音楽史・記事編147.弦楽五重奏曲の創作史と楽器編成
弦楽四重奏はイタリアのアレッサンドロ・スカルラッティによって始められたとされます。シチリア島に生まれたスカルラッティはバロック期にありながら通奏低音を含まない弦楽四重奏を始めており、おそらくコンチェルト・グロッソを作曲した1715年頃と思われます。この時期にはサンマルティーニによってシンフォニアが作曲されるようになり、主にドイツ、オーストリーの前期古典派の作曲家たちによって多くの交響曲が作曲されるようになって行きます。ウィーンのハイドンはエステルハージ家に仕え交響曲の作曲をはじめますが、同時期に弦楽四重奏曲の作曲も始めています。やがてウィーンでは弦楽合奏の響きをより豊かにするためにビオラを2本にした弦楽五重奏が作曲されるようになったと見られます。しかし、ハイドンは生涯弦楽五重奏を作曲することはなく、弦楽四重奏の様式を確立した作曲家として誇りがあったのかもしれません。


〇ボッケリーニ、ウィーンで弦楽室内楽を学び、スペインに渡り多くの弦楽五重奏曲を作曲する
ボッケリーニは1743年にイタリアのフィレンツェ近郊のルッカに生まれ、20代前半は父親とともにウィーン宮廷に仕え、ウィーンの弦楽合奏様式を学んだものと見られます。25歳で後のモーツァルトのようにフランスのパリへ渡り、チュイルリー宮殿で行われていたコンセール・スピリチュエルの公開演奏会に出演し、得意のチェロの演奏で成功を収めたとされます。翌年にはスペイン王室から招かれマドリードに渡り、後半生をスペイン王宮に仕えることとなり、生涯に100曲を超える弦楽五重奏曲、40曲の弦楽四重奏曲、その他チェロソナタなどを残し、おそらく音楽史において弦楽五重奏曲ではもっとも多くの作品を残し、作曲家であり名チェロ奏者でもあったボッケリーニは弦楽五重奏曲において弦楽四重奏にチェロを加えています。ボッケリーニは自身のチェロにより、弦楽合奏の響きを豊かにするだけではなく弦楽四重奏を伴奏とするチェロ協奏曲様式で作曲した可能性もあります。
〇弦楽五重奏の最高傑作を残したモーツァルト
モーツァルトはハイドンとともにハイドンのロシア四重奏曲作品33を演奏し感銘を受け、1782年から1785年にかけ推敲を重ね音楽史に残る最高傑作ハイドン四重奏曲全6曲を作曲します。そして、1785年オペラ・ブッファの名作「フィガロの結婚」やプラハ交響曲などの名作を作曲するモーツァルトの創作の最も充実した時期に、弦楽五重奏曲ハ長調K.515と弦楽五重奏曲ト短調K.516を作曲します。この作品はその内容、構成の見事さからモーツァルトがハイドンに捧げた四重奏曲集とともに室内楽作品の頂点であるばかりではなく、すべての音楽史分野においても最高傑作とされています。モーツァルトは1773年にザルツブルクでハイドンの実弟のミヒャエル・ハイドンの弦楽五重奏曲の響きの豊かさに影響を受け、早速弦楽五重奏曲を作曲しています。これらの弦楽五重奏曲はビオラを2本にする編成で、最も一般的な編成であり、ビオラを2本にして中音域の響きを豊かにするだけではなく、2つのバイオリンと2つのビオラが掛け合いで旋律を演奏するという演奏効果も得られることから、楽器の配置はチェロを正面に配置し、2つのバイオリンと2つのビオラを対峙させる配置が一般的なようです。
〇ウィーンでは弦楽五重奏の伝統が受け継がれる・・・ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス
ウィーンの王宮や有力な貴族の邸では必要に応じ宮廷楽団員や街楽師などを集め、交響曲や弦楽室内楽を演奏していたようで、ウィーンでの作品の需要は多く、前期古典派のデュッタ―スドルフは150曲の交響曲をボヘミアの作曲家バンハルも40曲の交響曲を作曲したといわれ、ベートーヴェンが寄宿したリヒノフスキー侯爵は常設の弦楽四重奏団をかかえ、室内楽の需要も多くあったようです。これらの創作環境により、多くの交響曲や弦楽四重奏曲などが作曲されており、特に弦楽器を5つにした弦楽五重奏曲はウィーンを中心に創作が行われて行きます。ベートーヴェンは4つの弦楽五重奏曲を残していますが、内2曲は他の作品の編曲となっています。この時代、作品が発表されるとたちまちのうちに編曲版が流通していたようで、ベートーヴェンは編曲であっても作曲者自身が行うべきと強く主張し、作曲から22年経過したピアノ三重奏曲ハ短調作品1の3の弦楽五重奏編曲では、楽友協会のカウフマンの編曲をベートーヴェンが大幅に手を入れ出版されたとされます。シューベルトは人生の最晩年に弦楽五重奏曲を作曲しています。この作品は一般的なビオラ2本ではなくチェロを2本にしています。晩年のシューベルトはシンフォニックな響きを追求していたことから弦楽五重奏においてもよりシンフォニックな響きが得られるチェロを用いたとされます。そして、古典派音楽の復興を目指したブラームスは2つの弦楽五重奏曲を残しています。ブラームスは自身の弦楽五重奏曲を自身の最高の作品と述べており、古典派音楽への回帰に納得のいく成果を感じたものと見られます。
〇ドボルザークの弦楽五重奏とホールの音響について
私事になりますが、最近富山駅北のオーバードホールに中ホールが新設されドボルザークの弦楽五重奏曲ト長調Op.77が桐朋音楽大学の大学院生によって演奏されました。新しい中ホールは簡素な造りでありながら音響に優れ、ドボルザークの五重奏のようなコントラバスを伴った作品ではコントラバスの重低音がホールの隅々にまで響き渡り、これは優れたホールの証と感じさせられます。オーディオでも重低音を感じることはあまりありませんが、音楽史においてルネサンス、バロック、古典派と長い期間、そして古典派期以降も3度、5度の純正和声が音楽を支えてきており特にその和声の低音部の重要性を考えると、このような低音域での音響に優れたホールにおけるこれからの演奏会が楽しみです。ハイドンは交響曲第31番「ホルン信号」や交響曲第72番ニ長調などでコントラバスの独奏を登場させており、当時の演奏会場がかなり響きの豊かなホールであったことを感じさせます。
ところで、ドボルザークがなぜ弦楽四重奏にコントラバスを加えたのか・・・これは響きの優れたホールでの演奏で体感しなければわからないかもしれません。オーディオでこの曲を聴いても弦楽四重奏曲としか聞こえませんが、ホールに響き渡る重低音の魅力がドボルザークの意図するものだったのでしょうか。

【音楽史年表より】
1771年作曲、ボッケリーニ(28)、6曲の弦楽五重奏曲Op.11
ボッケリーニは1768年スペイン大使の要請を受けマドリードに向かう。70年にはカルロス3世の弟のドン・ルイス親王に迎えられ、フォント一家と交流を持つ。フォント一家は父と3人の息子で弦楽四重奏団を組んでいたが、高度な技術を要求される第1チェロはボッケリーニが受け持ち、弦楽五重奏を演奏したのであろう。75年1月パリのヴェニエール社から初版譜が出版される。(1)
1773年2/17作曲、ミヒャエル・ハイドン(35)、弦楽五重奏曲第1番ハ長調
ビオラが2本用いられるミヒャエル・ハイドンの弦楽五重奏曲はモーツァルトが弦楽五重奏曲を作曲するきっかけとなる。ミヒャエル・ハイドンはヨーゼフ・ハイドンの実弟であり、ザルツブルク宮廷に仕えていた。(2)
1773年12月作曲、モーツァルト(17)、弦楽五重奏曲変ロ長調K.174
ザルツブルク宮廷の同僚ミハエル・ハイドンの作品に刺激されて作曲された。M・ハイドンは1773年2/17に弦楽五重奏曲第1番ハ長調を作曲し、3/13に第3回イタリア旅行から帰ってきたモーツァルトがこれを知り、その新しい響きに魅了されすぐに初稿を書いたとみられる。モーツァルトはその後12月にメヌエットとフィナーレについて第2稿を作曲しているが、これまた12/1付けのM・ハイドンの五重奏曲第2番ト長調が契機と考えられる。(2)(3)
1787年4/19作曲、モーツァルト(31)、弦楽五重奏曲ハ長調K.515
