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音楽史・記事編161.ベルリオーズの交響曲、管弦楽曲創作史

 ベートーヴェンによってロマン派への扉が開かれ、ロマン派音楽の特徴としては和声の多様化と音楽における感情の表出にあるように思われます。シューベルトはコンヴィクトの管弦楽団に入りさまざまな作曲家の交響曲に触れ、初期には古典的な交響曲を作曲し、さらにベートーヴェンの後期作品への移行に呼応するかのように、ロマン派を代表する未完成交響曲、グレイト交響曲を作曲しています。シューベルトの交響曲は歌曲のような主題を用い、多様な和声を駆使しロマン的な作品を創作しています。しかし、シューベルトの交響曲は生前に公開演奏されることはなく、時を経て知られるようになります。この時期、フランスではロッシーニが初めてのフランス・グランドオペラの作品となる「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」を作曲し、さらにアレヴィ、マイヤーベーアがグランドオペラの大作を作曲し、人気を得て行きます。フランスのグランドオペラは従来のオペラに比べて桁外れの大規模なオペラであり、ヨーロッパにおける19世紀最大のオペラとなります。一方、リヨン近郊に生まれたベルリオーズは型破りな性格にもかかわらず、管弦楽の分野において、大規模な管弦楽を駆使して、ロマン派のもう一つの特徴である感情表現にあふれる名作を残しています。特に「幻想交響曲」はライトモチーフの使用や循環形式などのロマン派の創作様式にも多大な影響を与えています。

○幻想交響曲・・・情感豊かなロマン派交響曲
 1827年9月、23歳のベルリオーズはパリのオデオン劇場で、シェイクスピアの劇を演ずる女優ハリエット・スミッソンを見て以来、激しい片思いの情熱を抱き、パリで人気を得ていたハリエット・スミッソンへの片思いはその後1年半ほどの間は揺らぐことはなかったものの、1829年にはベルリオーズの報われぬ片思いは次第に憎悪の念に変わり、ついには復讐の劇を上演しようとの思いから、心の放浪の自伝的な記録を、描写的な交響曲としてまとめて、それを大衆の前で演奏することがベルリオーズの心を慰める唯一の方法と思われるようになり、このようにしてロマン派交響曲として金字塔を打ち立てた幻想交響曲が生まれます。(1)
 幻想交響曲は従来の交響曲様式にとらわれず、5楽章からなり、楽章ごとに標題を持っています。交響曲の楽章に標題をつけることはヨーゼフ・ハイドンが1761年に作曲した3曲の交響曲「朝」「昼」「晩」の第3曲目の交響曲第8番ト長調「晩」の第4楽章に「嵐」と標題を付けたことに始まります。一方、協奏曲ではヴィヴァルディが1725年にアムステルダムで出版したバイオリン協奏曲集「和声と創始への試み」の第1曲から第4曲のいわゆる「四季」の各楽章にソネットを載せており、標題音楽の先駆けとなっています。ベートーヴェンは1808年に交響曲第6番ヘ長調「田園」を作曲し、各楽章に標題を載せています。ベルリオーズの標題付きの幻想交響曲はリストの創作に影響を与え、リストは音楽と詩を融合した交響詩を創始します。パリを訪問したリストは幻想交響曲初演前日にベルリオーズに初めて会っており、ベルリオーズの大規模な管弦楽曲はリストに大きな感動を与え、この後ベルリオーズをドイツのワイマールへ招き、ベルリオーズ週間と題するベルリオーズの音楽による音楽祭を開催しています。
 また、幻想交響曲はロマン派の特徴である情感を表出した交響曲となっていますが、ロマン派の扉を切り開いたベートーヴェンの交響曲に自身の恋愛情感表現が現れています。交響曲第4番では当時相思相愛の関係であったダイム伯爵の未亡人ヨゼフィーネへの思いを表現しているように思われ、ダイム伯爵の死により、ピアノのレッスンを通じてヨゼフィーネと親しい関係になったベートーヴェンは夫婦の愛の勝利をテーマとした歌劇「フィデリオ」を作曲します。しかし、歌劇は不首尾に終わり、ボンの友人ブロイニングによる改訂稿による再演も不成功に終わり、歌劇に代わり3つの交響曲によって夫婦の愛の勝利を願ったものと見られ、冒頭の交響曲第4番の序奏では地底から湧き上がるマグマのように愛の芽生えを表現しているように思われます。また、交響曲第7番では足しげく通っていたアントーニア・ブレンターノから自身への愛情に突然気づき、ベートーヴェンは第7交響曲序奏冒頭で突然の恋愛の到来を表しているように思われます。ベルリオーズがベートーヴェンの交響曲にこのような情感表現があったと感じていたかどうかはわかりませんが、ベルリオーズはロマン派の情感豊かな創作表現の先駆けとなったように感じられます。
(参考:45.ベートーヴェン、交響曲第4番変ロ長調
(参考:62.ベートーヴェン、交響曲第7番イ長調)
 幻想交響曲では恋人を表す固定楽想が全曲を通して現れ、これはライトモチーフを先取りしており、ワーグナーは楽劇においてライトモチーフを使用し、現代においても映画などでライトモチーフが使用されています。また、全曲を通じた固定楽想の使用は、ロマン派における循環形式の様式を導くものとなっています。

