音楽史・記事編177.古典派の協奏曲創作史・・ロマン派への予感
音楽史における古典派と呼ばれる時期は、前期古典派期を含めると約80年ほどであり、この時期に音楽は通奏低音を伴ったバロック様式からソナタ形式を中心とした古典派期へ、そしてロマン派へと目まぐるしく変遷して行きます。ウィーン古典派の大作曲家であるヨーゼフ・ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンは古典派様式を確立して行くと同時にロマン派へ向けての改革を行っています。オペラ分野ではハイドンが歌劇「報われたまこと」において管弦楽を駆使したフィナーレの拡大を行い、ハイドンに続きモーツァルトは歌劇「フィガロ結婚」、歌劇「魔笛」でフィナーレを大きく拡大し、全曲を管弦楽伴奏で進めるロマン派グランドオペラに近づく改革的な創作を進めています。一方の器楽の分野では、古典派期にクラヴィーアの改良が行われ、同時に、特にウィーンではクラヴィーア、ピアノの普及が急速に進んだと言われ、調性ごとの調律が不要な平均律によるピアノの普及がロマン派を生み出した背景と見られ、本編では古典派期に劇的な変化を遂げたクラヴィーア協奏曲、ピアノ協奏曲を中心に協奏曲の創作史をたどり、ロマン派への移行の背景を探って行きます。

【ヨーゼフ・ハイドン】
古典派様式を確立したハイドンは協奏曲分野ではチェロ協奏曲、トランペット協奏曲という音楽史における傑作を残しています。
〇ハイドンのオルガン協奏曲、チェンバロ協奏曲
ハイドンは104曲の交響曲において古典派の4楽章のシンフォニー様式を確立し、交響曲の父と呼ばれています。一方、オペラにおいても画期的な改革を行い、将来のロマン派グランドオペラを導く改革を行いました。ハイドンの初期のころはいまだバロック期の影響が残り、交響曲の演奏においてもハイドンは通奏低音としてのチェンバロを伴奏しながら指揮をしたと伝えられています。協奏曲ではボヘミアのモルツィン伯爵宮廷楽長時代にオルガン協奏曲を残しています。2曲のオルガン協奏曲が知られていますが、他のオルガン協奏曲は偽作であるとされています。また、ハイドンは7曲のチェンバロ協奏曲を残していますが、1784年に最後のチェンバロ(あるいはクラヴィーアのための)協奏曲を作曲するとこの分野の作曲をしなくなります。この時期にはウィーンではモーツァルトのクラヴィーア協奏曲が人気を集めており、音楽学者のランドンはハイドンはモーツェルトのクラヴィーア協奏曲の成果を知った後、ハイドンはクラヴィーアのための協奏曲を作曲しなくなったのではないかと憶測しています。
〇ハイドンのバイオリン協奏曲
副楽長時代にはエステルハージ侯爵家のコンサートマスターのルイージ・トマシーニのためのバイオリン協奏曲を作曲しています。
〇ハイドンのコントラバス協奏曲
ハイドンはエステルハージ侯爵家に雇われると直ちに優れた演奏家を集め、交響曲においてもこれらの演奏家に独奏を行わせていますが、コントラバスの独奏もたびたび登場させており、消失したものの、めずらしいコントラバスのための協奏曲を残したとされます。
〇ハイドンのチェロ協奏曲
交響曲第13番の第2楽章はチェロ協奏曲の様式で作曲され、チェロの優雅な旋律で構成されています。ハイドンは2曲のチェロ協奏曲を残しており、ハイドンのチェロ協奏曲ニ長調はドボルザークのチェロ協奏曲と並び多くのチェロ奏者によって演奏され、チェロ協奏曲の名曲となりました。
〇ハイドンのバリトンのための音楽
エステルハージ侯爵家の離宮であるエステルハーザ宮が完成すると、ハイドンは宮廷楽長となり、多くのバリトンの作品を残しています。バリトンはヴィオラ・ダ・ガンバに由来する小型のチェロのような楽器であるとされ、バリトンを愛好したニコラウス・エステルハージ侯爵のために、バリトン、ビオラ、チェロのための三重奏曲を120曲以上作曲しており、3曲のバリトン協奏曲も作曲しています。
〇ハイドンのリラ・オルガニザータ協奏曲
ハイドンは1785年には侯爵家以外からの注文による創作を行う自由が与えられ、この時期にフランスからの注文による6曲の交響曲とともに5曲のリラ・オルガニザータ協奏曲を作曲しています。おそらく外部からの依頼によって作曲されたものと見られ、この時期に一時的に流行した機械式バイオリンであったようです。
〇ハイドンのホルン協奏曲
