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音楽史年表記事編88.モーツァルトが亡くなった家とヤーン邸

 1790年1月にモーツァルトは歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」をブルク劇場で初演します。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世の臨席を期待していたと思われますが、皇帝はこのとき体調を崩しており、翌月には亡くなります。皇帝ヨーゼフ2世の祖父であり、母のマリア・テレジアの父の皇帝カール6世はスペイン継承戦争をフランスと戦った軍人でした。しかし、皇帝ヨーゼフ2世の父の皇帝フランツ・シュテファンは外交、軍事などの政治能力はなく、外交は女帝マリア・テレジアに、軍事はラウドン将軍に任せ、自らは事業経営に打ち込み財政的支援を行う、いわゆる文人であり、一方の皇帝ヨーゼフ2世は妃のイザベラを失くしてからは後継問題を弟のレオポルトに任せることとし、自らは尊敬すべき祖父の皇帝カール6世のように軍人として敵対するトルコの前線であるハンガリーに出陣して行きます。母のマリア・テレジアの死後、急速に啓蒙主義の改革を推し進め、自ら外交、軍事などの政治全般に関わるだけではなくオーストリー軍の総大将として出陣し、おそらくその過労がたたり短命に終わったものと思われます。
 モーツァルトがザルツブルクを離れウィーンに出てきた時期は、皇帝ヨーゼフ2世が改革を推し進めた時期にあたり、モーツァルトを冷遇する勢力が残ってはいたものの、皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトの創作を影から支え、フリーランスの作曲家としては恵まれた状況であったのではないでしょうか。その皇帝ヨーゼフ2世が亡くなり、弟のレオポルトが皇帝に即位します。新皇帝レオポルト2世は兄のヨーゼフ2世の改革の行き過ぎを是正する政策を行い、女帝マリア・テレジアがモーツァルトを冷遇したように、再びモーツァルトにとって厳しい状況となります。モーツァルトは1790年9月、新皇帝の戴冠式が行われるフランクフルトに私費で向かいますが、たいした成果もあげられない中、ウィーンの妻のコンスタンツェはラウエンシュタインガッセのモーツァルトにとっては最期の家となる住居に引越しを行っています。
 モーツァルトの最期の家はケルントナー通りの裏通りにあり、この通りの突き当りには宮廷料理長イグナツ・ヤーンのレストランがあり、その2階の小ホールでは1791年3/4にモーツァルトはピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595を初演しています。このモーツァルトの演奏は公開におけるモーツァルトの最期の舞台であったようです。また、のちにベートーヴェンがこの小ホールで管楽、弦楽による室内楽曲である七重奏曲変ホ長調Op.20を初演しています。また、7月にはプラハから皇帝レオポルト2世のボヘミア王戴冠祝賀のための歌劇「皇帝ティートの慈悲」作曲の委嘱が来ますが、これは「フィガロ」や「ドン・ジョバンニ」上演でベルトラムカ荘をモーツァルトに提供したドゥシェク夫人やウィーンの有力貴族に娘たちを嫁がせたトゥーン伯爵夫人などモーツァルトを擁護するプラハの人々の意向が反映されたものと見られます。多忙を極めたモーツァルトは弟子のジュースマイヤーの手助けを得て、わずか3週間ほどで作曲します。
 また、新皇帝レオポルト2世の新政策によってヨーゼフ2世の宗教寛容令が改められ、教会におけるミサ曲の制限が解除され、モーツァルトは再び自信のある分野の作曲に目覚めたのか、シュテファン大聖堂楽長に応募し、無給でありながらも副楽長に就任し、これによって宗教曲の名曲であるモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618や未完のレクイエムニ短調K.626が生まれます。
 1790年の皇帝ヨーゼフ2世の死により、モーツァルトは創作意欲を無くしたように見られますが、翌年には創作意欲がよみがえり、ピアノ協奏曲やモテットや未完のレクイエムなどの宗教曲、クラリネット協奏曲などの名曲が生まれ、晩年の大作である歌劇「魔笛」が作曲されます。この「魔笛」はシカネーダーの依頼による、おそらく音楽史上初めての庶民のための歌劇であり、モーツァルトの死後人気を博し、ヴィーデン劇場では当時としては異例のロングラン公演が行われます。次回以降、「魔笛」について見て行きます。

