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音楽史・記事編168.ブラームスの交響曲創作史

 シューマンが1851年にデュッセルドルフで交響曲第3番「ライン」を初演してからブラームスが1876年に交響曲第1番を初演するまでの25年間、音楽史において主だった交響曲は現れておらず、ブラームスの交響曲第1番以降にロマン派の傑作交響曲が次々初演されており、このことはブラームスの交響曲第1番の影響力の大きさを物語っています。本編ではブラームスの交響曲初演地を中心にブラームスの創作の背景を見て行きます。

〇ブラームス、カールスルーエで交響曲第1番ハ短調を初演する
 1877年、ブラームスは交響曲第1番ハ短調の初演をウィーンではなく、ライン川沿いの小都市カールスルーエで行っています。ブラームスはなぜ交響曲第1番の初演をウィーンで行わなかったのか・・・。ブラームスは1862年にウィーンで音楽活動を初め、ウィーン・ジングアカデミーの指揮者を勤めた後、1871年にはウィーン楽友協会の音楽監督に就任しウィーン・フィルハーモニーや合唱団などによる定期公演を行っています。この時期、ウィーンではブルックナーが交響曲第2番ハ短調を初演しており、ハンスリックなどの批評家から手厳しい論評を受けています。これまで、室内楽を中心に創作を行ってきたブラームスは本格的な管弦楽曲として「ハイドンの主題による変奏曲」を初演していましたが、厳しい論評から逃れるようにライン川沿いのカールスルーエで初演した可能性があります。さらに、ブラームスがカールスルーエでの初演にこだわった理由は、ブラームスの永遠の憧れの人であったクララ・シューマンに初演を聴いてもらいたかったからと思われます。当時、クララ・シューマンはカールスルーエの近くのバーデン・バーデンに住んでおり、ブラームスは毎年近くのリヒテンタールに夏の避暑に来て創作を行っており、クララ・シューマンをたびたび訪問しています。
 ブラームスは1853年にデュッセルドルフのシューマン家を訪問し、そこで自らのピアノソナタを演奏しシューマンにその才能を見出されることとなり、その後シューマン家とは長く交流が続きます。ブラームスが初めてシューマンに会ったとき、シューマンは交響曲第3番変ホ長調「ライン」をすでに初演しており、その年には改訂した交響曲第4番ニ短調(改訂稿)を初演しています。しかし、シューマンは精神に異常をきたし3年後の1856年には帰らぬ人となっています。その後、ブラームスはウィーンに移りますが、ラインの思い出は深く心に刻まれていたようで、シューマンが亡くなって20年を要し交響曲第1番ハ短調を完成させ、自らを音楽の道に導いたシューマンのオマージュとして思い出のライン川沿いのカールスルーエで初演したものとも考えられます。
 引き続き、ブラームスは短期間のうちに交響曲第2番ニ長調をウィーンで初演しています。交響曲第1番をシューマンへのオマージュであったとすれば、穏やかな交響曲第2番は憧れの人であったクララ・シューマンのための交響曲であったと見ることもできます。ブラームスは交響曲作曲時、ピアノ手稿を完成させるたびにクララにピアノ演奏できかせ、クララから講評や感想を得ています。ブラームスは、その6年後に交響曲第3番ヘ長調を初演します。三宅幸夫著・ブラームス(1)によればこの交響曲はライン川沿いのヴィースバーデンで作曲されますが、ブラームスは若いアルト歌手のヘルミーネ・シュピースに魅了されていたとされ、この宇宙的で神秘的な交響曲はヘルミーネを想い作曲されたのではないかとされます。そして、2年後の1885年にはブラームスはバッハのカンタータやパッサカリアなどを盛り込み、古典研究の集大成ともいうべき交響曲第4番ホ短調をドイツのマイニンゲンで初演しています。

〇ブラームス、ドイツで新作交響曲の演奏旅行を行う
 シューマンが交響曲を作曲した頃は新作の公演は限られた都市に限られ、出版後に徐々に作品が知られるようになっていました。しかし、ブラームスは作曲した新作交響曲を携えて演奏旅行に出て、各都市で新作の演奏を行っています。ブラームスの演奏旅行を可能にした背景にはヨーロッパにおける鉄道網の拡大があります。1825年にイギリスで鉄道が開業してから、1850年にはヨーロッパで鉄道の総延長が4万Kmに達し、1870年には10万Kmに、1880年には17万Kmと急速に拡大しており、1875年頃にはヨーロッパ内における鉄道による移動の利便性が格段に良くなり、特にブラームスが1884年に交響曲第3番ヘ長調をウィーンで初演した後には、わずか2ヶ月足らずの間にベルリン、マイニンゲン、ライプツッヒ、ケルン、デュッセルドルフ、アムステルダム、エッセン、ドレスデン、フランクフルトで公演を行っており、1885年にマイニンゲン宮廷で交響曲第4番ホ短調初演後にはマイニンゲン宮廷楽団を引き連れてフランクフルト、エッセン、エルバ―フェルト、ユトレヒト、アムステルダム、デン・ハーグ、クレーフェルト、ケルン、ヴィースバーデンを巡る演奏旅行を行っています。 

