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音楽史・記事編146.バロック後期の音楽史、ドイツの巨匠と新たな音楽様式

 バロック期後期の音楽史は難しくその理解は困難に感じられます。その理由は、イタリアにおいてはバロック初期に近代オペラが始まりバロック期を通してオペラが音楽史の本流であり続け、中期から後期にはオラトリオ、カンタータ、協奏曲などの古典派、ロマン派へ導く新たな音楽の様式が次々現れ、一方で音楽史における偉大な作曲家ヘンデルやセバスティアン・バッハによって大作オペラやオラトリオ、教会カンタータ、マタイ受難曲など大曲が創作され、これらの偉大な巨匠たちの創作の影に隠れるようにドイツにおいては古典派の主要な様式であるソナタ形式が理論化され、前期古典派の作曲家によってソナタ形式を取り入れたクラヴィーア・ソナタや交響曲が多く作曲されるようになった時期でもあり、これらがバロック後期の音楽史の理解を難しくしているわけですが、本編ではこのような観点からバロック後期の音楽史を見て行きます。

〇バロック期にイタリアではさまざまな新たな音楽様式が現れる
 ルターの宗教改革以降、ドイツ南部では農民戦争やシュヴァーヴェン戦争などが起こるなどヨーロッパ情勢が不安定になる中、1600年頃のイタリアではヨーロッパの世相を反映するかのように不協和音や半音階を多用したバロック音楽が現れ、フィレンツェで興ったルネサンスの流れの中でギリシャ音楽の復興が行われモンテヴェルディによって近代オペラの起源となる歌劇「オルフェオ」が初演されます。また、同時代の1600年にはカヴァリエリによる宗教的音楽劇「魂と肉体の劇」がローマにおいて演奏会形式で上演されたようでオラトリオの原型とされます。オペラでは舞台上の大道具等を伴い歌手は衣装を身に付けますが、オラトリオでは舞台装置はなく歌手は衣装を身に付けず演奏会形式で上演されます。オペラでの合唱は数十名程度に限られますが、オラトリオでは合唱の規模を数千名に拡大することがき、ハイドンはロンドンからの報告でヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」が約3000名の合唱によって上演されたことを感動的に伝えています。

 また、器楽のソナタに対し声楽はカンタータと呼ばれますが、独唱や合唱のための器楽伴奏によるカンタータが1646年にイタリアのカリッシミによって始められたようです。カンタータ様式はオラトリオより規模は小さく、レチタティーヴォ、アリオーソ、アリアによる楽章構成によります。ドイツではプロテスタント教会のための宗教的カンタータがテレマンやセバスティアン・バッハによって数多く作曲されます。
 器楽の分野では1698年にトレッリによって音楽的協奏曲が作曲され、1714年にはコレッリによって合奏協奏曲集が出版され、急緩急の3つの楽章で構成される協奏曲や協奏群と合奏による複数楽章の合奏協奏曲様式というジャンルが始まります。ベネツィアのヴィヴァルディは600曲以上の協奏曲を作曲し、当時から出版譜が広く出回っておりヨーロッパの宮廷等で演奏され人気を得ていたようです。

〇30年戦争に勝利したプロテスタント・・・プロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙主義改革
 30年戦争を勝利したプロイセンなどのプロテスタント勢は、ヨーロッパにおいて宗派としてのプロテスタントが認められ、ドイツの300諸侯は自由に宗派を選択できるようになり、荒廃した国土はプロイセン、ザクセン、ハノーファーなどの強国を中心に国力を増し、プロイセンのフリードリヒ2世の啓蒙専制主義による改革が進み、音楽面でもシュッツやテレマン、ヘンデル、バッハなどの多くのドイツの作曲家が次々現れます。音楽の巨匠であるヘンデルとバッハに対し、テレマンは音楽史において最も多くの作品を作曲した作曲家として知られています。12歳以降の74年間にわたる長い人生を通して現役で作曲を続け、オペラ40曲、室内楽200曲、協奏曲170曲、管弦楽組曲600曲以上、受難曲46曲、教会カンタータ1700曲以上を作曲し、その総作品数は3000曲以上とも4000曲以上ともいわれています。また、プロイセンのフリードリヒ2世は1740年にはベルリンに歌劇場を建設し、自らはフルートを愛奏しフランスから音楽家を招き、文化的にもドイツを一流にしたいとの思いがあったようです。30年戦争でプロイセンを援護したフランスは政治的にもプロイセンの啓蒙思想の影響を強く受け、自由・平等・博愛の精神は後のフランス革命のシンボルにもなりました。