○イタリアへの音楽留学
 経済的に恵まれなかったベルリオーズはコーラスのアルバイトなどもしながらパリ音楽院で音楽理論等の音楽の基礎を学んでいます。フランスにはフランス学士院によるイタリア留学制度があり、毎年応募者の中から当選者は5年間の年金が与えられ、その間に2年以上のローマ滞在による音楽留学とドイツへの遊学が義務付けられていました。苦学していたベルリオーズは1826年から毎年応募するものの落選を続け、1830年にようやく4度目の応募で当選しています。課題曲にはカンタータの応募が義務付けられ、ベルリオーズはカンタータ「サルナダパルの死」を書き上げ1位に選ばれています。ベルリオーズはこのとき若く美しいピアニストのマリー・モークと婚約しており、ローマ賞には選ばれたものの年金を受け取るために後ろ髪をひかれるようにローマへ出発したようです。しかし、パリの許婚者からは手紙の返事は一向に届かず、ローマに到着して半月もたたないうちに、ベルリオーズの焦燥は募りフランスへの帰国を決意し、ローマを出発します。フィレンツェに滞在していたベルリオーズのもとにマリー・モークの母親から手紙が届き、手紙にはなんと婚約者のマリー・モークがプレイエル社の長男と婚約したというものでした。逆上したベルリオーズは復讐を果たすため女装してフランスへ向かうという奇策に出ます。しかし、フランス国境手前で正気に戻り、ニースに1ヶ月ほど滞在しローマに戻ります。ローマ出奔のいきさつを打ち明けていたローマの学士院のヴェルネ館長はベルリオーズを穏やかに迎え、翌年の5月まで滞在し、パリには11月の戻っています。
 ベルリオーズはローマで、イタリア遊学中のメンデルスゾーンとロシア国民音楽の開拓を目指すグリンカに会っています。メンデルスゾーンは、ピアノもバイオリンも弾けないにもかかわらずローマ留学に選ばれたベルリオーズのローマ出奔騒動を見ており、破天荒で激情な性格のベルリオーズの行動にあきれ果て、まじめに音楽に取り組んできた自分自身とは性格の合わない人物と見たようです。
 パリに戻ったベルリオーズは1832年12/9に初めての演奏会を開き、「幻想交響曲」とその続編の叙情的独白劇「レリオ、生への復帰」を上演し、成功を収めますが、この演奏会にはベルリオーズの事情を知り、その意をくんだ知人のシュレジンガーの手配によってハリエット・スミッソンが出席していました。ハリエットはプログラムに記された台詞と、会場の人々の注視からベルリオーズの真意を初めてくみ取ることになります。ベルリオーズの音楽は巨大化し公演においても莫大な経費を要し経済的に厳しい状況が続きます。一方、ハリエット・スミッソンも往時の人気は凋落し、資金不足に直面し、ベルリオーズはハリエットの公演に音楽をつけるという援助を行ったりしています。1833年10/3、ベルリオーズとハリエットは家族などの周囲の猛反対の中、英国大使館礼拝堂で結婚式を挙げ、この結婚式にはリストやヒラーなどが参列しています。しかし、新婦のハリエットには負債が1万4千フランも残っており、夫妻はベルリオーズの月200フランの給付金で生活するという厳しい船出となります。(1)

