音楽史・記事編165.カトリックとプロテスタントの音楽史
西洋文化の根幹をなすキリスト教という宗教の教義を理解することは、我々日本人には大変難しく困難です。中世、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派と続く西洋音楽はキリスト教を根底として発展してきた歴史があり、西洋音楽を楽しみとしている我々がより深く音楽を理解するためにこれらを避けることはできないように思われます。本編ではキリスト教普及の前史に触れ、西洋音楽史の発展に深く関わってきたキリスト教のローマ・カトリック教会とプロテスタントのルター派の教義の一端と音楽史について見て行きます。

〇ヨーロッパにおけるキリスト教の成立
392年、ローマ帝国はキリスト教を国教としますが、ではそれまでこの地域に宗教はあったのか、キリスト教以前の宗教があったとすればそれらはキリスト教にどのような影響を及ぼしたのか・・・、以下、橋爪大三郎、大澤真幸共著の「不思議なキリスト教」(1)を参考に見て行きます。ローマがまだ古代の都市国家であったころ、中部ヨーロッパはケルト人によって支配され、ケルト人は現在のフランスであるガリアからブリタニア(イギリス)、ヒスパニア(スペイン)方面に勢力を伸ばし、宗教はドルイド教であったとされます。紀元前27年初代ローマ皇帝が任命され帝政ローマが発足したころには、ローマ帝国は地中海一円に勢力を広げます。エルサレムに生まれたイエス・キリストはヘブライ語を語っていたとされますが、当時のローマ帝国の勢力拡大の影響のためか新約聖書はギリシャ語で編纂されています。キリスト教はさらに西に広がり、392年にはローマ帝国はキリスト教を国教と定めます。西ヨーロッパではキリスト教以前には主にドルイド教が信仰されており、ドルイド教の祭司などの社会的地位は極めて高く、教会関係者たちは国の王から尊敬され優遇されていました。ローマ帝国がキリスト教を新たな国教と定めると、各国の王たちはドルイド教の指導体制を引き継ぐように司祭、司教、大司教などの統率体制を構築して行き、本来、キリスト教は「神のもとの平等」という教義があるものの平等とは真逆の組織原理が形成されて行ったこととなり、また、妖精、小人、樹木崇拝などがキリスト教への改宗以前の宗教の要素として、かたちを変えてキリスト教に入り込んだとされます。405年、ローマ帝国が東西に分割されると、ラテン語を国語としていた西ローマ帝国ではギリシャ語の聖書がラテン語に翻訳され、以後カトリック教会では1962年のバチカン公会議に至るまでラテン語の聖書が用いられ、教会での祭祀はラテン語によって行われ、また宗教音楽もラテン語によって作曲されて行くようになります。
一方の東ローマ帝国ではキリスト教以前の宗教の影響を受けることはなく、ローマ・カトリック教会とは異なった教義を持つこととなります。しかし、イスラム勢力の拡大の影響を受け、1453年帝国の滅亡とともにギリシャ正教は消滅し、バルカン半島はイスラム勢力圏に飲み込まれ、ロシアにおいても遊牧民のモンゴルの勢力に置かれたのちに、1589年にはギリシャ正教の流れをくむロシア正教として成立し、1821年にはイスラム勢力を排したギリシャ正教が復活し、以降ルーマニア正教などが成立して行き、これらの正教では聖書は各国語の翻訳が用いられ、宗教音楽としてはチャイコフスキーがロシア正教のための聖歌を作曲するまでは、音楽史に残る作品は生まれていません。

〇フランドルの音楽の発展
一般に、イタリアは音楽の母国とされ、あらゆる音楽はイタリアが発祥と思われていますが、中世からルネサンス期における音楽の中心は、ノートルダム楽派、ブルゴーニュ楽派、フランドル楽派が生まれているように、現在のフランス東部からフランドル地方であったことが伺えます。ブルゴーニュ楽派の巨匠デュファイはイギリスのダンスタブルがブルゴーニュに伝えた純正3度、純正6度の和声による、すなわち従来のギリシャ音律の5度、4度の純正和声に加えすべての和声を純正にするという全く和声にうなりのない純正音律によるポリフォニー音楽様式を確立し、中世音楽からルネサンス音楽へ転換させルネサンスの音楽を作曲し、ローマ教皇庁に伝えています。フランドル楽派の時代には皇帝カール5世の世界帝国の中心地がフランドルであったことから、フランドル地方に多くの音楽家たちが誕生し、カトリックの中心地であったローマ教皇庁に伺候し、ポリフォニー音楽様式を伝えるようになり、このようにしてルネサンス期に教会におけるミサ曲の作曲が全盛期を迎えます。