〇ブラームスとカトリック地域
 ブラームスはハンブルクのプロテスタントの家庭に生まれたもののカトリックのウィーンに定住し、交響曲第1番、交響曲第2番を出版以降は経済的に裕福となり、生涯に8回カトリックのイタリアへ旅行しています。しかし、生涯プロテスタントから改宗することはなく、葬儀はウィーンのルター派教会で執り行われています。ブラームスの交響曲の初演地、上演地はドイツ語圏に限られているように見えます。特に旧プロテスタント圏およびライン川沿いの諸都市に集中しています。ブラームスはカトリック圏のウィーンに居住したものの創作した交響曲や協奏曲は主にプロテスタント圏で上演しており、セバスティアン・バッハ、ベートーヴェン、シューマンと続いてきたドイツ音楽の継承者としてプロテスタントのドイツを中心に上演を行ったものと見られます。また、ライン川沿いの諸都市でも上演を行っており、ライン川の河口のオランダの諸都市からライン川源流のスイスのバーゼル、チューリヒに及びます。ブラームスにとってライン川の思い出は忘れがたく、ライン川沿いの徒歩旅行でデュッセルドルフのシューマン家を訪問し、シューマンから音楽家として認められ作曲家としての第1歩を踏み出し、シューマンのロマン音楽に強い影響を受け、またシューマンの妻のクララに対しては永遠の憧れを抱きともに旅行したラインの町並みも忘れられない思い出であり、ブラームスはクララが住んでいたバーデンバーデン近くのリヒテンタールで夏の滞在を行い、交響曲第1番ハ短調を作曲し、ピアノ版をクララにきかせ、バーデンバーデン近くのカールスルーエで初演しています。ブラームスはドイツ南部、オーストリーなどで夏の滞在を行い、春先には毎年のようにイタリアへ旅行し、風光明媚なカトリック地域で創作活動を行い、ドイツ・プロテスタントの諸都市で新作を上演して行きます。

〇ブラームスの交響曲第1番初演後のロマン派の傑作交響曲
 1876年、ブラームスが交響曲第1番を初演した後、ロマン派の傑作交響曲が次々創作されます。2年後の1878年にはチャイコフスキーが交響曲第4番ヘ短調を初演し、その後交響曲第5番ホ短調、交響曲第6番ロ短調「悲愴」が作曲され、ウィーンで辛辣な批評を受けていたブルックナーは1881年に交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」を成功させ、さらに交響曲第7番ホ長調によってロマン派交響曲作曲家として認められるようになります。ドボルザークは1885年に交響曲第7番ニ短調を初演し、さらに交響曲第8番ト長調「イギリス」を作曲し、さらにアメリカへ渡り交響曲第9番ホ短調「新世界より」を作曲します。また、フランスにおいても、1886年にサン=サーンスが交響曲第3番ハ短調「オルガン付き」を、さらに高齢のフランクも交響曲ニ短調を初演しています。これらのロマン派の傑作交響曲はわずか18年の間に誕生しており、ベートーヴェン、シューマンのドイツ交響曲の伝統を受け継いだブラームスの交響曲第1番ハ短調がその先陣となっており、この後交響曲創作史は後期ロマン派のマーラーや北欧のシベリウスに受け継がれて行きます。

