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音楽史・記事編173.マーラーの交響曲創作史

 ボヘミアのユダヤ人の家庭に生まれたマーラーは各地の歌劇場の指揮者を務め、歌曲や交響曲を作曲し後期ロマン派の大作曲家となります。マーラーの音楽の世界は自然讃美、人間讃歌であり、宗教的であり、しかも哲学的であり、その本質を受容することは筆者には可能なのかと思わせられます・・・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノが編纂したドイツの民話をまとめた「少年の魔法の角笛」に西洋の深遠な宗教や哲学が含まれるのか。本編ではマーラーの奥深い交響曲の創作史を、マーラーの足跡をたどり、初演地を中心に見てゆきます。

〇マーラーの歌曲と交響曲
 ドイツ語圏における交響曲創作史を見て行くと、古典派期にヨーゼフ・ハイドンがソナタ形式を中心とした4楽章の交響曲様式を完成させ、この様式はモーツァルト、ベートーヴェンに受け継がれ、ベートーヴェンは交響曲創作史における最高傑作となる9曲の交響曲を作曲しています。ベートーヴェンはピアノソナタなどのピアノ曲の作曲において、従来の純正音律のピアノから平均率で調性されたピアノによる創作に移行しており、ルネサンス期以来の400年にわたって続いてきた主和音の美しい和声を大胆に放棄し、平均律によって調律されたピアノのために作曲を行っています。ベートーヴェンは平均律の欠点である長3度の不純性を多様な和声で補い、不純な長3度の和声であってもこれを情感の表出手段として使い、音楽においては美しさよりも情感性や激情に訴える音楽を創作したように思えます。ベートーヴェンのピアノ音楽創造様式は交響曲に及び、ハイドンが積み重ねてきた美しい和声による交響曲から感情の高まりや情感の表出を重視し、画期的で革新的な交響曲を作曲しています。ロマン派期に至り、ベートーヴェンの交響曲創作様式はシューマンやブラームス、ワーグナーの歌劇や楽劇の管弦楽様式に受け継がれます。さらに、ブラームスやドボルザークはベートーヴェンの様式を受け継いでいるように見られます。これらの作曲家の特徴としては室内楽においてはピアノと弦楽による三重奏曲や四重奏曲、五重奏曲を多く作曲しており、基本的に平均律音律を前提とした作曲様式であるように見られます。一方で、オーストリアのリンツ近郊に生まれたブルックナーはオルガン奏者として名を成し、オルガンの純正音律や教会旋法などの古様式の音楽に親しみ、交響曲においては金管楽器による主和音などの重厚な純正音律を前提とした創作を行っています。また、歌劇などの声楽に親しんだチャイコフスキーやマーラーは純正音律による声楽音楽の影響か、交響曲においても純正音律を重視した作曲を行っているように見られます。純正音律重視の影響とみられますがブルックナーやマーラーの時代にはピアノ室内楽が作曲されなくなっています。ピアノを使わない歌劇では音律が平均律である必要はなく、モーツァルトの歌劇やプッチーニの歌劇では重厚なブラスが美しい純正音律を響かせます。ベートーヴェンに始まった平均律による多様な和声による音楽創造は、ブラームスにまで引き継がれ、ブルックナー、マーラーに至り純正律に回帰するように、ベートーヴェンの多様な和声様式に加え、主和音や長3度の和声においては重厚な純正和声を響かせるようになりました。歌劇場の指揮者を長く務めたマーラーは歌劇特有の重厚な純正和声により歌曲を創作し、交響曲においても西洋音楽の伝統である純正音律による創作を行ったように思えます。マーラーの創作過程を見ると、最初にピアノ伴奏の歌曲を作曲し、次いでその歌曲による交響曲を作曲し、最後にはピアノ伴奏を管弦楽伴奏に置き換え純正音律による歌曲として完成させています。このことからもマーラーが伝統の美しい純正音律による音楽創造を目指していたことがうかがえます。