〇カトリック教会と教会音楽
パレストリーナが登場した16世紀には、ポリフォニーは世俗音楽であり本来の教会音楽はグレゴリオ聖歌のように単旋律(モノフォニー)で歌われるべきとする教皇庁に対し、パレストリーナはポリフォニーによる優れた教会音楽を作曲し、教会音楽の分野におけるポリフォニー様式が認められ、宗教音楽の父と呼ばれるようになります。1570年には教皇ピウス5世によってローマ典書が交付され、ラテン語によるミサ典礼文が定められ、以降のミサ曲はすべてキリエ、グロリア、クレド・・・の様式で作曲することとなります。
〇宗教改革とルター派の教会音楽
1571年、ドイツにおいてルターの宗教改革が始まります。カトリックの権威主義や免罪符の販売などを教会の腐敗と厳しく批判したルターは、会衆による聖書の理解を中心に掲げ、教会音楽においてもカトリックのミサ曲などを否定し、新たに会衆のための讃美歌であるコラールが作曲され、ルターの他ミヒャエル・プレトリウスなどによって多くのコラールが残されています。また、ドイツ中部に生まれたハインリヒ・シュッツは1609年イタリアのベネツィアを訪問しサン・マルコ寺院のジョヴァンニ・ガブリエリの弟子となり、カトリックとプロテスタントとの間の悲惨な30年戦争が始まる前にドイツに戻り、ドレスデンの宮廷楽長となり受難曲やカンタータなどのプロテスタント音楽様式を確立し、ドイツ音楽の父と呼ばれています。30年戦争は民衆を巻き込むヨーロッパ最大の戦乱となり、戦場となったドイツ中部は荒廃します。30年戦争に敗北したオーストリーのハプスブルク家は帝国内の統率権を失い、ドイツは約300の主権を持つ領邦国家が乱立する分裂国家となり、このような荒廃したドイツにテレマンやヘンデル、バッハという音楽の巨匠たちが現れます。テレマンは1700曲以上のカンタータを作曲するなど、音楽史上最も多くの作品を残した作曲家となり、セバスティアン・バッハは対位法、主題彫琢、平均律など音楽史における偉大な足跡を残し音楽の父と呼ばれるようになります。偉大な作品群を残したバッハでしたが、オーストリーやフランスなどにその音楽が知られることはなく、ロマン派期にユダヤ教からプロテスタント・ルター派に改宗したメンデルスゾーンによってようやく世に知られるようになります。メンデルスゾーンは若いころベルリン・ジングアカデミーの指導者であったツェルターに師事しており、ベルリン・ジングアカデミーではセバスティアン・バッハのカンタータなどが演奏されていたとされ、プロテスタント・ルター派では教会音楽が一般の劇場で演奏され、教会音楽と劇場音楽は区別なく一元化されていたようです。これに対して、カトリックではミサ曲などは教会での演奏が義務付けられ、劇場などでの演奏は禁じられています。
ヘンデルはハンブルクでイタリア歌劇を学び、その後イタリアで研鑽を積み、ハノーファーの宮廷楽長となった後、イギリスへ渡りイタリア・オペラの他、英国国教会のための教会音楽であるアンセムやオードなどを作曲し、劇場で上演された宗教的オラトリオの名作「メサイヤ」などを残しています。
【音楽史年表より】
1420年代、ダンスタブル(30歳~ころ)、器楽と独唱、3声部のためのシャンソン「おお、美わしのばら」
ジョン・ダンスタブルは中世からルネサンス期の分かれ目の年代に活躍する、イギリス人であり、長期にわたってフランスのブルゴーニュに滞在し、デュファイやバンショアとも交友関係にあったと推察される。(3)
1420年代後半、デュファイ(28歳~ころ)、器楽と3声部のためのモテット「救いの主のいとしい御母」
ギョーム・デュファイはブルゴーニュ楽派に属する初期ルネサンス最大の作曲家であり、北フランスのカンブレイまたはその近郊の出身、ローマ教皇礼拝堂やイタリアとフランスの中間に位置するサヴォア公国等に仕えるが、1439年に故郷に戻る。(3)