〇ドイツの音楽家、イタリアへ渡り、最新の音楽様式を学ぶ
 ドイツの音楽はシュッツに始まります。バロックの初期の30年戦争前にドレスデンのザクセン宮廷楽長のシュッツはイタリアのベネツィアに渡り、サン・マルコ寺院楽長のジョバンニ・ガブリエリの弟子となり、イタリア音楽を学んでいます。ドイツにおいてはルターやプレトリウスなどによってコラールが作曲されていましたが、シュッツは本格的なイタリア音楽を学びモテットやクリスマス・オラトリオ、マタイ受難曲などを作曲し、ドイツ音楽の父と呼ばれています。さらに、ハンブルクでイタリア歌劇の影響を受けたヘンデルは1706年から10年までイタリアで音楽の修行を積み、ベネツィアで上演した歌劇「アグリッピーナ」が大ヒットし、ハノーファー選帝侯に迎えられ、イギリスに渡るきっかけを得ています。ハノーファー選帝侯はイギリスのアン女王の又従兄にあたり、アン女王の死去により血縁の途絶えたイギリス国王の地位を得ています。ヘンデルのイギリス行きはイギリス王室の情報収集の目的があったとされています。ドイツでハンブルクとともに歌劇場のあったドレスデンのハッセはイタリアへ渡りイタリア・オペラを学んでいます。当時最も流行したイタリア・オペラを見るために、セバスティアン・バッハもドレスデンを訪問しています。セバスティアン・バッハの末の息子のクリスティアン・バッハは父のセバスティアンが亡くなった後イタリアへ渡り、イタリア音楽を学び、その後イギリスへ渡っています。ロンドンでは同じくドイツ出身のアーベルとともにバッハ・アーベル・コンサートを開催するようになり、一般人でも聴くことができる公開演奏会の先駆けとなっています。
 また、イアリアの音楽家もヨーロッパ各地にイタリアの音楽を伝えています。フィレンツェで生まれたリュリは1646年13歳でフランスに渡り、フランスを代表する作曲家となり、フランスの宮廷バレエを5幕のオペラ・バレエに進化させ、後のフランス・グランドオペラの基礎を作っています。さらにボローニャの音楽家トレッリは1697年から数年間プロイセンのフリードリヒ2世に招かれ、ドイツのベルリンに協奏曲様式やオラトリオ様式などイタリア音楽を伝えたとされます。

〇サンマルティーニのソナタ形式とバッハの平均律、主題彫琢技法の融合により交響曲は進化した(2501改訂)
 セバスティアン・バッハは生涯対位法の研究に没頭しましたが、一方でベルクマイスターによって提案された平均律という調律法で24の調性全ての音楽が調律することなく演奏できることを実証し、これによっていつでもいかなる調性への転調移調を可能にし、後の音楽の発展に大きく貢献しています。さらに一つの主題を徹底して変奏し主題の労作、彫琢を行うことを目的にゴールドベルク変奏曲BWV988を作曲し主題彫琢の可能性を示し、後の古典派のソナタ形式の展開部におけるあり方を示しました。これらの平均律技法や主題彫琢技術、対位法技術はセバスティアン・バッハの3男のプロイセンの宮廷音楽家エマヌエル・バッハに継承され、エマヌエル・バッハはイタリアのサンマルティーニによって始められたソナタ形式とセバスティアン・バッハの音楽様式を融合し、多くのクラヴィーア・ソナタで実践します。エマヌエル・バッハの音楽様式はマンハイム楽派のシュターミツに伝えられ、更にシュターミツは交響曲で初めてピアノ、フォルテの強弱法を用い、舞踏楽章としてのトリオ付きメヌエットを加えた4楽章としての交響曲様式が形作られていったようです。

 以上のようにバロック後期の音楽史は、イタリアとドイツによって新たな様式が生み出されていたものの、30年戦争で敗北したオーストリア・ハプスブルク家では沈黙を守るように音楽家を輩出していませんが、オーストリア継承戦争前の1725年にはウィーンの宮廷楽長フックスが対位法理論の教程書を発表し、また宮廷詩人のメタスタージョによって古典派オペラへの道が開かれるなどウィーン古典派に向けての胎動がありました。30年戦争で敗北し、さらにスペイン継承戦争ではフランスとスペイン王を争うもののスペイン王位はフランスにさらわれ、南のオスマン・トルコの脅威にさらされながら、続くオーストリア継承戦争ではオーストリア・ハプスブルク家は四面楚歌の状況に追い込まれ神聖ローマ帝国皇帝位もバイエルンに簒奪されます。しかし、女帝マリア・テレジアはハンガリー軍とともにバイエルンを制圧し、夫のフランツ・シュテファンを皇帝位につけ、ハプスブルク家の復興を成し遂げ国母と呼ばれるようになり、それとともにウィーンは音楽の都として発展して行きます。

