音楽史・記事編108.ウィーン・レドゥーテンザール

ウィーン宮廷近くのヨーゼフ・プラッツの宮廷図書館に隣接してレドゥーテンザールと呼ばれる宮廷舞踏会場があり、ここでは宮廷主催の舞踏会の他、演奏会場としても使用され、ハイドンのオラトリオやベートーヴェンの交響曲が初演されています。1787年12月、モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世から、グルックの死去に伴い後任として宮廷作曲家に任命され、レドゥーテンザールで行われる舞踏会のためのドイツ舞曲、メヌエット、コントルダンスなどを作曲しています。モーツァルトにとってはようやく待ち望んだ宮廷作曲家に任命されたわけですが、グルックに与えられていたオペラの作曲家ではなく宮廷舞踏会のための舞曲等の作曲が委嘱されます。しかし、モーツァルトには別途にオペラの委嘱があり、ブッファの最高傑作である「コシ・ファン・トゥッテ」を作曲します。1790年2月、啓蒙改革を推進した皇帝ヨーゼフ2世が亡くなり、皇帝位は改革の行き過ぎを押しとどめようとした実弟のレオポルト2世に代わります。新皇帝はモーツァルトとともに名作ブッファを生み出した宮廷詩人のダ・ポンテを即座に解任するものの、モーツァルトは宮廷作曲家にとどめました。1791年の舞踏会シーズンには、モーツァルトは新作舞曲を次々作曲していますが、これは新皇帝にアピールする目的があったのかもしれません。
当時からヨーロッパの巨匠としての名声を得ていたハイドンはロンドンのザロモン・コンサートに招聘されます。ハイドンは高齢でもあり、モーツァルト、ベートーヴェンの台頭により、オペラ、交響曲などのほとんどの作曲分野については引退し、ロンドンで感銘を受けたオラトリオの作曲に生涯最後の力を振り絞り大作の「天地創造」を完成させ、さらに1801年5月にはウィーン宮廷のレドゥーテンザールでオラトリオ「四季」を初演します。
ベートーヴェンは1814年2月にレドゥーテンザールで自主演奏会を開催し、交響曲第8番ニ長調Op.93およびオーケストラ伴奏三重唱「おののけ、背徳者よ」Op.116を初演します。この時期、ヨーロッパはナポレオンを巡り大きく情勢が変わろうとしていました。1812年にロシアに侵攻し敗退したナポレオンは一気に逆風にさらされ、イギリス、プロイセン軍の侵攻を受け、かつてはフランス・ナポレオンの全権大使としてウィーンに赴任したベルナドット将軍までもが、スウェーデンの王太子として16万の兵力でフランスに対峙しています。1813年6月にイギリス軍はスペイン北部のヴィットリアでナポレオン軍に勝利し、ベートーヴェンはこの「ヴィットリアの戦い」をテーマとした戦争交響曲を作曲し、12月に交響曲第7番とともに初演しウィーンの聴衆に熱狂的に受け入れられます。交響曲第8番の初演時にも交響曲第7番と戦争交響曲の3回目の再演が行われ、聴衆の陶酔は極限に達したとされます。1814年4月にはナポレオンは失脚し、エルバ島に流され、ウィーンでは9月にはヨーロッパ各国の首脳が集まり、新しいヨーロッパの体制について話し合うウィーン会議が始まります。ベートーヴェンはトライチュケの改訂台本によって歌劇「フィデリオ」最終稿を初演し大成功させ、ウィーン会議期間中には繰り返し上演が行われています。ベートーヴェンはウィーンの巨匠として各国の首脳からも人気を集め、この時期に経済的にも恩恵を受け蓄財を行い、2000グルデン(約2000万円)相当の銀行株券8枚を甥のカールのために残すことになります。しかし、ベートーヴェンは不滅の恋人との破局により人生最大のどん底の状況にあり、ウィーンでの人気沸騰はとりあえず喜ばしいことではあるものの、苦悩を乗り越えて歓喜に至る過程にあり、ベートーヴェンの心の葛藤は続いていました。
【音楽史年表より】
1787年12/7、モーツァルト(31)
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトをグルックの後任として、年俸800フローリン(約800万円)で宮廷作曲家に任命する。グルックは年俸2000フローリンで宮廷委嘱のオペラも作曲していたが、モーツァルトには舞曲を中心とした作曲が委嘱される。(1)
1788年1/14作曲、モーツァルト(31)、コントルダンス「雷雨」K.534
レドゥーテンザールでの舞踏会のために作曲される。(1)
1/23作曲、モーツァルト(31)、コントルダンス「戦闘」K.535
軍楽調は当時大流行していた。トルコ行進曲の部分では低弦は弓の背で弦を打つ奏法(コル・レーニョ)を使う。(1)
1/27作曲、モーツァルト(31)、6つのドイツ舞曲K.536
88年の謝肉祭のシーズンにおける宮廷舞踏会のために作曲される。(1)
10/30作曲、モーツァルト(31)、2つのコントルダンスK.565、(1)
12/6作曲、モーツァルト(31)、6つのドイツ舞曲K.567、(1)
12/24作曲、モーツァルト(31)、12のメヌエットK.568
宮廷主催のレドゥーテンザール舞踏会のための舞曲。(1)
1789年2/21作曲、モーツァルト(32)、6つのドイツ舞曲K.571、(1)
12月作曲、モーツァルト(33)、12のメヌエットK.585
89年冬の宮廷主催の舞踏会のために作曲される。(1)
12月作曲、モーツァルト(33)、12つのドイツ舞曲K.586、(1)
