音楽史年表記事編23.モーツァルト、ロンドンでイタリア歌曲を学ぶ
1764年から65年にかけてモーツァルトはイギリスのロンドンに1年3ヶ月の間滞在しましたが、この間にクリスティアン・バッハからイタリア様式の交響曲の作曲法を学んだほか、おそらくクリスティアン・バッハの紹介と思われますが、イタリアのカストラート歌手マンツオーリから歌のレッスンを受けるなどイタリア歌曲についても指導を受け、初めてのアリアK.21を作曲し初演しています。モーツァルトの創作において歌劇の作曲は大きな比重を占めますが、その第1歩を当時イタリアでもっとも著名なカストラート歌手であるマンツオーリからの指導で始められたことは、モーツァルトにとって幸運なことであったと思われます。後にモーツァルトは第1回イタリア旅行の途上でマンツオーリと再会し、1771年ミラノで上演された皇帝ヨーゼフ2世の弟のフェルディナンド大公の婚礼祝典オペラ「アルバのアスカーニョ」K.111ではマンツオーリが主役を歌うことになります。
1765年2/21,モーツァルトは前年に作曲した交響曲第1番変ホ長調K.16とテノールのためのアリア「行け、怒りにかられて」K.21をロンドン中心部のヘイマーケット・キングズ劇場の小劇場で、マンツオーリ自身のテノールで初演します。ヘイマーケット・キングズ劇場ではヘンデルの多くのイタリア・オペラやオラトリオが初演され、ロンドンの音楽の中心地となっていました。
モーツァルトはさらに英国国教会の英語の典礼歌詞による無伴奏4声部合唱のためのモテット「神はわれらの避け所」K.20を作曲し、既に出版した3冊のクラヴィーア・ソナタ集とともに、大英博物館を訪問し寄贈しています。モーツァルトの生涯における創作活動において、モテットやミサ曲などの宗教音楽は重要な位置を占めますが、その始めての作品はラテン語ではなく英語によって作曲されることになりました。

モーツァルトのロンドン滞在は器楽、声楽の両分野において、イタリア様式習得の機会となり、モーツァルトはおそらくクリスティアン・バッハもミラノで指導を受けたマルティーニ師の指導について、クリスティアン・バッハから強く勧められたものと思われます。
【音楽史年表より】
1765年1/18、モーツァルト(8)、ロンドン・ソナタ K.10~15
ロンドンで「作品3」として出版され、イギリスのシャーロット王妃に献呈される。(1)
2/21初演、モーツァルト(9)、テノールのためのアリア「行け、怒りにかられて」K.21
ロンドンのヘイマーケットの小劇場で開かれた「声楽ならびに器楽の演奏会」で初演される。クリスティアン・バッハの曲を使ったパスティッチョ・オペラ「エツィオ」第2幕第4場の歌詞による。モーツァルトはロンドンでイタリア人のカストラート歌手ジョバンニ・マンツオーリと知り合い、アリアを作曲する。マンツオーリは1764年冬にロンドンのヘイマーケット・キングズ劇場に初登場し、クリスティアン・バッハの「エツィオ」に出演してロンドンの聴衆を魅了していた。モーツァルトはマンツオーリから歌の個人レッスンを受け、マンツオーリの出演するオペラに頻繁に出かけるなど、着々とオペラ作曲としての研鑽を積んでいった。(2)
2/21初演、モーツァルト(9)、交響曲第1番変ホ長調K.16
ロンドンのヘイマーケットの小劇場で開かれた「声楽ならびに器楽の演奏会」で初演される。演奏会の広告には「すべての序曲(交響曲)はこのわずか8歳の驚くべき作曲家の作品」と紹介される。(1)
3/13,モーツァルト(9)
ロンドンのバークレー・スクエアのクライヴ夫人(東インド会社の将軍ロバート・クライヴの夫人)のサロンで催された私的音楽会に出演し、カストラート歌手のマンツオーリと協演する。(1)
7月大英博物館に寄贈、モーツァルト(9)、モテット「神はわれらの避け所」K.20
モーツァルト親子は大英博物館を訪ね、一家の肖像画やこれまでに出版した3冊のソナタ集の印刷譜とともにモテットK.20の自筆譜を寄贈する。(1)
モーツァルトは英国国教会の典礼で歌われている英語の歌詞によって、詩編第46番「神はわれらの逃れ場」を無伴奏4声部の合唱のために、厳格なフーガ様式で作曲した。(3)
7/24、モーツァルト(9)
モーツァルト一家、1年3ヶ月にわたって滞在したロンドンを出発する。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
3.カルル・ド・ニ著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
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