音楽史・記事編157.シューベルトの交響曲創作史・・ロマン派交響曲の誕生
ウィーンに生まれたシューベルトは多くの歌曲を作曲し、歌曲王として知られます。シューベルトは宮廷楽長サリエリからイタリア歌曲を学び、ウィーンで上演されたロッシーニの歌劇「タンクレーディ」を聴き本場イタリアのアリアに感銘を受け、歌曲創作に目覚めたシューベルトはそれ以降毎日のようにドイツ・リートの創作を行い、31歳の短い生涯で約650曲の独唱曲、また重唱曲では約100曲の作品を残し、一方の管弦楽曲の分野ではベートーヴェンの影響を受け、音楽史におけるロマン派を代表する交響曲である「未完成交響曲」を作曲したものの、シューベルト存命中に公開演奏が行われたことはなく、作曲されてから約40年後にウィーンで初演されると直ちにその真価が認められ、今日では最も人気のある交響曲の一つとなっています。

〇シューベルト、ウィーンの寄宿制神学校コンヴィクトに入学
シューベルトは幼少のころから音楽の才能を見せ、11歳で寄宿制神学校のコンヴィクトに入学し、ギムナジウムの一般教育の他、宮廷礼拝堂聖歌隊に入隊が認められ、聖歌隊員として歌唱、ピアノ、バイオリンの教育が行われ、さらに学校の寮ではオーケストラが組織されておりシューベルトはバイオリンパートに加わり、学校長ラング師の指導により毎晩交響曲を1曲、序曲を1曲あるいは2曲演奏できるように訓練が行われ(1)、多くの交響曲を演奏しています。当時演奏されていた交響曲はウィーン楽派のヨーゼフ・ハイドンを中心に、古典派前期のディッタースドルフ、ヴァンハル、ヴァーゲンザイルの他、北ドイツのエマヌエル・バッハやマンハイム楽派のシュターミツの交響曲の他、当時出版されていたベートーヴェンの初期、中期の交響曲も演奏されたものと見られ、シューベルトはベートーヴェンを深く尊敬するようになります。
シューベルトはコンヴィクトの寮オーケストラに5年間在籍しており、最後の2年間は副指揮者となり、この時期には自身の交響曲の作曲を行っています。ニ長調D2bの交響曲は未完に終わったものの、D82の交響曲第1番ニ長調はコンヴィクトを退学するにあたり寮オーケストラで私的に初演されたものと見られます。コンヴィクトを退学したシューベルトは師範学校に入学し、父親の経営する小学校の補助教員となります。シューベルトの父親はシューベルトを小学校経営の後継者として安定した生活をさせようとしていたようですが、シューベルトは父親の意向に反して音楽の道を選び、1815年父のもとを去り、コンヴィクトの友人であったショーバー家の持ち家の1室に移ります。この時期には歌曲の傑作「魔王」が作曲されています。シューベルトはコンヴィクト時代からハイドン様式やマンハイム様式の交響曲を作曲しており、1816年に作曲した第4番ハ短調「悲劇的」はベートーヴェンの交響曲を意識して作曲されたように見られます。ベートーヴェンは1817年から20年にピアノ・ソナタ作曲で後期様式すなわちロマン派的な音楽に移行しています。シューベルトはベートーヴェンの様式移行に同調するように1821年以降はオーケストラにトロンボーンを加え規模を大きくし本格的なロマン派交響曲を作曲するようになったと見られます。

〇シューベルトの交響曲とベートーヴェンの第7交響曲の初演
村田千尋著「シューベルト」(1)によれば・・・シューベルトの交響曲について、べートーヴェンの主題は動機にまで分解しやすい器楽的な性格をもつものであり、一方シューベルトの主題は歌謡的な性格が強く主題全体として歌うような特徴を持つ。この主題形成法はリートの主題法であり、ソナタ形式の展開部においても次々に新しい旋律を登場させ、主題は少しずつ変形されてクライマックスを形成する。その際に転調の果たす役割は大きく、次々に色合いを変え、旋律に性格を与え、そして旋律が重ねられていくところに成立する緊張感は、ベートーヴェン流の構築的展開法に勝るとも劣らないのである・・・