ハイドンの時代のホルンはピストンやバルブのないヴァルト・ホルンが使われ基本は倍音のみの音を出しますが、1750年ころには朝顔の中に右手を突っ込み半音あるいは全音低い音を出すシュトップフ奏法(ゲシュトップフト奏法、ストップ奏法)がドレスデンのホルン奏者ハンペルによって開発されたとされ、ハイドンやのちのモーツァルトはホルンを旋律楽器として扱うホルン協奏曲を作曲しています。ハイドンは2曲のホルン協奏曲と1曲の2つのホルンのための協奏曲を作曲しています。
〇ハイドンのトランペット協奏曲
ハイドンはウィーンに住居を構えた晩年にはトランペット協奏曲という名作を作曲しています。この時期にウィーン宮廷楽団のトランペット奏者ヴァイディンガーによるキー付きトランペットの考案により従来の倍音に加えて音階が可能となり、ハイドンのトランペット協奏曲が生み出されます。なお、ハイドンの跡を継いでエステルハージ家の宮廷楽長となったフンメルもヴァイディンガーが考案したトランペットのための協奏曲を残しています。
【モーツァルト】
モーツァルトはピアノや管楽器の改良が進む時期に、多くのクラヴィーア協奏曲や管楽器のための協奏曲を作曲し、音楽史におけるバロックからロマン派へとつなぐ短い古典派という時期に、演奏者とともに楽器の改良や奏法の進化を成し遂げています。モーツァルトは珠玉の管楽器のための協奏曲を残し、またクラヴィーア協奏曲では当時普及が進んだ平均律の対応を行い、歌曲分野でも家庭でも手軽に楽しめるクラヴィーア伴奏の歌曲であるドイツ・リートを創始しています。
〇モーツァルトのトランペット協奏曲
モーツァルトの創作史において最初に登場する協奏曲が消失したトランペット協奏曲です。第2回ウィーン旅行で、モーツァルトは若き皇帝ヨーゼフ2世の依頼で、孤児院の新しい聖堂の献堂式のために孤児院ミサ曲ハ短調を初演し、臨席したヨーゼフ2世、フェルディナンド大公、マクシミリアン大公に大きな感動を与えています。そしてこの献堂式において知られざるトランペット協奏曲が演奏されたとの記録が残っています。この時期のトランペットは倍音のみの演奏となりますので、後のポストホルン・セレナードのポスト・ホルンの独奏が当時のトランペット協奏曲のスタイルを思い起こされます。
〇モーツァルトのバイオリン協奏曲
モーツァルトは幼いころからクラヴィーアとバイオリンを演奏し、ザルツブルクで作曲された5曲のバイオリン協奏曲は、自らがコンサートマスターを担当していた1775年頃に作曲され、自ら演奏するために書かれたとされていましたが、その後の研究で第1番の協奏曲変ロ長調は1773年に作曲されたとされ、おそらくそのころにザルツブルクのコンサートマスターを勤めていたアントーニョ・ブルネッティのための書かれたものと考えられています。
〇モーツァルトの木管楽器、ホルンのための協奏曲
モーツァルトは歌劇作曲においては事前に歌劇の配役に選ばれた特定の歌手のための歌曲を多く作曲しています。用意周到なモーツァルトは歌手の特徴を活かすために歌曲を作曲し、歌手の歌唱力を最大限に発揮できるように配慮したものと思われます。また、器楽の分野においてもザルツブルク、ウィーンやマンハイムの主席クラスの演奏家と深くかかわり、特に発展期にあった木管楽器の奏者とは楽器の改良にともに関わり、これらの演奏家のために協奏曲を作曲しており、特にクラリネット協奏曲、オーボエ協奏曲、フルート協奏曲、ファゴット協奏曲、4曲のホルン協奏曲はいずれも音楽史における傑作となっています。
・モーツァルトのファゴット協奏曲
モーツァルトのファゴット協奏曲は第2回ミュンヘン旅行の前に作曲されているので、おそらくザルツブルク宮廷楽団のファゴット奏者のために作曲されたものと考えられています。ミュンヘンを訪問した際にはミュンヘンのファゴット愛好家のデュルミッツ男爵のための3曲のファゴット協奏曲を作曲したとされ、これらは散逸したとされるものの、ザルツブルクで作曲されたファゴット協奏曲がそのうちの1曲であった可能性も考えられます。
・モーツァルトのオーボエ協奏曲
モーツァルトのオーボエ協奏曲は1920年にその写譜が発見されたとされ、フルート協奏曲第2番の原曲であることが判明しました。ザルツブルク宮廷楽団のオーボエ奏者のフェルレンディスのために作曲されたものと見られます。
・モーツァルトのフルート協奏曲