〇マーラーの交響曲(参考:シュライバー著岩下真好訳・大作曲家マーラー(1)、村井翔著・人と作品マーラー(2))
(天上へ至る神秘の愛をテーマとした初期の4曲の交響曲)
マーラーはその人生観、死生観、自然観、神観を「少年の魔法の角笛」というポエジーを媒介にして展開する
交響曲第1番ニ長調「巨人」・・・1888年3月に5楽章の交響詩「巨人」として作曲
(第1部)①終わりなき春(第1楽章)②花の章③帆をいっぱいに張って(第2楽章)
(第2部)④座礁!(第3楽章)⑤地獄から(第4楽章)
・1889年3/16のベルリンでの演奏から第1部第2曲「花の章」が削除され4楽章の交響曲として演奏される
・自然と愛の賛歌
・第1楽章は「さすらう若人の歌」の「朝の野辺を行けば」による、この歌は「少年の魔法の角笛」を下敷きにしてマーラーが歌詞を自作した
・第3楽章の中間部に「さすらう若人の歌」第4曲「愛しい人の2つの青い眼が」が現れる
交響曲第2番ハ短調「復活」・・・1894年12/18作曲
・マーラーは指揮者ビューローの葬儀でクロプシュトックの「復活」のコラールを聴き、その影響を受け、5楽章の交響曲を作曲する
・(第1楽章)埋葬
・(第2楽章)追憶
・(第3楽章)「少年の魔法の角笛」の「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」による
・(第4楽章)「少年の魔法の角笛」による歌曲「原光」による・・人間の無邪気さと信仰心、ベートーヴェンの第9交響曲以来初めて交響曲に声楽が用いられる
・(第5楽章)最後の審判の音楽、オルガンと鐘、金管楽器が高らかに鳴り響き、混声合唱による聖人たちと天使たちの合唱「よみがえらん、まことに汝はよみがえらん」が歌われ、極限の力の展開で壮大な交響曲は閉じられる
交響曲第3番ニ短調・・・1896年8/6作曲
・夏の真昼の夢・・・マーラーは狭い自然観を離れ、宇宙創造の全体をまとめ上げることを試みる
・(第1部)(導入部)牧羊神の目覚め(第1楽章)夏の行進・・・演奏では第1部のみで45分を要する
・(第2部)(第2楽章)野の花(第3楽章)森の動物(第4楽章)人間(第5楽章)天使たち(第6楽章)愛
・当初マーラーは第7楽章に「天上の生活」を置くことを考えたが、「天上の生活」に3楽章を加え第4交響曲とした
交響曲第4番ト長調・・・1900年8/5作曲
・第3交響曲のエピローグとしての交響曲・・・神的な愛の世界に、目に見えるような天国へと入ってゆく
・マーラーは第4交響曲で各楽章に標題をつけることをやめる・・・マーラーは標題音楽の災いと間違いの元凶はリストとベルリオーズにあるとしたが、マーラーの「音楽についての音楽」という発想は人々の理解を遠く超えた事柄であった
・(第3楽章)マーラーが書いた唯一の変奏曲楽章、音楽はゆっくりと昇りつめて行き、やがてオーケストラにはベルアップが指示され「天井の生活」のモチーフが高らかに奏でられるが、音楽はさまよいながら彼方に消えてゆく
・(第4楽章)「少年の魔法の角笛」の歌曲「天上の生活」の歌詞による・・・悲惨な「地上の生活」に対する享楽の「天上の生活」の対比、マーラーの最も難解な思想、哲学を表現
・子供の幸せと遊びと踊りがテーマとするメルヘン交響曲でありながら、曲はコントラバスの最低音により死への沈黙へ消えてゆく
(闘いを経て得られた地上の愛をテーマとした純器楽による3曲の交響曲)
交響曲第5番嬰ハ短調・・・1902年夏作曲
「自分自身の自我からの新しい世界形成」への第1歩
(第1部)(第1楽章)葬送行進曲
