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音楽史・記事編181.ロマン派期、近現代の交響曲初演地

 18世紀初頭にイタリアでオペラのシンフォニアから交響曲が生まれ、交響曲は広くヨーロッパの人々に受け入れらて行きます。ドイツでは大バッハの様式を受け継いだエマヌエル・バッハによってソナタ形式が理論化され、マンハイム楽派のシュターミツによってソナタ形式が交響曲に取り入れられ、ウィーンのヨーゼフ・ハイドンによって4楽章の古典派交響曲の様式が確立されて行きました。そして、ベートーヴェンによってロマン派の扉が開かれ、百花繚乱と言われるほどの多くの作曲家が登場し、さまざまな様式の交響曲が生まれて行きます。本編ではロマン派期から近現代の交響曲創作の背景などの理解を深めるために、さまざまな地域性や伝統、また宗教的背景など複雑な状況の中、キリスト教の宗派という観点から交響曲の初演地を見て行きます。なお、本編の交響曲初演作品は音楽史年表データベース掲載されたベートーヴェン以降の主要な約100曲の交響曲をもとにしています。また、ロマン派以降の特に近現代の交響曲について語ることは筆者にとってたいへん困難であり、本編では岡田暁生氏の著作の助けを得て進めて行きます。

(註)赤色:カトリック 青色:プロテスタント・ルター派 黒色:英国国教会、米国の各宗派 紫色:ロシア正教

【ロマン派期の交響曲、19世紀】
〇ロマン派音楽の特徴
 岡田暁生著・西洋音楽史(1)によればロマン派音楽の特徴は次のように述べられています・・・ロマン派音楽とは「ロマンチックな時代のロマンチックな音楽」などではなく、日常からの解放を求めた人々は、何か心を洗い流してくれる清らかなものを、夢と感動とファンタジーを、今風に言えば「癒し」を、魂を揺さぶる何かを、音楽の中に見出した。「感動させる音楽」としてのロマン派音楽の構造は旋律と和声の点から説明できる。
(ロマン派の旋律)
・「胸の奥から絞り出す吐息」とでも形容すべき身振りがその特徴となる。
・バロック音楽の主役は通奏低音であって、旋律にはそれを彩る控えめな装飾程度の役割しか与えられなかった。古典派では低音に代わって旋律が音楽をリードするようにはなるけれども、その旋律は「しっかり組み立てられた建築」といった客観的性格が強い。だが、ロマン派においては、旋律のこうした建築的な分節構造は解体され、旋律は限りなく「ため息の身振り」に近づいていく。
(ロマン派の和声)
・バロックから古典派にかけては、和声は旋律を支え、音楽を前に運ぶという、ごく実際的な役割を担わされた機能的存在だった。だが、ロマン派にあっては、和声それ自身が音楽表現の焦点となる・・・悩ましく官能的で憧れに満ちた気分のすべてが、響きに託されようになった。
・作曲技法的には古典派までの作曲家が用いた和声は、そのほとんどが「ドミソ」とか「シレソ」といた無色透明で定型的な「型」だった。それに対してロマン派では、半音階および楽器のパレットを駆使することで、和声に思い思いのうねりと色調を与える。彼らは飽くことなき「未知の響き」を模索した。

〇芸術音楽と娯楽音楽への分化が進む
 また、ロマン派期に音楽は芸術音楽と娯楽音楽に分化して行きます・・・19世紀に、全神経を集中して粛々と聴くべき「芸術」と、まずは楽しみを目的とする「娯楽」とに音楽史がかなりはっきり分離しはじめる。芸術音楽が発展したのはもっぱらドイツ語圏であり、そしてこの「偉大なるドイツ芸術音楽」を代表するジャンルが、交響曲であり、弦楽四重奏曲であり、ピアノ・ソナタ、つまりベートーヴェンが金字塔を打ち立てた諸ジャンルに他ならない。一方の娯楽音楽の中心はロッシーニやヴェルディのイタリアオペラやヨハン・シュトラウスのワルツや喜歌劇であり、これらは19世紀のポピュラー音楽と呼んでもいい存在だった。また、グランド・オペラやヴィルトゥオーソ音楽はいろいろな点で20世紀の娯楽産業のありようを先取していた。(1)