モーツァルトはマンハイムでともにマンハイム宮廷楽団のフルート奏者ヨハン・パプティスト・ヴェンドリングとオーボエ奏者のフリードリヒ・ラムと交友を得て、ヴェンドリングの仲介でフルート愛好家のド・ジャンから2曲のフルート協奏曲作曲の依頼を受けています。モーツァルトはフルート協奏曲第1番を完成し、フルート協奏曲第2番はザルツブルクで作曲したオーボエ協奏曲を移調して間に合わせたようで、結局ド・ジャンからは200フローリンの約束のうち96フローリンのみを受け取ったとされ、この件について父レオポルトから厳しく叱責されています。モーツァルトは言い訳をしていますが、どうやらソプラノ歌手のアロイジアに熱を上げていたため作曲に身が入らなかったことが原因と見られます。
・モーツァルトのホルン協奏曲
モーツァルトはウィーンに移ってからはホルンのための協奏曲を4曲書いていますが、これらはザルツブルクからウィーンに移りチーズ商を営みながらの街楽師となったイグナツ・ロイトゲープあるいはウィーン宮廷楽団のホルン奏者シュテッヒのために書かれています。一説にはロイトゲープは若いころはアイゼンシュタットのエステルハージ侯爵家のホルン奏者であったとされ、おそらくヨーゼフ・ハイドンの実弟のミヒャエル・ハイドンを頼ってザルツブルクでホルン奏者となったようです。モーツァルトはザルツブルクで幼いころからロイトゲープと親交を深め、ウィーンに移ってからも心を許せる盟友として慕い続け、ホルン協奏曲の名曲を作曲しました。
・モーツァルトのクラリネット協奏曲
モーツァルトは最晩年に音楽史における管楽器協奏曲の最高峰ともいえるクラリネット協奏曲を作曲しています。ウィーン宮廷楽団の名クラリネット奏者のアントーン・シュタードラーはクラリネットの改良に尽力し、特に低音域の拡張に力を注ぎ、モーツァルトは作曲によってクラリネットの改良に協力し、演奏者、製作者とともにクラリネットという楽器の改良に協力したことが窺えます。
〇モーツァルトの協奏交響曲
バロック時代のコンチェルト・グロッソに起源をもつ協奏交響曲はフランスで人気があり、フランスのパリに来たモーツァルトは早速、協奏交響曲の作曲を行っており、そのいずれもが音楽史における協奏交響曲の最高傑作となっています。
・フルートとハープのための協奏曲
パリに着いたモーツァルトは旧知のグリム男爵の紹介で、ド・ギーヌ公爵と知り合い、その令嬢に毎日2時間作曲を教え始めています。モーツァルトをひいきにしていたド・ギーヌ公爵はフルートの名手であり、その令嬢もハープの奏者であったことからこの協奏曲が生まれています。半音階が自由にできないというハープの性能上の限界により、この協奏曲は全曲がハ長調で演奏され、モーツァルトは新しい楽想を次々登場させ、楽想の万華鏡と呼ばれています。
・フルート、オーボエ、ファゴット、ホルンのための協奏交響曲
この木管のための協奏交響曲はパリの演奏団体であるコンセール・スピリチュエルの支配人ル・グロからの依頼で作曲されたとされます。演奏ではマンハイム宮廷楽団のフルートのヴェンドリング、オーボエのラム、ファゴットのリッターが初演にあたる予定でしたが、なぜか演奏はされずやがて楽譜までが失われるという事態となり、モーツァルトは怒りをあらわにしています。当時、パリとマンハイムの間では音楽家の交流が活発で、交響曲作曲家としてパリでは有名なゴセックはマンハイムで交響曲様式を学んでいます。パリへやってきたマンハイムの木管楽器奏者たちもモーツァルトとともにパリへやってきた可能性もあります。なお、19世紀半ばにオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンのための協奏交響曲の筆写譜が発見されこの曲は原曲の編曲ではないかと見られています。
・バイオリンとビオラのための協奏交響曲
モーツァルトの協奏的作品の頂点ともいわれるこの作品はザルツブルクで作曲され、ザルツブルク宮廷楽団のコンサートマスターのバイオリンとモーツァルトのビオラで演奏されたものと見られます。変ホ長調の曲でありながらビオラパートはニ長調で記譜されており、これはビオラを半音高く調弦して明るい響きを得るためとされます。
〇モーツァルトのクラヴィーア協奏曲