【音楽史年表より】
1787年11/15、グルック(73)
宮廷作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルック死去する。(1)
12/7、モーツァルト(31)
皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトをグルックの後任として、年俸800フローリン(約800万円)で宮廷作曲家に任命する。(1)
1789年7/14、フランス革命が勃発する。
1790年1/26初演、モーツァルト(33)、歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」K.588
ウィーンのブルク劇場で初演される。台本はダ・ポンテ、ダ・ポンテとは3作目の共作となる。(1)
1790年1月にこのオペラは初演されるが、そのあと間もなく皇帝ヨーゼフ2世が死に、そのあとを継いだレオポルト2世がやったことといえば、ダ・ポンテをクビにすることだった。皇帝ヨーゼフ2世は、自分の最大の功績は、この午後の斜陽の愛らしくも洗練された世界を実現させたことだ、などとは夢にも思いつかなかったことであろうが、この作品は、心ならずも、モーツァルトとダ・ポンテのチームのオペラへのお別れとなってしまったのである。(2)
2/20、モーツァルト(34)
神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世死去する。このため、「コシ・ファン・トゥッテ」の上演は5回目の公演で打ち切られ、劇場は5月まで喪に服すため閉鎖される。(1)
3月、モーツァルト(34)
ヨーゼフ2世の弟にあたるトスカーナ大公レオポルトが兄の帝位を継承すべくウィーンに入る。レオポルト大公はこの年の秋に正式に帝位に就き、皇帝レオポルト2世となる。モーツァルトはこの機会をとらえ請願書を提出し、自分を次席宮廷楽長にしてくれるよう求めたが、この申請は却下され、モーツァルトは翌年5月自ら申請して聖シュテファン大聖堂の副楽長に任命されることになる。(3)
9/23、モーツァルト(34)
モーツァルトは義兄(コンスタンツェの一番上の姉ヨゼファの夫)のフランツ・ホーファーと従僕を連れて、ウィーンを発ちフランクフルト・アム・マインを目指す。10月初旬にこの地でレオポルト2世の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式が執り行われることになっており、モーツァルトはそれに合わせて演奏会を開こうとした。(1)
9/30、モーツァルト(34)
コンスタンツェと息子カールがラウエンシュタインガッセ970番地のクラインガーシュタインハウスの2階へ引っ越す。(1)
10/9、モーツァルト(34)
レオポルト2世の戴冠式がフランクフルト大聖堂で盛大に催される。(1)
1791年3月、モーツァルト(35)
新皇帝レオポルト2世は兄のヨーゼフ2世が禁止もしくは制限した宗教的儀式を次々と許可し、1791年3月にはオーケストラ伴奏付き教会音楽の演奏を全面的に許す勅命を交付する。こうした情勢の変化はモーツァルトにも大きな影響を与え、晩年の教会音楽への回帰につながった。(3)
3/4初演、モーツァルト(35)、クラヴィーア協奏曲第27番変ロ長調K.595
宮廷料理師イグナツ・ヤーンの館で催されたクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアの演奏会で初演される。これがモーツァルト最後のステージとなった。(1)
5/9、モーツァルト(35)
モーツァルト、聖シュテファン大聖堂の副楽長に任命される。モーツァルトは4月に市当局に自ら申請した。これは病気であった大聖堂楽長レオポルト・ホフマンを補助する役職で、無給であったが、将来的な楽長への昇進が約束されていた。(3)
6/7、モーツァルト(35)、モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618
バーデン保養中の妻コンスタンツェの世話をしてくれた友人の合唱指揮者アントーン・シュトルへの答礼のために作曲され、贈呈された。(1)
シュトルは何年も前からヨーゼフ・ハイドンやモーツァルトの友人でもあった。ヒステリー症だったハイドンの妻はシュトルのところに身を寄せ、そこで死んだ。モーツァルトはシュトルに自分の教会音楽の楽譜を貸したり、ミヒャエル・ハイドンの教会音楽の楽譜を手に入れてやっただけではなく、村の小さな教会でシュトルが聖歌隊を指揮していると、これに加わったりもしていた。モーツァルトがアヴェ・ヴェルム・コルプスの初演のときに、自らバーデンの教会のオルガンを弾いたということもありえないことではない。おそらくこの初演は四重唱か小さな合唱と弦楽器の独奏者たちによって行われたのであろう。カール・ガイリンガーは「わずか46小節しかないこの曲の、このような限られたスペースの中に、古典主義の情熱と美しさをこれほど注ぎ込んだ人はかつてなかった・・・」と述べている。(4)
7月~12/4未完、モーツァルト(35)、レクイエム ニ短調K.626(未完)
ウィーンのフランツ・ヴァルゼック・フォン・シュトゥパハ伯爵からの依頼により作曲されるが未完に終わる。ヴァルゼック伯爵は1791年2月の夫人の死に際し、それを弔うミサ曲レクイエムを自作と称して奉献することを思い立ち、モーツァルトはその代作者として指名される。(1)
9/6初演、モーツァルト(35)、歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
プラハの国民劇場でモーツァルトの指揮で初演される。(8)
9/30初演、モーツァルト(35)、歌劇「魔笛」K.620
ウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場においてモーツァルトの指揮で初演される。初演から1ヵ月で20回の公演が行われるが、シカネーダーはその後1800年までに200回の「魔笛」の公演を行った。(1)(5)
12/5、モーツァルト(35)
午前0:55、妻コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはその生涯を閉じる。(1)
12/10、モーツァルト(没後)、レクイエム ニ短調K.626、「イントロイトゥス」「キリエ」?
聖ミヒャエル教会のモーツァルトを追悼するミサで初演される。モーツァルトは「魔笛」初演後10月からレクイエムの本格的な作曲を始めたが、12/5亡くなったとき完成していたのは「イントロイトゥス」のみで、「キリエ」「セクエンツィア」「オッフェルトリウム」は歌唱声部とバス、器楽声部の主要音型が書かれ、「ラクリモサ」は8小節のみ作曲されていた。(3)
1799年12/20私的初演、ベート―ヴェン(29)、七重奏曲変ホ長調Op.20
ウィーンの宮廷料理長イグナツ・ヤーンの小ホールにおいてシュパンツッヒらによって私的初演が行われる。(6)
クラリネット、ファゴット、ホルン、バイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスのための七重奏曲。この曲はメヌエットとスケルツォを有する6楽章構成という点で、実質的にはディヴェルティメントに属する。この作品はまたたく間に人気を博して行くのであるが、ベートーヴェンはこれをもって実質的にこの種の音楽から別れを告げる。これまでのベートーヴェンの作曲の実験の場は主にピアノ・ソナタであったが、この年から新たに弦楽四重奏曲、交響曲という新たな2つの重要な器楽ジャンルを世に問いかけていくのである。(7)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)
3.西川久尚著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.カルル・ド・二著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
6.ベート―ヴェン事典(東京書籍)
7.作曲家別名曲解説ライブラリー・ベートーヴェン(音楽之友社)
8.新グローヴ・オペラ事典(白水社)

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