〇ウィーン、古典派交響曲からロマン派交響曲へ
 古典派にはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンがいずれもウィーンを中心に交響曲を創作し、これらの作曲家はいずれもドイツ語圏で生まれ宗派はカトリックであり、ドイツの芸術音楽とカトリック地域の娯楽音楽のいずれの音楽も作曲しています。ウィーンの交響曲は当時のヨーロッパの中心都市であったパリやロンドンでも初演されて行きます。この時期には各家庭にピアノが普及し、これらは調性毎の調律が不要な平均律で調律されていました。ハイドンやモーツァルトは長3度を純正にした中全音律で調律されたクラヴィーアを使用しており、モーツァルトは平均律対応のクラヴィーア協奏曲を作曲し、また歌曲においても家庭に普及していた平均律のピアノ伴奏で歌われるドイツ・リートを創始し、これらの対応はロマン派の様式を予感させます。ベートーヴェンはボン時代に師のネーフェからセバスティアン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を教材にクラヴィーアを学んだ経緯から、ウィーンに移ってからは、当時ウィーンの音楽家が使用していた中全音律のクラヴィーアから平均律で調律されたピアノに移行し、創作活動を始めています。平均律ではあらゆる調性への移調、転調が制限なく可能になる反面、ルネサンス期以来音楽で最も尊ばれてきた美しい長3度の純正度を犠牲にしており、長3度はかなり不純正に調律されるという欠点があり、ベートーヴェンは和声を多様化することで長3度の不純正を補い、劇的で情感豊かな音楽を創造するようになり、また古典派期のソナタ形式から新たな様式に到達しているように見られます。また、ロマン派期の交響曲では全曲を統一した様式とするいわゆる循環形式が現れますが、既にハイドンは交響曲第31番「ホルン信号」では冒頭のホルンのファンファーレを終楽章のフィナーレで再登場させ、モーツァルトは歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」で第1幕の恋人たちの別れの行進曲を第2幕のフィナーレで再登場させており、ベートーヴェンは交響曲第5番ハ短調で全曲を同一の主題によって構成しています。ベートーヴェンはさらに連作歌曲「遥かなる恋人に寄せて」Op.98では全体を統一した雰囲気で統一していくというロマン派のリーダークライスの様式を創始し、後期の作品ではロマン派の様式に導いています。シューベルトが作曲したロマン派の名曲「未完成交響曲」はシューベルトの死後、発見されウィーンで初演されています。ロマン派期、リンツ近郊で生まれたブルックナーはオルガン奏者となり、純正律の音律に回帰した交響曲を作曲し、ウィーンで初演しています。また、プロテスタント・ルター派のハンブルクで生まれたブラームスはカトリックのウィーンに移り活躍しますが、その音楽は古典派に回帰し、またバロック音楽などを研究し、ワーグナーなどの新ドイツ主義と対立し、シューマンはドイツ交響曲を発展させるように4曲の交響曲を残しました。マーラーはウィーンでは長く宮廷歌劇場の指揮者を勤め多くの歌劇を上演しており、そのかたわらで独自の大交響曲を作曲しています。しかし、ウィーンではマーラー亡き後に交響曲第9番が初演されたのみで、その他の交響曲はミュンヘンやケルン、ベルリンなどの諸都市で初演しています。

〇パリに現れたベルリオーズと巨大化するオーケストラ
 ベートーベンが亡くなって3年後の1830年、パリにベルリオーズという破天荒な作曲家が現れロマン派初期の傑作交響曲である「幻想交響曲」を初演しています。・・・19世紀の多くの作曲家が武器としたのは、何より大音量と高度な演奏技術である。19世紀は「大向こうを唸らせる効果」に取りつかれた時代だったといってもいい。オーケストラは果てしなく膨張していく。ベルリオーズの「幻想交響曲」はすでに、2本のコルネットとチューバ、3本のトロンボーン、2台のティンパニが加わり、しかも第3楽章では4人の奏者がこれをたたく、そして、大太鼓やシンバルや鐘などを含むマンモス・オーケストラを要求している。ワーグナーやR・シュトラウスは言うまでもない。(1)
 また、フランスではプロイセンとの晋仏戦争の敗戦後、1871年に国民音楽協会が設立され、フランクやサン=サーンス、ショーソン、フォーレが参加しています。この協会は「フランスにもドイツに負けない正統的な器楽文化を作ろう」という目的で作られ、近代フランスの交響曲や協奏曲、室内楽の名作が創作されます。(1)

