音楽史・記事編167.古典派交響曲の初演地
本編では前期古典派からウィーン古典派の時代の交響曲の発展普及期における主要な交響曲の初演地について、カトリック地域、プロテスタント地域という観点から見て行きます。

〇イタリアのシンフォニーと前期古典派におけるソナタ形式の進化
イタリアではオペラの序曲としてのシンフォニアは急緩急で書かれており、またすでに創作が始まっていた協奏曲(コンチェルト)は急緩急の楽章構成で作曲されています。1730年頃、ミラノのサンマルティーニはオペラのシンフォニアを単独で劇場で演奏するようになり、このシンフォニーは瞬く間に人気を得てヨーロッパ各地に広がったようです。サンマルティーニのシンフォニーには2つの主題と展開が見られ、また多くの第3楽章はゆっくりとしたメヌエットのテンポで構成され(ニューグローヴ世界音楽大事典・サンマルティーニより)、すでに古典派交響曲の様式が見られます。人気を得たシンフォニーは前期古典派の作曲家によって爆発的に作曲され演奏されたと見られますが、これらの多くのシンフォニーがどのような様式で作曲されたのか、また古典派期の中心的様式となるソナタ形式がどのように成熟発展していったかについては謎に包まれています。筆者は仮説としてベルリンのエマヌエル・バッハによってソナタ形式が理論化されたのではないかと考えています。大バッハの3男のエマヌエル・バッハは1714年にワイマールで生まれ、父のセバスティアンバッハから直々に音楽を学び1740年にはベルリン宮廷のチェンバロ奏者となっています。ちょうどこの時期にベルリンの宮廷楽師長ゴッドリープ・グラウンはイタリアへ渡っています。おそらくグラウンによってサンマルティーニのシンフォニー様式が伝えられ、グラウンはベルリンで100曲のシンフォニーを作曲することとなります(最新音楽解説全集・門馬直美・交響曲の歴史)。エマヌエル・バッハは父の大バッハから対位法、平均律、主題展開彫琢技法を引き継いでおり、さらに宮廷楽師長グラウンからサンマルティーニの様式を学び、ソナタ形式の第1主題、第2主題による提示部、主題の展開部に続き再現部を置いたものと見られます。提示部の2つの主題が異なった調性で現れ、再現部では2つの主題は同じ調性で現れます。活発な第1主題とおだやかな第2主題は異なった調性で対比しますが、再現部では2つの主題の調性は同一となって現れ、対比から調和へという様式をとり、提示部、展開部、再現部、終結部という起承転結のソナタ形式として理論化されます。エマヌエル・バッハはクラヴィーア・ソナタでソナタ形式による作曲を行っています。このソナタ形式はマンハイム楽派のシュターミツによってシンフォニーに取り入れられ、マンハイムからウィーンへ、またパリへ、そしてイタリアへと、ソナタ形式による新しいシンフォニー様式が広がって行ったものと見られます。
このようにバロック期のイタリアで生まれたシンフォニーは、前期古典派期にプロテスタントのドイツでソナタ形式という様式に進化し、そして古典派期初期にはカトリックのオーストリア、フランスへ、そして再びイタリアヘ広がって行ったと考えられます。
〇ウィーン初演の交響曲
1725年ウィーンの皇帝カール6世の宮廷楽長フックスは対位法理論書を出版し、この対位法教程はカトリック圏を中心に広く対位法の教科書として用いられて行きます。ウィーンでは1740年頃にはモンがメヌエット楽章を含む4楽章のシンフォニーを作曲したのではないかと言われ、またドルドニエスは第1楽章に序奏を置いたと言われています。そしてウィーン生まれのデュッタースドルフは150曲ものシンフォニーを作曲し、ボヘミアの作曲家ヴァンハルもウィーンで少なくとも73曲のシンフォニーを作曲したと言われています。その他、ヴァーゲンザイルなども多くのシンフォニーを作曲しており、ウィーンではハイドンが誕生する以前から多くの作曲家によってシンフォニーが作曲さていたことが窺えます。交響曲の父ヨーゼフ・ハイドンはボヘミアのモルツィン伯爵の宮廷楽長となり、次いでオーストリーとハンガリーにまたがる広大な領地を持つエステルハージ侯爵家の楽長となりますが、初期の交響曲創作においては様々な様式の交響曲を試しており、やがて第1楽章にソナタ形式を持ち、緩徐楽章の第2楽章、第3楽章にはトリオを持つメヌエット、プレストやアレグロの第4楽章で構成される交響曲として様式を統一して行きます。ハイドンの多くの交響曲はエステルハージ侯爵家の宮殿のあったアイゼンシュタット、ウィーン、夏の離宮のあったエステルハーザのどの宮殿で初演されたかは分かりませんが、おそらく多くはエステルハーザ宮で初演されたものと見られます。特にハイドンが楽長として仕えたニコラウス公は1760年にハンガリーのエステルハーザ宮を造営しており、エステルハーザ宮には劇場が併設されており、おそらくここの劇場が交響曲の初演の場であったと見られます。