【音楽史年表より】
1600年2月初演、カヴァリエリ(50歳?)、朗唱と合唱による音楽劇「魂と肉体の劇」
ローマの聖マルチェロ教会における祈祷所集会において初演される。カヴァリエリはローマの貴族の子に生まれ、1578年から84年までローマの聖マルチェロ教会で音楽を担当し、世俗歌曲の民衆的宗教歌曲化(ラウダ化)に努めたのち、1588年からはフィレンツェのメディチ家に仕え、芸術、催事監督を務める。この宗教的音楽劇は全3部、91景(曲)からなり、オラトリオの原型とされる。(1)
1607年2/24初演、モンテヴェルディ(39歳)、歌劇「オルフェオ」
マントヴァの公爵の宮殿で初演される。(2)
1600年にはペーリやカッチーニのオペラ「エウリディーチェ」が現れ、言葉の抑揚を尊重したレチタティーヴォを主とする様式を示した。その後7年を経て現れたモンテヴェルディの「オルフェオ」はだいたいにおいてこの様式を継承しつつも、ともすれば平板に流れるこの様式に音楽的な豊かさを与え、音楽による劇の形成という近代オペラの理念を初めて示すものとなった。(1)
1646年作曲、カリッシミ(41)、ソプラノと通奏低音のためのカンタータ「勝てり、わが心」
カリッシミは独唱カンタータの分野でも17世紀イタリアを代表する優れた業績を残す。(1)
1648年作曲、カリッシミ(43)、6声と通奏低音のためのオラトリオ「イェフタ」
ローマの聖アポリナーレ教会の楽長を長く務めたカリッシミはオラトリオの最初の重要な作曲家である。イスラエル軍の総師イェフタは戦勝のあかつきには、我が家ではじめに自分を出迎える者をいけにえに捧げると誓う・・・最初に彼を迎えたのは意外にも彼の一人娘であった・・・(1)
1698年出版、トレッリ(40)、音楽的協奏曲Op.6
アウグスブルクで出版される。この協奏曲集のどの協奏曲にも独奏楽器の指定はなく、合奏協奏曲とも独奏協奏曲とも言えない。(1)
1709年出版、トレッリ(没後)、合奏協奏曲集全12曲Op.8
トレッリが亡くなった年に、画家であった弟のフェリーチェによって出版される。トレッリは17世紀末から18世紀初頭にかけて当時のイタリアの合奏音楽の中心地ボローニャで活躍したが、この作品8の協奏曲集は協奏曲史上にコレッリ、ヴィヴァルディにも劣らぬ、協奏曲の歴史に新しい時代を画する重要な地位を占める。作品8に含まれる6つの独奏協奏曲は史上最古の独奏協奏曲に属するとみて大きな誤りはないようである。従ってコレッリが合奏協奏曲の創始者なら、トレッリは独奏協奏曲の創始者の名にふさわしい。(1)
1714年出版、コレッリ(没後)、合奏協奏曲集全12曲Op.6
コレッリの没後にアムステルダムのロジェ社から出版される。コレッリは17世紀末から18世紀の初めにかけて、ローマ楽派の創始者として高い名声を得、多くの弟子を育てて、ヨーロッパ全土に大きな影響を及ぼした。しかし、決して革命的な改革者ではなく、アカデミックな手堅さを身上とする保守的な音楽家であった。(1)
1730年頃作曲、サンマルティーニ(32)、シンフォニア
イタリア・ミラノのジョヴァンニ・サンマルティーニはオペラの序曲であるシンフォニアを演奏会用シンフォニアとして作曲するが、これはもう交響曲(シンフォニー)というべきである。サンマルティーニはすでにオペラのシンフォニアの第1部にみられた対比する2つの動機を対比する主題に拡大し、ソナタ形式の提示部の形をととのえるようにした。つづく展開部では動機的処理をみせ、好んで対位法的書法もみせた。第2部のカンタービレでは規模を大きくし、第3部では従来の3/8拍子からもっとテンポの遅い3/4拍子のメヌエットのテンポにすることが多かった。(1)

【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.新グローヴ・オペラ事典(白水社)

SEAラボラトリ

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