〇ライプツィヒのメンデルスゾーンとシューマン
 メンデルスゾーンは金融を営むユダヤの豊かな家庭に生まれ、恵まれた家庭で音楽教育を受けセバスティアン・バッハの伝統を受け継ぐベルリン・ジングアカデミーの指導者ツェルターを師とし、音楽家としての活躍を期してユダヤ教からプロテスタント・ルター派に改宗しています。そして、誕生日に祖母からバッハのマタイ受難曲の筆写総譜を贈られ、バッハの音楽にのめりこんだようで、バッハのマタイ受難曲の歴史的復活上演を果たします。これによってセバスティアン・バッハの多くの作品が世に知られるようになるきっかけになったわけですが、ツェルター亡き後、自身がベルリン・ジングアカデミーの指揮者に就任することはかなわず、この背景にはベルリンにおける金融を牛耳るユダヤ人たちへの根深い反感があったとされます。このため、メンデルスゾーンは音楽活動の拠点をライプツィヒに移し、あらゆる国、あらゆる宗教に開かれたライプツィヒ音楽院を創設し、自身の3曲の交響曲、またシューマンの3曲の交響曲を、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団演奏会で初演しています。また、シューマンがウィーンのシューベルトの兄フェルディナンドの自宅で発見した名曲交響曲第8番ハ長調「グレイト」は、1839年メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団で初演されます。また、1884年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によってブルックナーの交響曲第7番が初演されています。この初演の成功によってブルックナーは世界に知られる作曲家となります。

〇ドボルザーク、ボヘミアで民族的な交響曲を作曲する
 ボヘミアに生まれたドボルザークは、ボヘミア音楽の師であるスメタナが監督を務めるプラハ国民劇場のビオラ奏者としてスメタナの国民歌劇「売られた花嫁」の初演に加わり、またスメタナの交響詩「わが祖国」からは大きな影響を受けたものと見られ、ボヘミアやスラヴの影響の強いモラヴィア地方の民族音楽を融合した交響曲を作曲して行きます。また、オーストリア国家奨学金に応募し、ウィーンの審査員ブラームスの推薦によりオーストリア政府から報奨金を毎年のように受け取っています。名声を得たドボルザークはニューヨーク音楽院から院長として招かれ、ニューヨークのカーネギー・ホールで交響曲第9番「新世界より」を初演し大成功を収め、交響曲創作史に残る傑作として音楽史に名を刻んでいます。

〇ロシア5人組とチャイコフスキーの交響曲
 20世紀に至りロシアは最も多くの交響曲が初演された国となりますが、チャイコフスキーはそのロシア交響曲の父とも呼べる作曲家となります。ロシア宮廷は古くからヨーロッパ王家とのつながりが強く、多くのヨーロッパの作曲家がペテルブルクなどを歴訪しオペラ公演などを行ってきています。ロシア音楽は1830年から4年間にわたりイタリアなどで西欧音楽を学んだグリンカによって作曲された愛国歌劇「皇帝に捧げし命(イヴァン・スサーニン)」によって始まったとされ、ロシア民族音楽と西欧の音楽様式を融合させた様式となっており、グリンカの影響により5人組と呼ばれる作曲家、バラギレフ、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフが活躍するようになります。一方、フランス移民の血筋を持つチャイコフスキーはアントン・ルビンステインの音楽学校に入学し、3年間の作曲家課程を修了し作曲活動に入りました。5人組のロシア国民楽派とは一線を画すものの、チャイコフスキーの音楽はロシア風な素朴な郷土色よりも、むしろヨーロッパ風に磨かれた華麗さが特徴であり、ドイツでもフランスでもロシアでもない特異な音楽として当時のロシア人の反感もあったとされるなか、その才能を認めた裕福な未亡人フォン・メックに認められ多額の年金を得たことからヨーロッパに音楽遊学し、交響曲第4番を作曲し一躍名声を得て、傑作交響曲の他に優れたバレエ音楽を残し、ロシア古典音楽の巨匠となっています。