12月作曲、モーツァルト(33)、コントルダンス「英雄コーブルクの勝利」K.587
コーブルク公はルーマニアのマルティネスの戦いでトルコ軍を打ち破った。その勝利を讃えた軍歌が引用されている。(1)
1790年2/20、モーツァルト(34)
神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世死去する。このため、「コシ・ファン・トゥッテ」の上演は5回目の公演で打ち切られ、劇場は5月まで閉鎖される。(1)
10/9、モーツァルト(34)
レオポルト2世の戴冠式がフランクフルト大聖堂で催される。(1)
12/15、モーツァルト(34)、ハイドン(58)
ヨーゼフ・ハイドン、ウィーンを発ちロンドンへ向かう。(2)
1791年作曲、モーツァルト(35)、5つのコントルダンスK.609、(1)
1/23作曲、モーツァルト(34)、6つのメヌエットK.599、(1)
1/29作曲、モーツァルト(35)、6つのドイツ舞曲K.600、(1)
2/5作曲、モーツァルト(35)、4つのメヌエットK.601、(1)
2/5作曲、モーツァルト(35)、4つのドイツ舞曲K.602、(1)
2/5作曲、モーツァルト(35)、2つのコントルダンスK.603、(1)
2/12作曲、モーツァルト(35)、2つのメヌエットK.604、(1)
2/12作曲、モーツァルト(35)、3つのドイツ舞曲K.605、(1)
2/28作曲、モーツァルト(35)、コントルダンス変ホ長調「婦人たちの勝利」K.607、(1)
2/28作曲、モーツァルト(35)、6つのレントラー舞曲K.606、(1)
3/6作曲、モーツァルト(35)、コントルダンス ト長調「意地の悪い娘たち」K.610、(1)
3/6作曲、モーツァルト(35)、ドイツ舞曲ハ長調「ライエルひき」K.611、(1)
1801年5/24(5/29?)公開初演、ハイドン(69)、オラトリオ「四季」Hob.XXⅠ-3
宮中のレドゥーテンザールにて公開初演が行われ、大成功を収める。ハイドンは前作のオラトリオ「天地創造」を完成初演したのち、約2年間の推敲を重ね、オラトリオ「四季」を完成する。台本はスコットランドの詩人トムスンが1726年から30年にかけて発表し、すでに1745年にはブロッケスによるドイツ語訳が出版されていた叙事詩「四季」をもとに、ヴァン・スヴィーテン男爵が作成した。ただし、第34番にはビュルガー、第36番にはヴァイセという当時ウィーンで親しまれていた2人の詩人による詩が用いられている。ヴァン・スヴィーテン男爵による台本は春、夏、秋、冬の4部分から構成され、舞台はハイドンに馴染み深い下オーストリアの農村に移されている。(2)
1814年2/27初演、ベートーヴェン(43)、交響曲第8番ヘ長調Op.93
ウィーンの宮廷内のレドゥーテンザールで開催されたベートーヴェンの自主演奏会で初演される。第8交響曲初演時に交響曲第7番イ長調Op.92(4回目の演奏)、「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」Op.91が再演される。(3)
この日のコンサートではベートーヴェンの生涯において最も大きな編成のオーケストラによって交響曲第7番イ長調が演奏され、大編成のオーケストラは大音響をとどろかせ、「ウェリントンの勝利」Op.91ではこれらのオーケストラが舞台の両側に2つのオーケストラとして配置され、圧倒的迫力ある演奏により聴衆の陶酔は極限に達したといわれる。(4)
2/27初演、ベートーヴェン(43)、ソプラノ、テノール、バスの独唱、オーケストラ伴奏による三重唱「おののけ、背徳者よ」Op.116
ウィーンのレドゥーテンザールにおいてベートーヴェンの指揮により初演される。ベートーヴェン自身のイタリア語の詩による。スケッチは1801年~02年に現れているが、完成は1814年となる。(3)
1815年12/25初演、ベートーヴェン(45)、序曲「霊名祝日」ハ長調Op.115
ウィーンの大レドゥーテンザールで開かれた聖マルクス市民病院基金のための演奏会でベートーヴェンの指揮で初演される。ベートーヴェンの11曲の序曲の中でオペラや演劇と無関係に成立した唯一の序曲。初演の6年前の1809年にさかのぼる最初のスケッチには「あらゆる機会のために・・・あるいは演奏会のための序曲」と記されており、ベートーヴェンの作曲意図がはっきりと示されている。(3)
12/25初演、ベートーヴェン(45)、合唱とオーケストラのための「海の凪と成功した航海」Op.112
ウィーンの大レドゥーテンザールでベートーヴェンの指揮で初演される。ゲーテの詩により作曲され、ゲーテに献呈される。1812年ベートーヴェンとゲーテはテープリッツ及びカールスバートで会合し、親交を深めたが、その後2人が会うことはなかった。それでも互いに尊敬し合う関係は続き、ベートーヴェンはゲーテの「海の凪と成功した航海」の音楽化を試みる。(3)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
3.ベートーヴェン事典(東京書籍)
4.平野昭著、作曲家・人と作品シリーズ ベートーヴェン(音楽之友社)
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