・ベートーヴェンの第5交響曲の主題を思わせるトランペットの葬送のファンファーレ
・第2中間部のトリオの第2変奏では「亡き子をしのぶ歌」の第1曲「いま太陽はかくも晴れやかに昇ろうとする」が用いられる
(第2楽章)
・マーラーの悲劇の調であるイ短調による
・第1楽章と第2楽章は続けて演奏される
(第2部)(第3楽章)
・生きることの喜びをたたえる歌
・オブリガート・ホルンがホルン協奏曲のように活躍する・・ボヘミア民謡「窓の下に小川は流れる」
(第3部)(第4楽章)
・弦楽とハープのみで演奏される
・「リュッケルト歌曲集」第3曲「ぼくはこの世から消え去って」の法悦の世界
・第4楽章と第5楽章は続けて演奏される
(第5楽章)
・ホルンのモチーフに続いてファゴットが「少年の魔法の角笛」の第10曲「高い知性への讃美」を引用する
・終結部は第2楽章のコラール主題がフーガ主題とともに絶え間のない生成に発展し、最後の終結に殺到する
交響曲第6番イ短調「悲劇的」・・・1904年9/9作曲
・4楽章で書かれた古典的様式の交響曲、両端楽章ではソナタ形式のアレグロ楽章で展開部ではベートーヴェン的な主題労作による展開が盛んに行なわれる
・硬直した物質の世界に対する人間の闘い、孤独と敗北
・マーラーの純粋器楽交響曲の中では最大級の楽器編成を持つ、チェレスタや2人のティンパニ、カウベル、シロフォン、枝を束ねた鞭、複数の低音の鐘、複数のシンバル、トライアングル、大太鼓、小太鼓、タムタム(銅鑼)、ハンマーなどが打楽器群のすさまじい騒音効果と音色の対比をおこなう
・第1楽章では「少年の魔法の角笛」の第12曲「少年鼓手」で用いられたモチーフが用いられる
・第4楽章は大胆な音響上の実験を含む壮大なソナタ楽章
交響曲第7番ホ短調「夜の歌」・・・1905年夏作曲
・生きることへの愛、現世への愛、人間として生きていることの喜び・・・5楽章の交響曲・3つの夜の楽章が両端のまばゆい昼の楽章に縁どられる
・第1楽章:大規模なソナタ形式による生への回帰
・中間部の3つの楽章は「夜の楽章」・・・第2楽章:夜曲・バラード風、第3楽章:打ち震えたスケルツォ、第4楽章:夜曲・セレナード
・第5楽章・比類のない光の放射、勝利感に充ちた確たる意識、明るさへの幸福な帰依
(人間賛美の交響曲・・・第8交響曲)
交響曲第8番変ホ長調「千人の交響曲」・・・1907年夏作曲
ソプラノ3、アルト2、テノール、バリトン、バス独唱と2群の混声合唱、児童合唱と管弦楽(別同管弦楽を含む)のための交響曲
・第1部:ラテン語の聖霊降臨祭頌歌「現れたまえ、創造の主よ、聖霊よ」の音楽・・・「現れたまえ」という精霊への呼びかけは「創造の根源的な力」を呼びさまそうとする・・・すべての存在の根本原因としての愛
・第2部:マーラーはゲーテの「ファウスト」の終幕の部分による音楽により、あらゆる生物に作用する創造的力としての愛という理念を導き、神的な愛の中での創造とその最高段階を「人間讃美」という根本理念に導く
(後期交響曲群・・・マーラーの最終的な一つの完結、後に続く断絶、死との対決)
交響曲「大地の歌」・・・1908年夏作曲
・室内楽的管弦楽法による
・6つの楽章の歌詞がハンス・ベートゲ訳の中国の漢詩集「中国の笛」からとられる
・(第1楽章)大地の悲哀を歌う酒の歌(第2楽章)秋に寂しき者(第3楽章)青春について(第4楽章)美について(第5楽章)春に酔える者(第6楽章)告別・・・完全に死に絶えながら大地の形象は無限の中へ余韻を残して消えゆく
・マーラーの第9番の交響曲となるはずであったが、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナーが「第9番」から先に進むことがなかったことを意識して9番という数を遠ざけた
