたばかりのルーレットを劇場に持ち込み賭博で集客を図るという手段にまで手を染めています。ウィーンのケルントナートーア劇場でも経営再建を図るために1821年にイタリアの興行師バルバヤを招聘し、翌年には当時ヨーロッパで圧倒的な人気があったロッシーニのオペラによるロッシーニ・フェスティバルを催し、ロッシーニは妻でソプラノ歌手のコルブランとともにウィーンを訪問しています。ウィーンを訪問したロッシーニは尊敬するベートーヴェンを訪ね、食事を共にしています。おそらく、ベートーヴェンとは悪辣な興行師に話が及んだ可能性があります。
(参考:音楽史年表記事編110.ウィーン・ケルントナートーア劇場、作曲家の報酬改革)
ウィーンのベートーヴェンを訪問したロッシーニはフリーランス作曲家の収益確保対策に目覚め、興行師バルバヤと作曲した歌劇の所有権について激しく争い、以降作曲家は自作品の楽譜の劇場への貸し出しを行うなど、優れた作品を作曲すれば作品が上演されるごとに収益をあげられるようになります。1824年ロッシーニはバルバヤと決別し、パリのイタリア座の音楽監督に招かれフランスに渡ります。パリではフランス政府との契約により、グランド・オペラ「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」を作曲しフランス・グランドオペラの先駆けとなり、またブッファにおいても歌劇「ランスへの旅」とその改作版である歌劇「オリィ伯爵」を作曲しています。これらはロッシーニに取って推敲を重ねた傑作となっており、イタリア時代の興行師からせかされて作曲したオペラに比べれば完成度が格段に上がっているとされます。しかし、ロッシーニは「ギョウーム・テル」を最後にオペラを作曲しなくなります。ロッシーニはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンを模範に芸術作品としてのオペラを作曲しようとしていたように思われます。しかし、フランスのオペラ劇場は社交の場としての娯楽場と化し、マイヤーベーアのグランド・オペラがもてはやされる中、連日、フランス革命以降に財を成した成金たちが押しかけ、ロッシーニはこのような堕落したフランス・オペラ界に嫌気がさしオペラ作曲から遠ざかったのものと見られます。ロッシーニは自作品の所有権を獲得し、自身のオペラが上演されるたびに収入が得られ、また十分な年金も与えられ、後生は宗教曲や室内楽作曲に移行して行きます。さらに、イタリアでオペラ作曲を行っていたドニゼッティやベッリーニをパリに呼び寄せ、後輩作曲家への経済的な支援を行っています。このようにロッシーニは後のイタリア・グランドオペラの巨匠ヴェルディやプッチーニを生み出す、その礎となったように思われます。音楽史における偉大な貢献を行ったロッシーニは、自虐的に自身を「怠け者」と語ったにしても、ロマン派の多くの作曲家を生み出した改革を成し遂げたことを思えば、パレストリーナと並ぶ音楽史における救世主といえるようにも思えます。
【音楽史年表より】
1810年11/3初演、ロッシーニ(18)、歌劇「結婚手形」
1幕のファルサ(笑劇)、ベネチアのサン・モイーゼ劇場で初演される。ロッシーニがボローニャ音楽院を卒業した時に作曲した第1作。序曲は音楽院在学中に作曲した2曲のうちひとつを利用している。ロッシーニがベネチアのサン・モイーゼ劇場のために書いた1幕の短い笑劇であるファルサ5曲の第1曲。ロッシーニはこのサン・モイーゼ劇場でオペラ作曲家としてのデビューを飾ったが、後年自ら次のように語っている・・「あの劇場はかつて、マイール、ジェネラーリ・パヴェール、ファリネッリ、コッチャなど若いオペラ作曲家たちにデビューの機会を与えてくれたところで、私も1810年にここでオペラ作曲としてのキャリアを踏み出した思い出の劇場です。ただ、当時ここの支配人が持っていた予算は最小限のもので、かなりましな数人の歌手たちの陣容を除けば、コーラスは全くなし、1曲のファルサに許される装置は1杯だけ、それもごくありふれた簡素な舞台に限られていて、リハーサルはほんの2、3日といった状態でした。しかし、そのような厳しい条件が、逆に、新米の若い作曲家たちのデビューを容易にしたというのもまた明らかな事実だったのです。」(3)
1813年5/22初演、ロッシーニ(20)、歌劇「タンクレーディ」