さらに、前段でも触れたように、クラヴィーア協奏曲の分野では音楽史における重要な改革を成し遂げています。当時のウィーンはモーツァルトが「ピアノの国」と呼んだようにクラヴィーアが家庭にまで普及し始めており、モーツァルトは多くのクラヴィーア協奏曲を作曲しています。ハイドンをはじめ多くの作曲家はクラヴィーアの調律をルネサンス以来の中全音律で行っていたようで、一方の家庭に普及したクラヴィーアは調性ごとの調律が不要な平均律で調律されていたようです。モーツァルトはクラヴィーア協奏曲第14番をクラヴィーアの弟子のプロイヤーに捧げていますが、おそらくプロイヤー邸に置かれていたクラヴィーアは平均律で調律されていたものと見られます。当時のハイドンやモーツァルトにとって平均律の響きは聞きなれないものであり、もっとも美しい響きであるはずの純正長3度は1/16音ほど高く、不純正に調律されており、違和感を感じたモーツァルトはクラヴィーアの演奏においては不純正な和音が響かないように分散和音を多用するようになっています。また、クラヴィーア協奏曲20番ニ短調やクラヴィーア協奏曲24番ハ短調など短調の協奏曲も作曲し、これらの協奏曲ではクラヴィーアの分散和音が活躍しています。これらの様式はモーツァルトの短調の協奏曲を愛奏したベートーヴェンに引き継がれます。
(参考:143.調律史とモーツァルト)
【ベートーヴェン】
セバスティアン・バッハは生涯にわたり声部を重ねて演奏する対位法の探求を行い、またクラヴィーアの調律においては従来の調性ごとの調律を不要とする平均律という新しい調律法によって24全ての調性において演奏が可能であることを示し、さらに主題彫琢、展開における作曲技術を深め、これらの技法はエマヌエル・バッハに受け継がれ、エマヌエル・バッハによってソナタ形式が理論化され、古典派音楽の基礎が築かれました。ボンに生まれたベートーヴェンはライプツィッヒ出身のネーフェの指導によりバッハの平均律クラヴィーア曲集を教材としてクラヴィーアを学び、モーツァルトのクラヴィーアにおける平均律に対応する作曲技法を取り入れ、ルネサンス以来西洋音楽で尊ばれてきた純正長3度の美しい和声を大胆に放棄し、平均律の不純な長3度をものともせず、音楽における劇的で情感豊かな表現を追求します。しかし、ベートーヴェンはこの平均律の欠点を補うために、生涯にわたってさまざまな和声の探求を行い、ベートーヴェンの多様な和声によってロマン派の扉が開かれたと言えます。
〇ベートーヴェンのピアノ協奏曲
ベートーヴェンは作品1の3曲のピアノ三重奏曲を最後の作品をハ短調で締めくくったようにピアノ協奏曲でも最初の3曲の協奏曲をセットで構想し、最後の第3番にハ短調の協奏曲を置いたようにも思われます。ピアノ三重奏曲や交響曲でも第3番が劇的に展開されるようにピアノ協奏曲第3番ハ短調もスケールの大きな展開を見せます。そして、ピアノ協奏曲第4番に至ってベートーヴェンは古典派協奏曲の最高の境地に達し、さらに第5番「皇帝」に至っては更に多様な和声を巧みに用い、すでにロマン派の領域に達したかのようでもあり、音楽史における最高傑作の協奏曲に仕上げました。しかし、それ以降ベートーヴェンは協奏曲を作曲しなくなります。難聴が進み、自身の演奏ができなくなったためか、あるいはこの時期、パガニーニが驚くべきテクニックのバイオリン奏法で音楽界に一大旋風を巻き起こしており、ベートーヴェンもピアノと合唱、管弦楽のための「合唱幻想曲」やピアノ協奏曲第5番「皇帝」などでピアノ奏法のヴィルトゥオーソ的な演奏を見せていたものの、名人芸のようなきわめてテクニカルな音楽としてふさわしいのかどうか、という疑問を抱いたという可能性も考えられます。
〇ベートーヴェンのバイオリン協奏曲
弦楽器を用いた室内楽で一定の成果を得たベートーヴェンは1806年短期間でバイオリン協奏曲を作曲しています。作品はバイオリン奏者のフランツ・クレメントのために作曲され、クレメントの独奏で初演されますが、ウィーンの聴衆には不評であったようです。作品の真価が認められたのは1844年メンデルスゾーン指揮、ヨアヒムのバイオリン独奏以降であったとされます。自筆譜には「お情けのためにクレメントへ」と記され、かなり嘲笑的なベートーヴェンの言葉には名人芸だけの協奏曲に対する批判が込められているとされているものの、しかし、現在ではこの協奏曲はベートーヴェンを代表する作品と高く評価されています。
〇ベートーヴェンの三重協奏曲
ベートーヴェンはピアノ三重奏と管弦楽が協奏する三重協奏曲を作曲していますが、すでにダイナミックなピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲が初演されていたウィーンの聴衆には三重協奏曲に対し物足りない思いがあったのかもしれません。当時の管弦楽はハイドン、モーツァルト時代の延長で30名から40名程度と規模が小さく、しかしベートーヴェンの音楽はオーケストラの規模が小さくてもスケールの大きい音楽を実現させており、おそらくベートーヴェンは室内楽規模の小編成での協奏交響曲のイメージで三重協奏曲を作曲したのではないかと考えられ、この曲を室内楽作品として聞けば、その良さが理解できるように思われます。