交響曲第9番ニ長調・・・1910年4/1作曲
・マーラーの最高傑作であるとともに音楽史における交響曲という楽曲の終極の姿
・マーラーは「大地の歌」で第9と呼ぶのを避けたが、次の作品が純粋器楽の交響曲であったので第9と呼ばざるを得なくなる
・この曲を作曲中のマーラーは死の恐怖に取りつかれていた、14人兄弟のうち7人が成人前に亡くなり、弟オットーは21歳で自殺し、音楽院時代の学友ロットとヴォルフはともに精神病院で死を迎え、2年前には最愛の長女も奪い去られる・・・マラーは死との対決を迫真力を持って描き、不滅の傑作を生んだのか・・・
交響曲第10番ヘ長調(未完)・・・~1911年5/18作曲
・マーラーが亡くなって10年の後、妻のアルマのもとで草稿が発見される
・第4交響曲で作曲された「地上の生活」の旋律は第3楽章に転用されている
・マーラーはスケッチに謎めいた書簡と叫びを書き込んだ・・・憐れみたまえ!おお、神よ、なぜ私を見捨てたのですか。悪魔が私と踊る!狂気よ、私をとらえよ、呪われたものを!私を滅ぼしてくれ、私であることを忘れさせてくれ
・嬰へ短調のアダージョだけがスケッチの段階を超えて書き進められている

〇1876年・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指輪」初演、ブラームスの交響曲第1番ハ短調初演とマーラーの創作活動
 音楽史において1876年は特別な年です。ワーグナーはバイロイトの地で自作品上演専用の祝祭大劇場のこけら落とし公演として、20年に渡って作曲を続けてきた大作の楽劇「ニーベルングの指輪」を4夜に渡る上演を3回のチクルスによって初演しています。またブラームスは11月にカールスルーエにおいて交響曲第1番ハ短調を初演し、ロマン派の作曲家に大きな影響を与えています。マーラーはこの年は16歳で、前年にウィーン音楽院に入学しており、初めての作品としてピアノ四重奏曲などを作曲しています。翌年にはブルックナーがウィーンで交響曲第3番ニ短調を初演しており、マーラーがこの初演聞いたとの記録が残っています。ブラームスもこの年にウィーンで交響曲第1番ハ短調を演奏し、12月には交響曲第2番ニ長調を初演していますので、マーラーがブラームスを聴いた可能性があります。マーラーは音楽院を卒業すると、スロベニアのライバッハの歌劇場やオルミュッツの歌劇場やカッセル、プラハの歌劇場の監督や楽長となり、主にオペラの指揮者として活躍します。引き続き1886年にはライプツッヒの市立劇場の次席楽長就任では、ワーグナーの歌劇「ローエングリン」でデビューし、1888年のブダペストのハンガリー王立劇場ではワーグナーの楽劇「ラインの黄金」「ワルキューレ」を指揮、1891年のハンブルク市立劇場首席楽長就任ではやはりワーグナーの歌劇「タンホイザー」でデビュー公演を行っており、この時期には歌曲の作曲を始めており、ワーグナー音楽の影響を強く受けていたものと見られます。マーラーは指揮者活動のかたわらで作曲活動を行っており、交響曲については書き溜めた歌曲をもとに夏の休暇を利用して創作を行っていたようです。マーラーは1897年に37歳でウィーン宮廷歌劇場の楽長、監督となりますが、これに先立ちユダヤ教からカトリックに改宗しています。マーラーには宗派のこだわりがなかったようで、交響曲第8番「千人の交響曲」第1部でラテン語の頌歌を扱うもののその他に宗教曲は残しておらず、マーラーのカトリックへの改宗はウィーン宮廷歌劇場監督就任が目的であったとされます。ウィーン宮廷歌劇場では、当時からレパートリーシステムで上演が行われており、毎週3つのオペラを毎日演目を変えて上演を行っており、マーラーはウィーン・フィルハーモニーの指揮も行っていたところから超ハードなスケジュールをこなしています。