「ハイドン四重奏曲」においてモーツァルトは構想の大きさを極限まで追求したが、弦楽四重奏曲の理想に立って更にその方向を追求するために、青春時代に力作を作曲(1773年変ロ長調五重奏曲K.174)していた弦楽五重奏曲が選ばれたのであろう。モーツァルトはビオラを2本使用するなど肉声の補強による充実した響きと各楽器のより自由な動きに無限の可能性を見出し、室内楽の頂点をなす作品K.515とK.516を生み出した。なお、作曲の外的誘因は不明だが、筆写譜および印刷譜の予約販売の広告を88年4月と6月に4回にわたって新聞に掲載していることから、注文によってではなく、出版して収入を得るために書かれたと推測される。(2)
アインシュタインは「誇らかで王者のようで宿命を孕んでいる」と表現しているが、このハ長調作品にはジュピター交響曲に似て旋律法、形式観とも揺るぎなく、君臨する王者の風格がにじみ出ている。(3)
5/16作曲、モーツァルト(31)、弦楽五重奏曲ト短調K.516
モーツァルトは前作ハ長調の対照作品として約1ヶ月後に、ト短調五重奏曲を完成する。短調作品におけるハイドンの深淵の回避、ベートーヴェンの理想主義的解決と比べたとき、その痛切さは聞くものを驚かせずにはおかない。それはこのフィナーレを「慰めなき長調」という言葉で捉えたアインシュタインをしてなお、ある種の不満、ショックを感じざるを得ないと告白せしめている。(2)
1801年6月作曲、ベートーヴェン(30)、弦楽五重奏曲ハ長調Op.29
ベートーヴェンはこの楽譜の収益を困窮するJ・S・バッハの末娘レギーナの救済のために捧げようという新聞記事を1801年6月に発表する。作曲は1800年末に始められ、1801年には完成したとみられる。モーリッツ・フォン・フリース伯爵に献呈される。ベートーヴェンは弦楽五重奏曲に卓越した境地を開いたモーツァルトを意識してこのジャンルに取り組んだものであろう。(4)
1828年9月頃作曲、シューベルト(31)、弦楽五重奏曲ハ長調D956、Op.163
シューベルト最後の室内楽曲。シューベルトが弦楽五重奏曲を書くにあたって、自身親しんでいたモーツァルトの五重奏曲(ビオラ2つ)に倣うのではなく、チェロを2つにしたことは、シンフォニックな響きの追求と関わっているといえよう。大きな響きの広がりを求めた必然の結果として、チェロ2つの編成となったのだと思われる。今は失われた自筆譜を所有していたディアベリがなかなか出版しようとしなかったこともあり、長らく世に知られることがなかった。初演は作曲者の死後22年もたった1850年11/17にヘルメスベルガー四重奏団とヨーゼフ・ストランスキーのチェロで行われる。(5)
1876年3/18作曲、ドボルザーク(34)、弦楽四重奏とコントラバスによる弦楽五重奏ト長調Op.77、B49
プラハの芸術家協会において初演される。当時、ドボルザークは形式においても表現領域においても、スメタナの影響のもとに個性化の道をたどりながら、いわゆる後期ロマン派の影響から自らを開放し、独自の道を意識的に邁進しようとしていた。(6)
1890年11/11初演、ブラームス(57)、弦楽五重奏曲第2番ト長調Op.111
ウィーンでロゼ四重奏団の室内楽演奏会で初演される。91年ジムロック社から出版される。(1)
【参考文献】
1.最新名曲解説全集(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3. 作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4.ベートーヴェン事典(東京書籍)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・シューベルト(音楽之友社)
6.内藤久子著、作曲家・人と作品シリーズ ドヴォルジャーク(音楽之友社)
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