【音楽史年表より】
1800年3/28初演、ハイドン(68)、トランペット協奏曲変ホ長調Hob.Ⅶe-1
ウィーンのブルク劇場におけるヴァイディンガーの慈善演奏会で初演される。ウィーンの新聞記事によれば、ウィーンの宮廷オーケストラのトランペット奏者ヴァイディンガーがキーのついたトランペットを発明したのは、この協奏曲をハイドンが作曲する3年前の1793年で、その後7年間にわたって改良を重ねた結果、ヴァイディンガーは1800年3月にウィーンのブルク劇場で演奏会を催し、この協奏曲の初演によって、この新式のトランペットを披露した。(1)(2)
1779年夏か秋作曲、モーツァルト(23)、バイオリンとビオラのための協奏交響曲変ホ長調K.364
モーツァルトはパリで一生懸命に書いたフルート、オーボエ、ホルン、ファゴットのための協奏交響曲K.Anh.9(279B)が上演されず、楽譜も失われてしまったことに憤慨していたが、帰郷して半年以上が過ぎた1779年の夏、この協奏曲を書いた。モーツァルトはマンハイムやパリで流行していたこの新しいジャンルに強い関心を持っていたが、完成したのはこの曲だけで、結局この曲が彼の現存する唯一完成された協奏交響曲ということになる。この作品はすべてが交響的統一感に向かっているといえ、モーツァルトのこれまでの協奏的作品の頂点に立つ作品である。なお、独奏ビオラのパートはニ長調で記譜されている。これは半音高く調弦して、明るい響きを得るためである。(3)
1785年2/10初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第20番ニ短調K.466
市の集会場メールグルーベで催された四旬節の第1回予約演奏会でモーツァルト自身のクラヴィーア独奏で初演される。演奏会の当日ウィーンに到着した父レオポルトの姉ナンネルへ宛てた書簡によると、写譜が間に合わず、最終楽章は通して弾いてみる余裕もなかった。演奏会はこの上なく素晴らしいものだった、というだけで協奏曲の反応については何も触れられていない。ベートーヴェンは第1楽章、第3楽章用のカデンツァを残している。(4)
1809年末作曲、ベートーヴェン(39)、ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」Op.73
1808年末か1809年初めに作曲が開始され、1809年のうちにほぼ完了したと考えられる。ルドルフ大公に献呈された。この協奏曲の作曲が行われた時代は、周辺の社会情勢やベートーヴェンの個人的な状況も錯綜していた。ベートーヴェンは感情のもつれからエルデーディ伯爵夫人の館から飛び出し、ヴァルフィッシュガッセに転居している。(5)
11/2付のベートーヴェンのブライトコプフ&ヘルテル社に宛てた手紙には・・・暴力的破壊と耐えがたいまでのあらゆる苦しみの末、私たちはささやかな平和を味わっているところです。私は続けざまに2、3週間仕事をしましたが、それは私にとって不滅性のためというよりも、死のためであったように思われます・・・ベートーヴェン自身によって強調されたこの哲学的表現の中には、何か測りがたい含意が感じられる。だが、このとき生み出された仕事の中にはなんとピアノ協奏曲第5番「皇帝」があった。あたかも自分たちに加えられた「暴力的な破壊と耐えがたい苦しみ」を自分が生み出す音楽の力で・・・それも力強さだけではなく美しさによって・・・はね返そうと全身全霊を傾けたかのようだ。(6)
【参考文献】
1. 中野博詞著、ハイドン復活(春秋社)
2. 作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
3. 作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4. モーツァルト事典(東京書籍)
5. ベートーヴェン事典(東京書籍)
6. 青木やよひ著、ベートーヴェンの生涯(平凡社)
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