なお、シューベルトがコンヴィクトから聖アンナ師範学校に移ったころ、コンヴィクトの真向いの旧ウィーン大学講堂においてベートーヴェンの交響曲第7番が初演されています。同時に初演された戦争交響曲とも呼ばれる「ヴィットリアの戦い」の戦いの場面では、趣向として演奏会場の外で大砲の空砲が何発も打ち鳴らされ、ウィーン中に響き渡ったとされ、音楽と大砲の競演に聴衆は大きな感動に包まれ空前絶後の大成功を収めたとされています。この演奏には宮廷楽長サリエリや作曲家のフンメル、マイヤーベーア、バイオリニストのシュパンツィヒなどが加わっており、ウィーンの音楽界を挙げての一大行事であったことが窺えます。記録には残っていませんが、ベートーヴェンに傾倒していたシューベルトもこの演奏会に立ち会っていた可能性があります。
〇グムンデン・ガスタイン交響曲と「ザ・グレイト」
シューベルトは1825年歌手のフォーグルと共にザルツブルク近郊のザルツカンマーグート地方の名勝地を旅行し、この時期に交響曲を作曲しておりこの交響曲はグムンデン・ガスタイン交響曲と呼ばれD894が与えられ、ウィーン楽友協会理事に推薦されたことへの返礼として提出されたとされていました。しかし、この曲の楽譜は見つからず消失したものと見られていましたが、シューベルトの死後シューマンがシューベルトの兄フェルディナンドの家で発見した「グレイト」交響曲D944と同一作品であることが分かり、「グレイト」交響曲こそが消失したグムンデン・ガスタイン交響曲であることが判明しています。この交響曲は1839年メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス演奏会で初演されます。おそらくシューマンとメンデルスゾーンはこの天国的で雄大な交響曲の影響を受け、メンデルスゾーンは交響曲第3番「スコットランド」をシューマン交響曲第1番「春」を作曲したものと見られます。
〇ロマン派交響曲の誕生

一般に、ベートーヴェンが9曲の交響曲を作曲して以降、ロマン派の交響曲はフランスのベルリオーズの幻想交響曲によって本格的な創作が始まったとされますが、シューベルトはベートーヴェンの第9交響曲が初演される前年に未完成交響曲を作曲しており、ロマン派を代表する交響曲がベートーヴェンが後期の創作期に入りロマン派的作品を生み出す時期に呼応するようにシューベルトは従来の古典派的な交響曲からロマン派の交響曲を作曲したことになります。ドイツのライプツィヒで音楽論評を行っていたシューマンはウィーンを訪問し、シューベルトの兄のフェルディナンドの膨大な楽譜の中からシューベルトのハ長調交響曲を見出し、ライプツィヒのゲヴァントハウス演奏会でメンデルスゾーンの指揮で初演されます。おそらくシューマンはウィーンでシューベルトの歌曲や交響曲の影響を受け、それまでのピアノ曲中心の作曲活動から1830年には歌曲を中心とした創作を行い、翌年には交響曲第1番「春」と交響曲第4番初稿の2曲の交響曲を作曲したものと見られます。シューベルトの創作はドイツにおけるメンデルスゾーンやシューマンの創作活動に大きな影響を与え、ロマン派交響曲はベートーヴェンの交響曲を経て、シューベルト、フランスのベルリオーズ、ドイツのメンデルスゾーン、シューマンによって形作られて行きます。
【音楽史年表より】
1813年10/4?私的初演、シューベルト(1)、交響曲第1番ニ長調D82
コンヴィクトのオーケストラによって私的に初演される。(1)
シューベルトは1808年から1813年秋までウィーンのコンヴィクトに在学していた。このコンヴィクトというのは神学校であると同時にウィーン宮廷礼拝堂の合唱団員のための学校でもあって音楽を極めて重視していた。ウィーンのコンヴィクトには生徒からなるオーケストラがあり、シューベルトは入学してしばらくしてその第1バイオリンを担当するようになった。このオーケストラは毎晩1曲の交響曲と1曲または2曲の序曲を演奏していた。シューベルトはときには指揮のルジチュカに代わって練習の指揮をすることもあった。シューベルトがこのコンヴィクトとの別れに関連してこの交響曲を書いたことはほぼ間違いないようだ。(2)