〇パガニーニとの交流
 1833年11/22、パリに滞在中のバイオリンの鬼才パガニーニがベルリオーズの作品による演奏会を聴いています。演奏会はジラールの指揮で序曲「リア王」で始まり、リストがウェーバーの小品を演奏、さらにベルリオーズの新作のロマンスを、最後に「幻想交響曲」で終わる曲目で、パガニーニは幻想交響曲に感激し、終演後ベルリオーズに会っています。初対面のパガニーニでしたがこのときに、自らが所有しているストラディバリウスのビオラの独奏曲を作曲してほしいとベルリオーズに依頼したようです。当初ベルリオーズは独奏ビオラ、オーケストラ、合唱のための劇的幻想曲「メアリー・スチュアートの最期の時」を、ビオラを悲劇の女王の主人公に見立て作曲しようとし、第1楽章を書き上げたところでパガニーニに見せたところ、パガニーニはビオラの長い休止に不満を漏らし、失望し帰って行きます。ベルリオーズはパガニーニの意向に従い、曲をビオラ協奏曲のように改め、更にイギリスの哀愁的な楽想からイタリア的な楽想に改め、このようにしてビオラ独奏付き交響曲「イタリアのハロルド」が作曲されます。
 また、ベルリオーズはイタリア留学の成果として歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」を作曲し、1838年9/10にパリ・オペラ座で初演しています。しかし、4回の公演は失敗し、ベルリオーズは長年の労作がみじめな失敗に終わったことで過労で倒れるという状況に陥るものの、12/16には気を取り直して「イタリアのハロルド」全曲と幻想交響曲を自ら指揮をしています。このベルリオーズが落ち込み体調が最悪の時に、パガニーニと再会します。パガニーニは「ベートーヴェンの後継はベルリオーズの他にはいない」、その尊敬の印として2万フランを支援すると述べ、ベルリオーズにとっては突然の朗報が飛び込みます。妻ハリエットが背負い込んだ負債などで火の車のベルリオーズ家の家計は安定を取り戻し、ベルリオーズはパガニーニの好意に報いるために劇的交響曲「ロメオとジュリエット」の作曲に取りかかります。

〇ウェーバーへのピアノ曲の編曲
 1841年、ベルリオーズはウェーバーの歌劇「魔弾の射手」をパリ・オペラ座で上演するために、ウェーバーのピアノ曲「舞踏への勧誘」を管弦楽版に編曲しています。フランスでは伝統的にオペラ上演においては第2幕か第3幕にバレエを上演することが義務付けられており、ウェーバーの「舞踏への勧誘」はバレエを踊るために編曲され、ベルリオーズによって管弦楽による名曲「舞踏への勧誘」が生まれます。また、1861年にはワーグナーが歌劇「タンホイザー」をパリで上演するために、バレエ音楽を挿入したパリ版を作曲しています。フランスにおけるバレエの歴史は古く、バロック期の初めにイタリアからオペラがフランスに伝わると、フランスでは宮廷バレエ、オペラバレエとしてオペラとバレエが一体となって上演されてきています。

○ドイツ、ロンドンロシア、への演奏旅行
 ベルリオーズは劇的交響曲という新しい音楽様式を生み出し、「ロメオとジュリエット」初演では、リヒャルト・ワーグナーも「われわれはベルリオーズを音楽界の真の救世主としてたたえるべきである」と述べるなど評価を受けるものの、採算の悪い興行を繰りかえし、苦しい生計を維持するなか、妻ハリエットとの仲も気まずくなる中、1842年にはモンマルトルの自宅からパリ市中の下宿に滞在することが多くなり精神的に大きな負担を感じるようになっていたようです。ベルリオーズはパリでの生活から逃れるように、1842年9月、ベルギーのブリュッセルの音楽祭に参加しますが、この時歌手のマリー・レチオを同行します。さらに、反対する妻のハリエットをあとにして密かに、半年にわたるドイツへの演奏旅行に旅立ちます。ライプツィヒではイタリアで出会ったメンデルスゾーンと旧交を温め、お互いに指揮棒を交換し、ゲヴァントハウスで演奏会を行い、ライプツィヒでははじめてシューマンにも会っています。また、ドレスデンでは前年指揮者に就任したワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」を鑑賞しています。ベートーヴェンの交響曲に心酔していたワーグナーは、更に規模を拡大した迫力満点のベルリオーズの管弦楽には敬意を表し、また演劇や詩歌と音楽の融合という面では、交響曲と歌劇という分野の違いはあるものの、ロマン派の新しい音楽のあり方に共感し、尊敬しあっていました。しかし、後にはお互いの個性の対立からか反目しあうようになります。なお、妻ハリエットと長く別居していたベルリオーズはハリエットの死後、マリー・レチオを妻としています。
 ベルリオーズは5回にわたってロンドンへの演奏旅行を行い、さらに1847年にはロシアへの演奏旅行を行っています。ベルリンを経由し船でペテルブルクに入ったようです。ペテルブルクでベルリオーズは予期しない大歓迎をうけます。ペテルブルクで2回の演奏会を行い、さらにモスクワとペテルブルクで各2回の演奏会を行い、ベルリオーズは生まれて初めて4万フランという大金を手にしています。(1)