1567年、パレストリーナ(42)、教皇マルチェルスのミサ曲
初版がローマで出版され、スペインの国王フェリペ2世に捧げられる。ローマ近郊のパレストリーナに生まれたジョヴァンニ・ダ・パレストリーナは100曲以上のミサ曲を作曲し、その多くは4声の作品である。パレストリーナはルネサンス音楽の代表的作曲家であり、宗教音楽の父と呼ばれる。あらゆる作曲技法を駆使し、フランドル楽派が好んだ定旋律ミサや自由な主題によるものも見られる。(4)
トレントの宗教会議であらゆる多声音楽が教会から排除されようとしたとき、パレストリーナがこの曲を作曲して、ポリフォニー音楽が宗教性と両立しうることを証明して、教会音楽の危機を救ったという伝説があるが、この曲が宗教会議と無関係という説もある。(3)
1666年の聖金曜日、シュッツ(80)、マタイ受難曲
同年の聖金曜日にドレスデンの宮廷礼拝堂で初演されたと推定される。台本は、伝統的な受難曲導入の歌詞に次いで、主文はルター訳のドイツ語聖書マタイ福音書26章、27章により、終結合唱は14世紀以来の受難コラール「われら貧しき罪人」の第7説による。シュッツは1609年ベネツィアでG・ガブリエーリのもとで音楽を学び、イタリアの劇音楽の技法をドイツ精神に適合させ、バッハ出現前のドイツ音楽の基礎を確定した。(3)
1723年7/2、J・S・バッハ(38)、カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」BWV147
マリアのエリザベト訪問の祝日にライプツィヒで初演する。ピアノ用その他に編曲されて有名なコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を含む作品。バッハは1716年作曲の原曲を改作するにあたっては、アリアの歌詞を変え、コラールを入れ替え、レチタティーヴォを新たに作曲し、こうして2部構成、全10曲の作品が誕生した。当日用福音書章句は、マリアが洗礼者ヨハネの母エリザベトから受胎を祝福され、感動して神を讃える部分。この喜ばしい情景を、カンタータの台本は人間に罪深い現実と比較し、しだいにイエスへの愛情と讃美を溢れさせてゆく。(5)
1742年4/13、ヘンデル(57)、オラトリオ「メサイヤ」HWV56
ダブリンのフィッシャンブル街ニュー・ミュージック・ホールで初演される。慈善を目的として、初演は大成功を収め聴衆に深い感動を与えた。合唱のメンバーはダブリンの2つの大聖堂、セント・パトリックとセント・クライストの聖歌隊から選抜された26名、歌手はソプラノのアヴォーリオ、アルトのシバー以外およびオーケストラは地元メンバーが担当した。600名収容のホールに700名が入り、収益は400ポンドで、刑務所の囚人救済、マーサー病院、インズ波止場慈善診療所の3つの慈善事業に127ポンドずつ寄付される。(6)
24日間で書き上げられた「メサイヤ」はヘンデルのオラトリオ作曲家としての器量の大きさを象徴している。ヘンデルの世俗オラトリオ16曲、聖書を題材とした16曲合わせて32曲のオラトリオは迫真に迫る性格描写と、筋に密着した合唱および二重合唱の使用という2つの大きな特徴が見られる。合唱はそれぞれ和声的、フーガ的、朗唱的、描写的、陰気性、壮麗性という特徴をもつ。合唱の合間にはレチタティーヴォ、イタリア風アリア、牧歌的カンティレーナなどが挿入される。またオルガン協奏曲が中心に置かれている。(4)
【参考文献】
1.橋爪大三郎、大沢真幸共著、不思議なキリスト教(講談社)
2.淡野弓子著、バッハの秘密(平凡社)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)
4.ブノワ他著・岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
5.バッハ事典(東京書籍)
6.三澤寿喜著、作曲家・人と作品 ヘンデル(音楽之友社)
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