1822年10/30作曲開始、シューベルト(25)、交響曲第7番ロ短調「未完成」D759
1822年10/30シューベルトは未完成交響曲の作曲に着手する。シューベルトはこの交響曲の第1楽章、第2楽章と第3楽章の20小節目までのオーケストレーションを終了した後、一旦中止しそのままにしておいた。その後1823年4月になって、グラーツのシュタイアーマルク音楽協会に名誉会員として迎えられることが決まったシューベルトは、その返礼として未完の交響曲を思い出し、完成して送るつもりになったらしい。ところが、通信上の行き違いから実際にシュタイアーマルク音楽協会宛に自筆譜を送ったのは1824年になってしまった。その仲介者となったのが、アンゼルム・ヒュッテンブレンナーというシューベルトの知人で、まず彼の元に自筆譜が送られたのだが、2楽章までしかなかったために彼は残りの2楽章が届くのを待っていた。そのうちに自筆譜は留め置かれ忘れ去られてしまい、1865年5月にウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックが発見し、同年12月17日に初演するまで、43年間世に知られずにいたのである。この交響曲は全体に音楽史上、稀に見るほどの深い抒情を表出し得た作品である。(2)
1825年6月~9月作曲、シューベルト(28)、交響曲第8番ハ長調「グレイト」D894(D944)
作曲活動が集中的に行われた町の名前をとってグムンデン・ガスタイン交響曲と呼ばれる。ウィーン楽友協会補欠理事推挙の返礼とされた。(1)
シューベルトは1825年5月~10月に大旅行をしており、その折に作曲した交響曲は実態が不明のまま、地名をとって「グムンデン・ガスタイン」交響曲D849として通ってきたが、近年この交響曲こそが大ハ長調交響曲D944であることが判明した。自筆譜はウィーン楽友協会に所蔵されている。初演はメンデルスゾーンの指揮で1839年に行われているが、シューベルトの生前にウィーン楽友協会で私的な初演が行われた可能性も指摘されている。(2)
1839年3/21初演、シューベルト(没後)、交響曲第8番ハ長調「グレイト」D849(D944)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス演奏会でメンデルスゾーンの指揮で初演される。(2)
この交響曲はシューマンがウィーンのシューベルトの兄フェルディナンドを訪問した際に発見されたが、初演にあたってシューマンは紹介文を書いている。また1840年頃の評論では次のように述べている・・・この中には堂々たる音楽上の作曲技術以外に、多種多様多彩を極めた生命が最も微妙な段階に至るまで現れている上に、到るところに深い意義があり、一音一音が鋭利を極めた表現をもち、そうして最後に全曲の上には今までのすべてのフランツ・シューベルトの曲によってなじみが深いロマン性がまきちらされている。その上この交響曲は、ジャン・パウルの4巻の大部の小説に劣らず、天国のように長い。(3)
1865年12/17初演、シューベルト(没後)、交響曲第7番ロ短調「未完成」D759
ウィーンのムジーク・フェラインザールにて、自筆譜を発見したヨハン・ヘルベックの指揮で初演される。(2)
【参考文献】
1.村田千尋著、作曲家・人と作品シリーズ シューベルト(音楽之友社)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー、シューベルト(音楽之友社)
3.シューマン著・吉田秀和訳、音楽と音楽家(岩波書店)
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