【音楽史年表より】
1876年11/4初演、ブラームス(43)、交響曲第1番ハ短調Op.68
カールスルーエの宮廷劇場でオットー・デッソフの指揮で初演される。その後、マンハイム、ミュンヘン、ウィーンなど各地で演奏される。シューマンの音楽評論「第2の道」によって世に紹介されたブラームスは、交響曲の作曲を自分の最大の課題とし、1855年頃から交響曲の作曲に着手している。しかし、その後20年以上も完成に時間を要したのは、彼がベートーヴェン様式の後継者としての責務の重さのために遅筆となったためだけでも、また慎重に推敲を進めて行っただけでもない。第1期(1855年~62年頃まで)第1楽章を書き上げる。第2期(1868年)ブラームスは1868年9/12クララに宛てた手紙に譜面を書き記す。その旋律は交響曲第1番の第4楽章に用いられることになるが、この時、ブラームスにはこれを交響曲に取り入れる発想はなかったと思われる。第3期(1874年~76年)第2楽章から第4楽章を作曲する。この作品における基礎動機を用いた徹底的な楽曲展開は優美な音楽に慣れ親しんでいた聴衆には強い衝撃を与えるものであった。一瞬の隙もなく構築されたこの交響曲に関してハンス・フォン・ビューローが「ベートーヴェンの第10番交響曲」と述べた話は有名である。(2)
1877年12/30、ブラームス(44)、交響曲第2番ニ長調Op.73
ウィーンでハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で初演される。交響曲第1番の苦吟とは正反対に第2番はきわめて短期間で作曲された。また、オーケストレーションについても、作曲手法についても、前作よりはるかに自由で、のびやかな雰囲気に満ちている。作品は1877年6月にペルチャハで作曲に着手し、この年に完成をみている。第1番における対位法的にたたみかけるような手法とは異なり、自然で平明な印象を与えている作品ではあるが、作品の緻密な構成の点では第1番をしのぐ。全楽章が動機的にも関連をもって構成されているのは、短期間のうちに作曲されたことも関連している。ブラームスはこの作品について友人のビルロートに次のように述べている・・・せせらぎの音をたて小川、青い空、陽光、そして涼しい緑樹の陰がこの作品のすべてです。ペルチャハはどんなにか美しいところか。(2)
ブラームスは景観のすばらしい明るいぺルハチャと静かでおだやかなリヒテンタールでの生活のため、この交響曲は柔和で温和であり、人間的な深みとあたたかくて喜ばしいものとなっている。そのため、この曲はブラームスの「田園交響曲」と呼ばれることもある。そして、ブラームスの友人でウィーン大学医学部のビルロートは次のように述べている・・・「幸福な喜ばしいムードがこの作品全体にあふれている。そこには完全主義がはっきりあらわれていて、清澄な思考とあたたかい感情が無理なく流れている」。このような曲の性格は、この後のペルハチ滞在中に作曲されたバイオリン協奏曲、バイオリン・ソナタ第1番などとも共通している。(3)
1883年12/3初演、ブラームス(50)、交響曲第3番ヘ長調Op.90
ウィーン楽友協会大ホールでハンス・リヒターの指揮でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。作品は初演時から高い評価を得る。ハンスリックは「健康的で生気あふれるベートーヴェンの第2期を思わせ、ところどころにシューマンやメンデルスゾーンのあのロマン派薄光がほのかに見えてくる」と評価する。クララもまた「すべての楽章は宝石のようです。最初から最後まで森や林の神秘的な魅力に満ちています」と手放しの感動を述べる。(2)
この交響曲を作曲したヴィースバーデンで、ブラームスは善意の人たちに囲まれて、創作に集中することができた。ヴィースバーデンには歌手を志望していたヘルミーネ・シュピースという、ブラームスより34歳も年下のまだ16歳の女性の家があり、シュピースとの交際によって、この交響曲には晴朗さや感傷性がある。この曲と前後して歌曲の創作の数が著しく増加してきており、これらの歌曲では歌詞が恋愛のものから自然に対する愛のものへと移っているのが目立ち、この第3交響曲は歌曲的な要素を持ち、声楽的に淀みなく、自然に対する感情が込められている。(3)
1885年10/25初演、ブラームス(52)、交響曲第4番ホ短調Op.98
マイニンゲンの宮廷劇場で開かれた宮廷楽団の第3回予約演奏会で、ブラームス自身の指揮で初演される。ブラームスの危惧に反して、マイニンゲンでの初演の評は素晴らしいものであった。この演奏会はマイニンゲン公ゲオルク2世の格別の計らいと理解によって大成功を収めただけでなく、マイニンゲン公の所望により、第1楽章と第3楽章はもう一度繰返し演奏されるほどであった。ブラームスはこの交響曲をウィーンとグラーツの中間に位置するミュルツツーシュラークで完成する。この交響曲は2年間にわたり、第1楽章、第2楽章が1884年、第3楽章、第4楽章が1885年に創作された。この第4交響曲の作曲にあたってブラームスはこれまでの3曲とは全く異なる創作態度で臨んだ。この作品によってブラームスは明確に後期様式の入り口に立った。この交響曲で注目されるのは、第4楽章のパッサカリアである。これはセバスティアン・バッハのカンタータ第150番「主よ、われは汝を求む」BWV150の終曲に基づいている。このカンタータはブラームスが全巻購入予約を行って所有していたバッハ全集の第30巻に収められていたが、彼はこの刊行以前に、バッハ研究家のシュピッタとの交流を通してこの作品の写しを手に入れていた。4曲の交響曲の完成をもってブラームスは、交響曲に対する自身の回答を出した。ベートーヴェンの理想をみずからの課題としたブラームスがこれらの交響曲によって実現した世界は、ベートーヴェンの模倣ではなく彼独自の世界であった。(2)

【参考文献】
1. 三宅幸夫著、ブラームス(新潮社)
2. 西原稔著、作曲家人と作品シリーズ ブラームス(音楽之友社)
3. 作曲家別名曲解説ライブラリー、ブラームス(音楽之友社)

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