ベネツィアのフェニーチェ座で初演される。ガエタノ・ロッシの台本による2幕のオペラ・セリアまたはメロドラマ・エロイコ。原作は1760年のヴォルテールの「タンクレード」、ガエターノ・ロッシの台本による。ロッシーニはミラノでのオペラ「試金石」で一躍人気作曲家となったが、この「タンクレーディ」は彼の経歴におけるさらなる画期的な作品となり、オペラ・セーリアの作曲家としてのロッシーニの成熟を記す。この作品は彼のオペラで、最も完璧なまでに抒情的な作品のひとつであり、スタンダールが「けがれなき純真さ」と評したものの筆頭にあげられるべき作品であり、あくまで声の響きの美しさを重視するロッシーニの配慮がはっきりと示されている。(2)
このすてきなオペラは4年間でヨーロッパを1周してしまった。序曲冒頭の数小節は魅力にも高貴さにも欠けていない。だが、天才が発揮されるのはアレグロになってからであり、ベネツィア初演時にはあらゆる聴衆の心を魅了した。序曲のアレグロが大変な好評を得たものだから、ロッシーニは満場の喝采とブラヴォーがとどろく中でようやく隠れ場所を出て、ピアノの席に滑り込んだ。1幕4場のタンクレーディのアリア「燃え上がらせるあなた」はこれ以上様々な土地で歌われたアリアも他にあるまい。長い離別の後また会えた喜びを見事に表現したこの甘美なカンティレーナはギリシャの連禱が元になっているらしい。ロッシーニは数日前ベネツィアの潟に浮かぶ小島の教会の晩課の時刻にこの連禱を聞いている。このような表現はペルゴレージやサッキーニの時代の音楽にはできなかったし、今のドイツ人にもできはしない(4)
1816年2/20初演、ロッシーニ(23)、歌劇「セビリアの理髪師」
ローマのアルジェンティーナ劇場で初演される。ステルビーニの台本による2幕のオペラ・ブッファ、当初の題名は「アルマヴィーヴァ、むだな用心」。ボーマルシェの同名の芝居とパイジェッロの同名のオペラの台本が改作される。どのリブレットにも許可を出さない警察に苛立ったアルジェンティーナ劇場の支配人はローマ総督に「セビリアの理髪師」を提案し、ようやく受け入れられる。しかし、パイジェッロがすでに音楽を付けていたので、ロッシーニはひどく面倒な立場に追い込まれる。ロッシーニはナポリの老マエストロ・パイジェッロに早速手紙を書くが、パイジェッロはたいへん丁重な返事をよこし、教皇警察の選択に心から喜んで同意すると言ったが、どうやら派手な失敗を当て込んだらしい。ロッシーニはパイジェッロの返事をローマ中の音楽通に見せびらかしてから、仕事に取りかかり、13日間で音楽はでき上がった。ローマの人びとはオペラの冒頭が退屈で、パイジェッロよりずいぶん劣ると失望したが、ロジーナとフィガロの二重唱までくると、オペラは持ち直し、ロッシーニの楽風が十二分に発揮されてくる。(4)
1829年8/3初演、ロッシーニ(37)、歌劇「ウィリアム・テル(ギョーム・テル)」
パリ・オペラ座で初演され、ベルリオーズなども称賛したほどの成功であった。原作はフリードリヒ・フォン・シラーの戯曲「ヴィルヘルム・テル」。ロッシーニが作曲した最後のオペラ「ウィリアム・テル」は1824年にパリに移り住んだ時に、フランス政府と交わした取り決めに基づいて作曲契約が結ばれた新しいグランド・オペラである。この企画のためにいくつものテクストが検討されたが、そのうち2本はスクリーブのもので、1本はのちにオベールの「ギュスタヴ3世」とヴェルディの「仮面舞踏会」になり、もう1本はアレヴィの「ユダヤの女」になった。(2)
ロッシーニの「ウィリアム・テル」(シラー原作)はロッシーニの快楽的なイメージを根底から覆す大傑作であり、あのロッシーニ嫌いのワーグナーさえも文句なしに感服していた。ウィリアム・テルは何よりもその完成度の高さと構想の雄大さの点で、それまでのロッシーニ作品から際立っている。イタリアの作曲家は興行師の使用人のようなもので、ロッシーニといえども興行師に言われるまま低賃金で次々に作品を書き飛ばさなくてはならなかった。失われた祖国の自由を憂えるウィリアム・テルの苦渋に満ちた声からは歴史に翻弄されつつも、自らの手でそれを動かし、祖国を建設しようとする近代人の苦悩と意思がはっきり聴き取れる。そこでは我々と同じ生身の人間が、自ら彼らに投影することによって、我々一人ひとりが歴史という名のオペラの主人公になるのだ。この点でウィリアム・テルは史上まったく新しいタイプのオペラであり、7月王政の時代に確立されるグランド・オペラのジャンルの偉大な先駆であり、新時代の到来を告げる記念碑的な作品である。(1)
【参考文献】
1.岡田暁生著、オペラの運命(中央公論新社)
2.新グローヴ・オペラ事典(東京書籍)
3.高崎保男・シュベチンゲン音楽祭解説(TELDEC VIDEO CLASSICS)
4.スタンダール著、山辺雅彦訳、ロッシーニ伝(みすず書房)
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