音楽史・記事編160.メンデルスゾーンの交響曲創作史・・反ユダヤと反骨
ドイツのハンブルクでユダヤ人の裕福な金融家の家庭に生まれたメンデルスゾーンは幼いころから優れた音楽の才能を示し、第2のモーツァルトと呼ばれるようになります。しかし、幼いころに住んだベルリンではユダヤ人であることに対する人種的反感があり、メンデルスゾーンはベルリンを離れ、セバスティアン・バッハの面影が残るライプツィヒに活躍の場を求め、ユダヤ人に対する差別のないイギリスのロンドンでは暖かく迎えられます。本編ではメンデルスゾーンの交響曲の創作史についてみて行きますが、そもそも反ユダヤ主義はなぜ起こったのか、・・・イエス・キリストの12人の使徒はユダヤ人であるにもかかわらず、古代から中世の間にイエス・キリストはユダヤ人によって殺されたとの風説が広がり、これがユダヤ排斥の原因となったとの説がある。また、信仰・教義を重視するキリスト教に対しユダヤ教では信じるだけでは救われず善行という実践や行動が求められる。なお、ユダヤ教では救世主メシアは天にあるものとされ、キリスト教ではイエスこそが救世主メシアであるとされる。聖地を追われたユダヤの人たちの多くは金融などで生き残りを図った・・・。メンデルスゾーンやマイヤーベーアなどのユダヤ系音楽家の創作には複雑な背景があり、われわれ日本人には理解できない宗教的問題を抱えています。


○パリでベートーヴェンの弟子マリー・ビゴーにピアノを師事する
1816年夏パリを訪問した7歳のメンデルスゾーンは姉のファニーと共に優れたピアノ奏者マリー・ビゴーに師事しています。マリー・ビゴーはメンデルスゾーンのパリ滞在中は熱心にピアノを教えたようです。フランス出身のマリー・ビゴーは夫がウィーンのラズモフスキー伯爵の司書であったことからベートーヴェンと親交を持ち、悪筆で訂正箇所の多い熱情ソナタの自筆譜を初見でベートーヴェンの前で演奏し、感激したベートーヴェンからその自筆譜を譲り受けます。フランスへ戻ったマリー・ビゴーはパリでベートーヴェンのピアノ・ソナタなどの紹介に尽力しますが、34歳の若さで生涯を閉じています。このような経緯からベートーヴェンの熱情ソナタの自筆譜はパリ音楽院に保管されることとなります。
(参考:44.ベートーヴェン、ピアノ・ソナタ「熱情」ヘ短調)
○ベルリンのメンデルスゾーン家ではベルリンの名士や音楽家を集めて日曜音楽会が開かれる・・・12曲と未完の1楽章の弦楽のためのシンフォニア
1819年10歳のメンデルスゾーンは姉のファニーと共に、バッハの孫弟子で、ゲーテの友人としても知られる60歳の巨匠カール・フリードリヒ・ツェルターに作曲と音楽理論を学び始めます。メンデルスゾーンは翌年にはピアノ三重奏曲、ピアノ・ソナタ、カンタータや「兵士の恋」というジングシュピールまで作曲し、周囲を驚かせ、自宅ではベルリンのそうそうたる名士を集めサロンが開かれ、少年メンデルスゾーンの作品の発表の場となって行きます。
1822年メンデルスゾーン家では日曜音楽会が開かれるようになります。この時期、メンデルスゾーンの父アブラハムと兄のヨーゼフはメンデルスゾーン銀行を設立しており、広大な屋敷には200名も収容できるような小劇場を備え、豪華な昼食も用意される日曜音楽会にはウェーバーやフンメル、シュポアのほかベルリンを訪れたパガニーニの姿もあったと言われ、メンデルスゾーンは日曜音楽会のために12曲の弦楽のためのシンフォニアを作曲しています。(1)
一方、1816年、メンデルスゾーン家の4人の子供たちは両親によってユダヤ教からキリスト教プロテスタントに改宗しています。ベルリンではユダヤ人に対する反感は根強く、メンデルスゾーンの父アブラハムは子供たちの身を守るために祖母などの反対を押し切り、子供たちを改宗させます。そして、1822年家族でのスイス旅行中に、両親もプロテスタントに改宗することになります。これは、メンデルスゾーン家の人々がユダヤ人でありながらもドイツ市民として受け入れられるようにとの思いからと見られます。
○ゲーテとの暖かい交流
1831年ツェルターはワイマールの20年来の友人ゲーテにメンデルスゾーンを引き合わせることとします。ゲーテはすべてのドイツ人から神のように崇められており、メンデルスゾーン家にとっては大変名誉なことでした。メンデルスゾーンがゲーテの前で演奏するとゲーテはたちまち引き付けられ、その愛情は日増しに高まり、その少年を身辺から離そうとはしなくなります。
メンデルスゾーンは4回ゲーテを訪問しますが、1829年のイタリア旅行の折のワイマール訪問では、ゲーテに引き留められ2、3日の滞在の予定が2週間に及ぶ滞在となり、ゲーテにピアノ演奏を聞かせています。この折にはゲーテにベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調の第1楽章を演奏しています。ゲーテとベートーヴェンは複雑な関係にありましたが、ゲーテはベートーヴェンの音楽に驚き、「まるで、家が崩れ落ちる様だ」と感想を残しています。
(参考:82.ゲーテはなぜベートーヴェンの献呈に返事をしなかったのか?)
○セバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」を再演
ツェルターから作曲を学び始めたメンデルスゾーンは、ツェルターが指導するベルリン・ジングアカデミーに参加します。ジングアカデミーはバッハの伝統を受け継ぐ合唱団で、バッハのカンタータなどが演奏されていたようです。しかも、ジングアカデミーではバッハの大曲「マタイ受難曲」の総譜を大切に保管していました。メンデルスゾーン家とバッハとの関係も深く、メンデルスゾーンの母レアの妹ザーラ・レーヴィは大バッハの長男フリーデマン・バッハのチェンバロの弟子であり、ベルリン宮廷のチェンバロ奏者である大バッハの3男エマヌエル・バッハを経済的に支援しており、母レアも大バッハの晩年の弟子キルンベルガーにクラヴィーアを学んでいます。メンデルスゾーン家はエマヌエル・バッハとキルンベルガーから多くの大バッハのカンタータの手稿を受け継いでおり、これらはジングアカデミーの指導者であるツェルターに引き渡されていました。このような環境の中で、メンデススゾーンはバッハの音楽に夢中になっています。メンデルスゾーンの祖母バベッテ・ザロモンはメンデルスゾーンに内緒でツェルターから「マタイ受難曲」の写しをとる許可を得て、メンデルスゾーンのバイオリンの師であり友人でもあるエドゥアルト・リーツに写譜を依頼します。1823年のクリスマスにはバッハの「マタイ受難曲」の総譜が祖母バベッテからメンデルスゾーンにプレゼントされます。感激したメンデルスゾーンはバッハの「マタイ受難曲」の研究に没頭し、1829年にはジングアカデミーのツェルターの協力を得て、わずか20歳のメンデルスゾーン自らの指揮で「マタイ受難曲」の歴史的再演を果たします(2)。メンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」再演は大成功を収めます。音楽史においてメンデルスゾーンがバッハの音楽を復興した意義は大きく、それまで忘れ去られていたセバスティアン・バッハの音楽が見直され、偉大なセバスティアン・バッハが世界中に知られるようになるきっかけを作ります。
○イギリスのスコットランド、イタリアを旅行する・・・スコットランド交響曲とイタリア交響曲
「マタイ受難曲」を成功裏に復活上演したメンデルスゾーンはイギリス、イタリア方面への3年に及ぶ旅行に出発します。各国を回り見聞を広め、さまざまな音楽様式を学び、音楽家としての活躍の場を求める旅行であったようです。1829年にイギリスに渡ったメンデルスゾーンはベルリンのメンデルスゾーン家に住んでいたハノーファーの外交官クリンゲマンとともにスコットランド地方を回っています。エディンバラでは悲劇のスコットランド女王メアリー・スチュアートの居城ホリールード宮殿を訪れ、メンデルスゾーンは強烈な印象を受け、ここで後のスコットランド交響曲の冒頭の16小節を書き留めています。さらにエディンバラ以北は徒歩により各地を巡り、悪天候の中、船に揺られヘブリディーズ諸島のフィンガルの洞窟を訪問し、さらに北部の湖沼地方を巡っています。
イギリスに続いてメンデルスゾーンはワイマールのゲーテ宅に滞在した後、ゲーテのイタリア紀行と同じルートでイタリア各地を巡っています。ローマではローマ賞を受賞しフランスから音楽留学していたベルリオーズと会いますが、破天荒なベルリオーズとは性格が全く合わないと感じたようです。そして、イタリアの地において交響曲の創作にかかりますが、スコットランドで浮かんだ陰鬱な楽想はイタリアの気候や風土とは合わず、改めてイタリア交響曲の創作に取り組んでいます。イタリアからスイスを経由し、パリに着いたメンデルスゾーンは同年代のショパンに会っています。ショパンの才能を高く評価したメンデルスゾーンは、ショパンからカルクブレンナーへの師事について相談を受けると、「君の方が作曲家としてもピアニストとしてもずっと上だ。彼に弟子入りなんかするべきではない」と、助言しています。しかし、イタリアもフランスにも活躍の場はないと失望したメンデルスルスゾーンには、ロンドンからは公開演奏会の招待が届き、フランス滞在を切り上げてロンドンに向かいます。ロンドンでは熱烈な歓迎を受け、メンデルスゾーンはロンドンに希望を見出します。ロンドンでは女王に即位したヴィクトリア女王からバッキンガム宮殿に招かれ、以降、気さくな女王夫妻とは音楽を通じた内輪の交流が始まります。
