音楽史・記事編100.カンタータ創作史
カンタータは、もともと器楽曲を総称するソナタに対して、器楽を伴奏とする独唱や合唱などの歌唱曲を総称するものとされ、通奏低音と独唱によるレチタティーヴォとアリアによるイタリアにおける様式やドイツにおけるコラールを取り入れた合唱、独唱、管弦楽による教会カンタータ様式、ロマン派における管弦楽伴奏の合唱曲など多様な様式があり、本編では表題がカンタータとされる作品を扱います。



ローマ帝国はライン川とドナウ川を国境としていましたので、ヨーロッパにおける文化の中心はイタリア、フランスにあり、ライン川の東およびドナウ川の北のゲルマニア地方は辺境の地であり、またイギリスもブリタニア地方と呼ばれた辺境の地とされていました。やがて、ゲルマニア地方のゲルマン人たちは民族大移動によりヨーロッパ各地やイギリスに移住を始め、青い瞳のゲルマン系の人々と黒い瞳のラテン系の人々が混在するヨーロッパが形成されて行きます。ゲルマン人はローマ帝国の国教であるキリスト教を受け入れ、秀でた武力によりローマ帝国の傭兵部隊としてフン族などの東方から侵攻した遊牧民と戦います。また、東ローマ帝国ではイスラムの侵攻により現在のトルコのアナトリア半島が陥落し、東ローマ帝国はローマ教皇に支援を求め十字軍の派遣が始まります。ローマ教皇はヨーロッパ各地の諸侯に軍人の派遣を求め、軍人の派遣ができない場合は軍資金の提供を求めます。もともとは、この軍資金の見返りとして免罪符が発行されたとされますが、やがてローマ・カトリック教会は資金集めを目的として免罪符を発行するようになります。
マルティン・ルターは、免罪符などはキリスト教の教義に反するとし、宗教改革が起こり、ゲルマン人が多く住む旧ゲルマニア地方はプロテスタント・ルター派に移行します。宗教的にはルター派はローマ・カトリック教会から破門・分離され異端視されていたものの、政治的にはルター派地域のザクセンやプロイセンは神聖ローマ帝国にとどまっており、選帝侯の地位も確保しています。しかし、神聖ローマ帝国皇帝は、帝国内は宗教的にも統一を図るべきとの考えから、ルター派を排除しようとし、凄惨な宗教戦争である30年戦争が勃発することとなります。ヨーロッパのほとんどすべての国を巻き込んだ30年戦争は、フランスのプロイセンへの加担によりプロテスタント側の勝利で終結します。この30年戦争でハプスブルク帝国の権威は失墜し、代わってドイツのプロイセン、ザクセン、ハノーファー等の諸侯は独自の主権を得てヨーロッパにおける独立国として認められるようになります。
30年戦争の主な激戦地はドイツ中央部であり、この荒廃した地域から音楽ではヘンデルやバッハ、文学ではゲーテやシラーなどの巨匠たちが現れることになります。ドレスデンのシュッツはイタリアで音楽を学び、ドイツ音楽の基礎を作り、また、北ドイツではフランドル楽派の流れを汲んだブクステフーデなどがトッカータなどのオルガン曲を多く作曲しています。バッハはドレスデンでイタリア音楽を基礎とするシュッツの音楽様式を学び、北ドイツではブクステフーデのオルガン様式を、またハノーファー近郊のツェレの宮廷ではフランスの音楽様式を学んでいます。カンタータの創作史ではセバスティアン・バッハのカンタータがそのほとんどを占めることになりますので、本編ではその創作の全容を掲載しています。