○最後に
 夢想家であり、妄想家でもあるベルリオーズの性格、思想と行動は理解しがたい面がありますが、音楽史においてベルリオーズの幻想交響曲や劇的交響曲はロマン派の創作に多大な影響を与えています。ベートーヴェンやシューベルトの多様化された和声の音楽をベースにした情感豊かなベルリオーズの音楽はまさにロマン派の音楽です。ベルリオーズは創作の傍ら、「管弦楽法」という著作の執筆にも取り組んでおり、これらはワーグナーに大きな影響を与え、またベルリオーズの固定楽想によるライトモチーフはワーグナーの歌劇、楽劇の基本様式となり、さらにロマン派の主な様式である循環形式を導くなど、ベルリオーズによって真のロマン派が切り開かれたと言えるように思われます。なお、音楽史において固定楽想による循環形式の初期の形態が現れたのは1765年にハイドンが作曲した交響曲第31番ニ長調「ホルン信号」と見られます。冒頭のホルンのファンファーレが第4楽章の最後に再び現れます。モーツァルトも歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」で用いています。2人の姉妹の恋人が出征する場面の行進曲が、第2幕のフィナーレの恋人の帰還の場面にも現れ、これも固定楽想の初期の形態と見られます。

【音楽史年表より】
1830年12/5初演、ベルリオーズ(26)、幻想交響曲Op.14
パリ音楽院でベルリオーズの友人フランソワ・アブネックの指揮により初演される。リストもこの初演を聴く。ベルリオーズはこの作品を作曲する2年ほど前にベートーヴェンの交響曲を聴いて大きなショックを受けている。(2)(3)
のちに結婚することになるアイルランドの女優ハリエット・スミスソンへの思慕をベースに、ベルリオーズは5話からなる想話を創作して、これを5楽章の構成の交響曲にした。「夢、情熱」でのテンポの対比、「断頭台への行進」での特徴あるリズム、「魔女の夜宴の夢」でのまばゆいオーケストレーションなど、新しいアイデアにあふれた交響詩を予告する大作。終曲ではグレゴリオ聖歌の「怒りの日」を用いたテーマを含む3つのテーマを組み合わせ、終楽章では固定楽想がさまざまに変奏されて現れる。(4)
ベルリオーズはこの年のローマ大賞を受賞し、受賞に定められたローマへの音楽留学に旅立った。1845年、総譜がシュレージンジェル社から出版され、ロシア皇帝ニコライ1世に献呈される。また総譜出版にさきがけて1834年にはリスト編曲のピアノ譜が出版される。(5)
1834年11/23初演、べルリオーズ(31)、ビオラ独奏付き交響曲「イタリアのハロルド」Op.16
パリ音楽院ホールで、ビオラ独奏クレティアン・ユラン、ナルスィス・ジラールの指揮で初演される。パガニーニからの依頼により1934年初めに作曲が開始され、6月に完成する。バイロンの長編詩「チャイルド・ハロルド」によって哀愁的な追憶にふける物語を展開しようと、独奏ビオラを主人公の夢幻者に見立てた。(2)
1841年6/7初演、ベルリオーズ(37)、ウェーバーのピアノ曲「舞踏への勧誘」の管弦楽編曲
ウェーバーのオペラ「魔弾の射手」が上演され、管弦楽版の「舞踏への勧誘」が初演される。パリの聴衆はオペラには冷ややかだったが、バレエ曲「舞踏への勧誘」は好評で、翌42年オーケストラ編曲譜が出版された。ウェーバーが1819年に作曲したピアノ独奏曲を、ベルリオーズは1841年5月から6月に管弦楽版に編曲する。1841年パリ・オペラ座はウェーバーの「魔弾の射手」を上演題目に取り上げる。オペラ座でのオペラ上演は常にグランドオペラのスタイルすなわちレチタティーヴォとバレエを備えた正歌劇でなければならず、ベルリオーズはいくつかのレチタティーヴォを書き、バレエ用に「舞踏への勧誘」を華麗なオーケストラ曲に編曲し、これをオペラの中のバレエ曲とした。(5)

【参考文献】
1.久納慶一著、大作曲家/人と作品・ベルリオーズ(音楽之友社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
3.福田弥著、作曲家・人と作品シリーズ リスト(音楽之友社)
4.ブノワ他著、岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
5.作曲家別・名曲解説ライブラリー・ベルリオーズ(音楽之友社)

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作曲家検索(約200名)、作曲家別作品検索(作品数:約7000曲)、音楽史年表検索(項目数:約17000ステップ)で構成される音楽史年表データベースにリンクします。お好きね作品をご自由に検索ください。

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