また、オペラの公演の間を縫って演奏旅行も行っていたところから、歌劇場からは怠慢であるとのクレームを受け、1907年マーラーはウィーンの歌劇場をワインガルトナーに譲り、自らはアメリカ・ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の監督に就任します。翌年にはメトロポリタン歌劇場の監督を辞任し、ニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者に就任しています。マーラーは初めて自分のオーケストラを持ったわけで、アメリカでも東海岸を中心に公演を行うなど過密日程をこなし、とうとう過労からか敗血症により体調を崩すものの、自らの希望でウィーンむけニューヨークを後にします。パリで治療を受け瀕死の容体でウィーンにかえりつくものの回復することはなったようです。マーラーは亡くなるまで指揮者活動を継続しており、その多忙な演奏活動の中で後期ロマン派としての偉大な10曲の交響曲を残しています。

【音楽史年表より】
1889年11/20初演、マーラー(29)、交響曲第1番ニ長調「巨人」
ブダペストでマーラーの指揮、ブダペスト・フィルハーモニー交響楽団により初演される。作曲は1884年~88年に行われる。マーラーはドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルの同名の「巨人」という詩にもとづいてこの名を与えた。(4)
初演では2部の交響楽形式による音詩として演奏される。
【第1部】「青春の日々より」、第1楽章「終わりなき春」、第2楽章「花の章」、第3楽章「帆をいっぱいに張って」
【第2部】「人間喜劇」、第4楽章「カロ風の葬送行進曲」、第5楽章「地獄から」。96年3/16のベルリンでの演奏からは第2楽章「花の章」が削除された。(2)
1895年12/13初演、マーラー(35)、ソプラノ、アルト独唱、合唱を伴う、交響曲第2番ハ短調「復活」
全5楽章が、ベルリンでマーラー自身の指揮で初演され成功を収める。(2)
マーラーはハンス・フォン・ビューローの絶大な支持により、1891年から6年間ハンブルク市立劇場首席楽長としての職に就いたが、1894年3/29ビューローの葬儀が行われたハンブルク・ミヒャエル教会でクロプシュトックの「復活」の合唱を聞き動かされる。「私は電光のようにこれに打たれ、私の心の中のすべてが落ち着きはっきりしてきた・・・」、マーラーは第2交響曲の第5楽章にクロプシュトックの歌詞を使い完成させる。クロプシュトックはハンブルクで死去したドイツの詩人で、ドイツ文学における古典主義の創設者ともいわれる。(4)
1911年5/18、マーラー(50)、午後11時5分死去する。(2)
1911年5/18作曲、マーラー(50)、交響曲第10番嬰ヘ長調(未完)
マーラーは交響曲第9番を完成して間もなく、交響曲第10番の作曲をはじめる。しかし、翌年5/18死去し、交響曲は未完に終わる。その第1楽章と第3楽章はマーラーの娘婿の作曲家クシュネック、作曲家のベルク、指揮者のシェルクの協力によって補筆され、1924年10/14ウィーンでシャルク指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演される。(2)

【参考文献】
1. ヴォルフガング・シュライバー著、岩下真好訳、大作曲家マーラー(音楽之友社)
2. 村井翔著、作曲家・人と作品シリーズ マーラー(音楽之友社)
3. ブルックナー・マーラー事典(東京書籍)
4. 最新名曲解説全集(音楽之友社)

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