バッハの生涯は修業時代から青年時代、宮廷礼拝堂オルガニストを努めのちに楽長となったワイマール時代、宮廷楽長を務めたケーテン時代、そして聖トーマス教会のカントールを務めたライプツィヒ時代の4期に分けられます。バッハのカンタータは教会カンタータと世俗カンタータに分けられます。教会カンタータはワイマールとライプツィヒで作曲されています。ケーテン時代には教会カンタータは作曲されていませんが、これはケーテンの宮廷がルター派ではなくカルヴァン派に属していたからとされます。バッハはケーテンでは音楽劇である世俗カンタータやブランデンブルク協奏曲などの器楽曲を多く作曲しています。バッハはライプツィヒで最も多くのカンタータを作曲しています。カントールの務めとして毎週カンタータを教会で演奏することを義務付けられていたためです。とくに1723年から1725年の間には毎週のように新作のカンタータが作曲され、合唱団とのリハーサルが行われ、教会での上演が繰り返され、さらに受難曲などの大曲の創作も行うなど、驚くべき仕事量をこなしています。しかし、これらの作品はメンデルスゾーンがマタイ受難曲を再演しバッハの音楽が再発見されるまで、世に知られることはありませんでした。バッハの教会カンタータはルター派の教会で演奏されるために作曲されたため、カトリックの古典派の作曲家がバッハの教会音楽を聴く機会はなく、モーツァルトはライプツィヒの聖トーマス教会を訪問し始めてバッハのモテットを聞いています。現代においてもカトリックの教会ではハイドンやモーツァルトのミサ曲が演奏されてもバッハのカンタータが演奏されるということはなく、バッハの音楽の全容が知られるようになり、バッハの偉大さが認められ「音楽の父」と呼ばれるようになるまでに、バッハの死後半世紀以上を要しました。
【音楽史年表より】
1706年?初演、J・S・バッハ(21)、カンタータ第150番「主よ、われ汝を求む」BWV150
1706年あるいは1708年以前に初演する。バッハ最初期のカンタータのひとつ。ワイマール時代に演奏されたと考えられる。終曲のオスティナート主題がパッヘルベルのあるシャコンヌと一致するため、この先人が没した1706年に彼へのオマージュとして作曲されたとする説もある。ロ短調の終曲はこれまでの諸曲とは対照的に厳格なシャコンヌ様式で書かれており、ロ短調ミサ曲の十字架楽章の原点として、しばしば引き合いに出される。またブラームスが第4交響曲の終楽章の手本とした。(1)
1723年7/2初演、J・S・バッハ(38)、カンタータ第147番「心と口と行いと生活で」BWV147
マリアのエリザベト訪問の祝日にライプツィヒで初演する。ピアノ用その他に編曲されて有名なコラール「主よ、人の望みの喜びよ」を含む作品。バッハは1716年作曲の原曲を改作するにあたっては、アリアの歌詞を変え、コラールを入れ替え、レチタティーヴォを新たに作曲し、こうして2部構成、全10曲の作品が誕生した。当日用福音書章句は、マリアが洗礼者ヨハネの母エリザベトから受胎を祝福され、感動して神を讃える部分。この喜ばしい情景を、カンタータの台本は人間に罪深い現実と比較し、しだいにイエスへの愛情と讃美を溢れさせてゆく。(1)
1729年秋初演、J・S・バッハ(44)、世俗カンタータ「フェブスとパンの争い」BWV201
コレギウム・ムジクムのための劇音楽。おそらく1729年のライプツィヒ見本市の期間中に演奏される。ピカンダーの台本による。牧神パンとフェーブス(太陽神アポロ)がリディアのトルモス山で歌を競い合ったというギリシャ神話による。(1)
1742年8/30初演、J・S・バッハ(57)、世俗カンタータ「おいらは、新しい領主様をいただいた」(農民カンタータ)BWV212
クラインチョッハーにて荘園領主カール・ハインリヒ・フォン・ディースカウへの表敬として初演される。作品の上演はおそらくテキストを作成した徴税官ピカンダーの発案と考えられる。1組の農民男女がオーバーザクセンの方言をおりまぜて、ユーモラスに、また辛辣な風刺をこめて、新領主を讃える。あらゆる舞曲が登場し、俗謡もふんだんに盛り込まれ、その様式は新鮮で、1740年代においてもバッハが音楽史上の新しい動向に感覚を鈍らせていなかったことを示す。(1)
【参考文献】
1.バッハ事典(東京書籍)
2.樋口隆一著、バッハ(新潮社)
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