音楽史年表記事編31.モーツァルト、ベネツィアを訪問する

ローマで軍騎士勲章を授与されたモーツァルトはアドリア海沿いにボローニャに向かいますが、馬車の転倒事故により父レオポルトは足に怪我を負うなど過酷な旅となります。モーツァルトは父の療養も兼ねてボローニャには2ヶ月半滞在し、この間マルティーニ師のもとで伝統的な古様式の音楽を中心に学び、またミラノからオペラ「ポントの王ミトリダーテ」の台本も届き、作曲も始めています。作曲はレチタティーヴォが中心で、アリアは歌手の要望を入れて作曲する必要があったため、モーツァルトはミラノに移ってからは歌手に会い作曲し、合わせてリハーサルを行うという激務をこなし初演を迎えます。
1770年12/26オペラシーズンの新作オペラとして「ポントの王ミトリダーテ」がミラノの歌劇場で上演されますが、初演時からアリアごとにアンコールが行われるほどの大成功で、翌年1月中までに20回以上の上演が行われる程の好評を得ます。このオペラの大成功により、モーツァルトは2年後のオペラ作曲の契約を果たします。
オペラ「ポントの王ミトリダーテ」の成功を見届けたモーツァルト父子はベネツィアを目指し、カーニバルのシーズンをベネツィアで過ごします。

ベネツィアはバロックの時代からイタリア・オペラの中心地であり、また、カーニバルの規模はヨーロッパ随一で当時から各地から観光客を集めていました。このシーズン中ベネツィアではお祭り騒ぎが行われますが、古代ローマのラテン的伝統かもしれません。カサノヴァや後にオペラで組むことになるダ・ポンテが育ったこのベネツィアで、モーツァルトは無礼講の洗礼を受けたのでしょう。モーツァルトのベネツィア滞在は、愛情、喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、嫉妬、慈愛などあらゆる人間の情感をえぐり出したオペラ史、音楽史における名作を生み出した源泉かもしれません。
【音楽史年表より】
1770年7/20、モーツァルト(14)
モーツァルト父子、ボローニャに到着する。(1)
7/27、モーツァルト(14)
モーツァルトは3月にミラノで契約していたオペラの台本と配役表を受け取る。題名は「ポントの王ミトリダーテ」。ミラノでは毎年、謝肉祭シーズンに2曲の新作オペラが上演されることになっていたが、モーツァルトに依頼されたのはシーズンの幕開けに上演される第1オペラであった。(2)
9/29、モーツァルト(14)
モーツァルトは「ポントの王ミトリダーテ」のレチタティーヴォから作曲を開始する。これはレチタティーヴォを優先し、アリアや重唱は現地で実際の歌手に会ってから作曲するという当時の慣例にしたがった作曲手順であった。(1)
10/9、モーツァルト(14)
ボローニャの町に戻ったモーツァルトは前回の滞在のときと同様マルティーニ師のもとに通い、伝統的な古様式を集中的に学ぶ。そして、一通りの勉強を終了したモーツァルトはマルティーニ師の計らいで名誉あるボローニャの音楽協会・アカデミア・フィラルモニカの入会試験を10/9に受け入会が認められる。(1)
10/13、モーツァルト(14)
モーツァルト父子、ボローニャを発ち、ミラノを目指す。(1)
12/26初演、モーツァルト(14)、歌劇「ポントの王ミトリダーテ」K.87
ミラノの宮廷劇場(レージョ・ドゥカーレ・テアトロ)でモーツァルト自身の指揮で初演される。初演の慣例に反してプリマ・ドンナのアリアが1曲アンコールされ、ほとんどすべてのアリアで拍手喝采と「マエストロ万歳」「マエストリーノ万歳」という叫びが続くなど大成功を収める(父レオポルトの報告)。上演は翌年の1月中も続き、劇場は満員で上演回数は20回以上に及んだ。(2)
1771年2/4、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ミラノを発ってベネツィアへ向かう。(1)
2/11、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ベネツィアに到着する。ベネツィアは謝肉祭真っ盛りであった。ベネツィアには1ヵ月ほど滞在し、町の有力者と社交したり、オペラや仮面舞踏会に出かけるなどで過ごす。(1)
3/4、モーツァルト(15)
「ポントの王ミトリダーテ」の成功によってモーツァルトのもとには早くも次の作曲の依頼が来る。これは2年後のミラノの謝肉祭用オペラ「ルーチョ・シッラ」K.135の依頼であった。(1)
3/12、モーツァルト(15)
モーツァルト父子、ベネツィアを出発し、ザルツブルクへ向かう。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
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