〇イギリスにおける交響曲初演・・・宗教的寛容の背景
 イギリスでは伝統的に他国の作曲家を受け入れてきています。古くはヘンデルやクリスティアン・バッハ、アーベル、またロマン派期にはユダヤの家系のメンデルスゾーンやボヘミアのドボルザークなどを受け入れ、イギリスでもエルガーやブリテンが登場し交響曲を作曲するようになっています。他国の作曲家を多く受け入れた背景には大英帝国としての経済力の大きさと、イギリス王家が血縁のドイツ人のジョージ1世につながること、またフランス王家との血縁などヨーロッパの王家に多くのつながりがあり、宗教的にもプロテスタントでありながら英国国教会はカトリックに近く、教義に縛られるという面が弱く、ある程度寛容であり、特にユダヤの人々を暖かく迎えています。キリスト教の教義では「お金を貸しても利息は受け取ってはならない」とされ、古くから金融業はユダヤ系が独占してきた経緯があり、これは今日でも英米では金融・経済を営む人々の多くはイスラエル系であり、英米の人々はイスラエルとの連携融和を尊重しています。一方のプロテスタント・ルター派では金融で裕福になったユダヤの人々を嫌悪する風潮が強く、キリスト者としての教義を厳格に守る風潮があり、ベルリンでは銀行を営む裕福な家庭に育ったメンデルスゾーンは音楽家として生きるためにユダヤ教からルター派に改宗したものの、宗教的迫害に耐えきれず、結局はライプツィヒに逃れ、イギリスのロンドンの市民に救いを求めるということになったものと見られます。

【近現代の交響曲、20世紀】
〇ロマン派との決別
 岡田暁生著・西洋音楽史(1)によれば・・・1920年代に登場した作曲家たちには共通してロマン派への極度の嫌悪があった。彼らはロマン派音楽の、オルガンのような響き、官能的な和声、司祭のごとき厳かなポーズ、内気な芸術家の孤独な魂の表現といったものを、徹底的に排除しようとし、すでに1918年のプロコフィエフの古典交響曲、1925年のショスタコーヴィッチの交響曲第1番にも、残響のない乾いた響き、辛辣な嘲笑、ジャズやキャバレー音楽などの実用音楽の影響等の脱ロマン派の主張が見られる。また、ウィーンに生まれたユダヤ人のシェーンベルクは1910年頃には調性を解体して無調の世界に入り初め、ロシア人のストラヴィンスキーは「春の祭典」で伝統的なリズム法則を木っ端微塵にした。ストラヴィンスキーは音楽史の終焉をクールに見定めつつ、あえて変則技を使って、なお、残されているわずかな可能性を汲み尽くそうとし、それに対しシェーンベルクは誰一人耳を傾けてくれる人がいない荒野へ踏み出そうとし、無調音楽を理論化しようとし12音技法を生み出した。12音技法とは、調性が生じないようにオクターヴに含まれる12の音を全て平等に使い基本形を作り、基本となる3つのヴァリアントを設ける。基本音型を後ろから読んでいく逆行型、それを鏡に映したように反転させた鏡像型、そして鏡像型の逆行型の3つである。
 このようにして、古典派、ロマン派の音楽の中心地であったウィーンやドイツでは20世紀に至り、交響曲はほとんど作曲されなくなります。

〇ロシア、近現代における交響曲創作の中心地
 20世紀の近現代には脱ロマン派を標榜するオーストリア、ドイツの近代作曲家の影響からか、交響曲はロシアや北欧で作曲初演されるようになって行きます。ロシアではラフマニノフ、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチ等が交響曲を作曲しており、これらの作曲家も脱ロマン派の流れの影響を受けており、ロシア革命で無調性音楽が反革命的であると糾弾される中、フランスやアメリカに亡命し作曲しています。しかし、ショスタコーヴィッチはロシアにとどまり革命政府と戦いながら15曲の交響曲を残しています。革命政府から無調性音楽を非難されたショスタコーヴィッチは交響曲第5番ニ短調でベートーヴェンに回帰するように調性音律による交響曲を作曲しますが、交響曲のあちらこちらには調性音楽と無調性音楽が対比するように現れており、ショスタコーヴィッチの反骨精神を垣間見せています。