ロンドン滞在中、ベルリンからは師のツェルターの訃報が届きます。メンデルスゾーンはこのとき23歳と年こそ若いものの名声は高まり、メンデルスゾーン家のこれまでのベルリン・ジングアカデミーの関係を考えれば、わがメンデルスゾーンこそが師のツェルターの後を継ぐべきとの家族の強い後押しを受け、後継候補に立候補します。しかし、ベルリンではメンデルスゾーンに対する反対運動が沸き上がります・・・キリスト教の団体であり、教会音楽の演奏を主たる活動をしている団体が、指揮者にユダヤ人を迎えるなどというのは前代未聞だ・・・、選挙に惨敗したメンデルスゾーン家の人々は打ちひしがれ、結局は我々の金だけが目当てだったのかという思いからジングアカデミーのすべての活動から手を引くことになります。
〇メンデルスゾーン、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者に就任
1833年、ベルリンでのつらい境遇から逃れるように、メンデルスゾーンはデュッセルドルフのニーダーライン音楽祭に活路を見出し、デュッセルドルフ市の音楽監督となり、生活の拠点をデュッセルドルフに移し、更に1835年には尊敬するセバスティアン・バッハが活躍したライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の5代目指揮者に就任し、ライプツィヒに新たな住居を構えます。この間、1832年にはロンドンに招かれ、ハノーヴァー・スクウェアー・ルームズで完成したイタリア交響曲を初演しています。ハノーヴァー・スクウェアーの大ホールはかつてハイドンが招かれペーター・ザロモンが主催する演奏会でハイドン後期のザロモン交響曲を初演した由緒あるホールのようです。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団では1839年にシューベルトの交響曲第8番ハ長調「グレイト」を初演し、1840年には聖トーマス教会でグーテンベルク400年記念祭のための交響曲とカンタータが一体となった交響曲第2番「讃歌」を初演し、そして1840年4月にはセバスティアン・バッハゆかりの聖トーマス教会で「マタイ受難曲」の上演を果たし、1842年3/3にはゲヴァントハウス演奏会でようやく完成した交響曲第3番「スコットランド」を初演しています。
メンデルスゾーンの活動は作曲、演奏にとどまらず、1843年4月にはバッハ記念像を除幕し、またドイツで初めての音楽学校となるライプツィヒ音楽院を開校し、自ら作曲と歌と器楽合奏の教授を務め、シューマンもピアノと作曲担当の教授に、ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスター・ダーヴィッドはバイオリン担当教授に、作曲理論と和声学には聖トーマス教会カントールのハウプトマンなどが招かれます。メンデルスゾーンが音楽学校を開校したニュースがヨーロッパに伝わるとわずか3ヶ月でロシア、イギリスなどから新たに42名の生徒が集まるほどでした。その中にはウィーンから来た12歳のバイオリンの天才ヨーゼフ・ヨアヒムもいました。メンデルスゾーンは急遽教授陣を増やし、それらには旧友の作曲家でピアニストのヒラー、2人目の子供を出産したばかりのシューマンの妻クララも含まれていました。(2)
この時期にはベルリンとライプツィヒ間には鉄道が開通し、メンデルスゾーンは頻繁に往復し多忙な日常を送っています。