〇ヘルシンキ、シベリウスの交響曲
 愛国的な交響詩「フィンランディア」で知られるフィンランドのシベリウスはヘルシンキの音楽院を出てからウィーンに留学しています。ウィーンではブルックナーやブラームスの影響を受け、その内容や構成の充実からベートーヴェン以降の最も優れた交響曲作曲家といわれるまでになっています。生涯で7曲の交響曲を作曲し第6番まではヘルシンキで初演し、第7番はストックホルムで初演されています。また、シベリウスの交響曲はイギリスで高い評価を受け、ヘルシンキで初演した後はイギリスへ演奏旅行を行い演奏を行ったとされます。

〇アメリカで初演された交響曲
 ドボルザークがニューヨーク音楽院の院長として招かれたころ、アメリカは国力を増し、ニューヨークのマンハッタンには摩天楼がそびえたつようになり、ミッドタウンにはニューヨーク・フィルハーモニックの本拠地となるカーネギーホールが開場しています。ドボルザークはこの新しいホールで交響曲第9番ホ短調「新世界より」を初演し、アメリカの人々に大きな感動をもたらします。そして、ニューヨークの成功に影響を受けたものとみられますが、ボストン交響楽団は創立50周年記念としてフランスのルーセル、ロシアのプロコフィエフ、スイス人でフランスで生まれたオネゲルに新作交響曲を委嘱し、初演しています。また、シカゴ交響楽団も創立50周年にフランス人のミヨー、ロシア人のストラヴィンスキーに新作交響曲を委嘱し初演しています。

【音楽史年表より】
1924年3/25初演、シベリウス(58)、交響曲第7番ハ長調Op.105
ストックホルムの楽友協会コンサートにおいて作曲者自身の指揮によって初演される。このコンサートは2回行われたが、曲のタイトルは「ファンタジア・シンフォニコ(交響幻想曲)」となっていた。当初の予定ではイギリスのフェスティバルに招かれての初演の予定であったが、病のためそれは流れ、近国でありながら長い間演奏旅行に行かなかったスウェーデンのストックホルムで初演した。シベリウスは1918年の手紙で「第7交響曲」のプランについて次のように記している・・・第7交響曲、生命と活動の喜び、情熱的なパッセージを伴って。3楽章制で、フィナーレはヘレニック・ロンド・・なお、ヘレニックとはヘレンなるギリシャの神の名から転じて、シベリウスの用語では「ギリシャ風ロンド」と受け取れる。セシル・グレイはシベリウスをベートーヴェン以降の最大の交響曲作家と評したが、シベリウスは第7交響曲で交響曲創作史の一つの到達点に達したといえよう。なお、翌年25年には作曲者自身の指揮でフィンランド初演が行われる。(3)
1926年5/12初演、ショスタコーヴィチ(18)、交響曲第1番ヘ短調Op.10
レニングラードにて、N・マリコ指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団によって初演される。演奏後、ショスタコーヴィチの交響曲を嵐のような大喝采が迎え、スケルツォがアンコールされた。舞台に呼び出されたその作曲家はあどけなさの残る顔に黒縁の眼鏡をかけた18歳の学生だった。ショスタコーヴィチは、生涯この日を第2の誕生日として祝い続けた。ショスタコーヴィチは1925年の第1番から1971年の第15番まで46年間に渡って15曲の交響曲を完成した。各々の交響曲で選ばれた様式や音楽語法は、作曲の歴史的政治的背景と密接に関係しているが、それは外部からの圧力とそれに対する一方的な譲歩では全くなく、まさにここにショスタコーヴィチという作曲家の独自性がある。(4)
1933年1/31初演、ブリテン(19)、シンフォニエッタOp.1
ロンドンのバレエ・クラブのマーキュリー劇場において催されたマクノートン・ルメア・コンサートにおいて初演される。1932年6/20~7/9にロンドンにおいて作曲される。ベンジャミン・ブリテンは16歳のときロンドンの王立音楽院に入学し、18歳のときに室内オーケストラのためのシンフォニエッタOp.1を作曲、在学中に演奏された唯一の作品となる。作品はシェーンベルクの影響を示している。(5)

【参考文献】
1. 岡田暁生著、西洋音楽史(中央公論社)
2. 堀内敬三著、音楽史(音楽之友社)
3. 作曲家別名曲解説ライブラリー・シベリウス(音楽之友社)
4. 千葉潤著、作曲家・人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ(音楽之友社)
5. 最新名曲解説全集(音楽之友社)

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