〇ワーグナーによる不幸な排斥
メンデルスゾーンが亡くなって3年後に、ライプツィヒの音楽誌「音楽新報」に「音楽におけるユダヤ性」と題する記事が掲載され、ユダヤ人である「メンデルスゾーンの音楽は精神性は感じられず、真の想像力には欠ける」などの批判記事が掲載され、この記事の執筆者はリヒャルト・ワーグナーであることがすぐに判明します。このような中傷はドイツ、イギリスなどに広がり、メンデルスゾーンの作品の評価は貶められ、ついには1934年ナチス党のヒトラーによって教科書などからメンデルスゾーンの名前は抹殺され、作品の出版も演奏も全面禁止となります。メンデルスゾーンの名誉が回復したのは第2次大戦終了後のことであり、メンデルスゾーンの没後100年にあたる1947年には、ライプツィヒではメンデルスゾーン音楽祭が開催され、ゲヴァントハウスの前には新しいメンデルスゾーン像が建てられます(2)。
〇最後に
メンデルスゾーンの音楽はゲーテやシェイクスピア文学の神秘の世界、魔法の世界、幽玄の世界を根底としています。清楚で純真なメンデルスゾーンであったものの、音楽史においてメンデルスゾーンほどの人種的迫害を受けた作曲家はなく、ロマン派の大作曲家であったメンデルスゾーンの創作活動は、家族も含めての反ユダヤに対する反骨の生涯の中での創作であったように感じられます。
なお、本編は多くを、ひのまどか著「音楽家の伝記・初めに読む1冊・メンデルスゾーン」を参考にしています。この著作は児童向けのものですが作曲者の創作の背景などを的確に伝えた優れた伝記であり、難しい社会状況の中を生きぬいたメンデルスゾーンを映し出した名作となっています。
【音楽史年表より】
1830年6月作曲、メンデルスゾーン(21)、交響曲第5番ニ短調「宗教改革」Op.107
1530年ルターがアウグスブルクの会議でいわゆる「アウグスブルク信仰告白」を発表し、これがルター派の基本信条となり、1830年6/25は宗教改革300年にあたった。しかし、宗教改革300年祭の式典は政治的情勢やカトリック教会からの抗議によって中止となった。メンデルスゾーンはこの式典のためにニ短調交響曲を作曲したが、初演は実現しなかった。また、1832年春のパリ音楽院での演奏も中止となった。この交響曲はメンデルスゾーンがベルリンを発ってイタリアに向かう途中、ゲーテを訪問したワイマールあたりで完成したものとみられる。(3)
1833年3/13作曲、メンデルスゾーン(24)、交響曲第4番イ長調「イタリア」Op.90
メンデルスゾーンは1832年11月ロンドン・フィルハーモニー協会から交響曲作曲の依頼を受けていた。曲はロンドン・フィルハーモニー協会に献呈される。メンデルスゾーンは第4楽章の改訂を考えていたため、生存中には出版されず、ドイツでの初演も死後1849年11/1にリーツの指揮のもとに行われた。51年ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社から作品90として出版される。(3)
1842年1/2作曲、メンデルスゾーン(32)、交響曲第3番イ短調「スコットランド」Op.56
ベルリンにて作曲を完成する。6月にイギリスのヴィクトリア女王に献呈される。メンデルスゾーンは1829年にイギリスを訪問し、スコットランドを訪れた。エジンバラの古城の印象から交響曲の冒頭の旋律を思いつくが、作曲に取りかかったのは翌年の30年11月から31年4月に滞在したローマにおいてであった。だがそれは完成されず、1835年ライプツィヒのゲヴァントハウス・コンツェルトの指揮者となり、再びこの曲に取り組み、1842年ベルリンにおいて、ようやく完成した。(3)
【参考文献】
1.ニューグローヴ世界音楽大事典(講談社)
2.ひのまどか著、メンデルスゾーン(ヤマハミュージック)
3.最新名曲解説全集(音楽之友社)
SEAラボラトリ