【ハイドンの交響曲の創作】
① モルツィン伯爵家・楽長時代(1757-1760)
交響曲第1番ニ長調など18曲を作曲し、さまざまな様式を試みる。
② パウル・アントン・エステルハージ侯爵家・副楽長時代(1761-1766)
「朝」「昼」「晩」の3曲セットの交響曲、第72番ニ長調、第31番ニ長調「ホルン信号」など21曲の交響曲を作曲
③ ニコラウス・エステルハージ侯爵家・楽長時代(1766-1790)
第38番ハ長調「エコー」、第45番嬰へ短調「告別」、第59番イ長調「火事」、第53番ニ長調「帝国」などの疾風怒涛時代の42曲の交響曲を作曲
④ フランスのための交響曲作曲(1785-1789)
オランピック演奏会、トスト、ドニィ伯爵のための第82番ハ長調「熊」、第88番ト長調「V字」など11曲の交響曲を作曲
⑤ ザロモン演奏会のための交響曲作曲(1790-1795)
2度にわたりイギリス・ロンドンに渡り、第96番ニ長調「奇跡」、第94番ト長調「驚愕」、第104番ニ長調「ロンドン」など12曲の交響曲を初演する。
ザルツブルクで生まれたモーツァルトは初期のころは3楽章のイタリア様式の交響曲を書いていましたが、おそらくヨーゼフ・ハイドンの影響によりメヌエット付きの4楽章の交響曲を書くようになります。ウィーンからザルツブルクへ戻ったモーツァルトは秀作の交響曲第25番ト短調、第29番イ長調を作曲しています。ウィーンに定住したモーツァルトはセバスティアン・バッハの音楽に影響を受け、その様式を大きく変えています。バッハの新たな対位法の影響により、モーツァルトの音楽はポリフォニーに新たな息吹が吹き込まれるように、声楽の分野で、器楽の分野で、各声部は対等に扱われ、プラハで初演された交響曲では対位法とポリフォニーで新たな境地を切り開き、後期3大交響曲では新しいさまざまな手法を取り入れます。交響曲第39番変ホ長調では木管楽器のオーボエパートに替えてクラリネットを使用し、交響曲第40番ト短調終楽章展開部では調性の破壊を試み、最後の交響曲第41番ハ長調「ジュピター」第4楽章ではソナタ形式とフーガを融合した壮大な音楽を創造しています。
ハイドン、モーツァルトの音楽を学んだベートーヴェンはウィーンで9曲の交響曲を初演し、以降のロマン派の作曲家に大きな影響を与えて行くことになります。ベートーヴェンはルネサンス以来の西洋音楽の基本であった純正な和声による音楽から脱却し、多少の和音のうなりをものともせず平均律を基本とする多様な和声により、ドラマチックな音楽を創作します。特にピアノ音楽においては、従来から一般的に行われてきた純正律から派生した中全音律では転調移調に制限がありましたが、平均律への移行により転調における調性の制限は全くなくなり、自由で大胆な音楽創造が可能となります。ベートーヴェンは交響曲においても平均律を前提とした、転調に制限を受けない多様な和声による独創的で劇的な音楽を創造して行き、後のロマン派作曲家に多大な影響を与えます。
〇プラハ初演の交響曲
ウィーンに定住したモーツァルトは、プロイセンのベルリンなどで外交官の地位にあり、ウィーンに戻り宮廷図書館の館長となったヴァン・スヴィーテン男爵が毎週日曜日に開催していたサロンでセバスティアン・バッハやヘンデルなどのバロックの巨匠の音楽を聴き大きな影響を受けています。特にバッハの対位法やフーガなどのポリフォニー音楽には強くひかれたようで、以降のモーツァルトの室内楽や交響曲、歌劇などのその影響が表れています。モーツァルトはプラハでの歌劇「フィガロの結婚」上演に招かれプラハを訪問しますが、プラハの人々への手土産のように交響曲を作曲し、プラハで初演しています。このプラハ交響曲ニ長調はバッハの音楽の影響を強く受けた画期的な交響曲となっています。モーツァルトはバロック時代から始まった旋律と伴奏という様式からポリフォニーに回帰するように各声部に対等な役割を与えます。歌劇では主役から脇役まで対等に扱われ、弦楽四重奏では2つのバイオリン、ビオラ、チェロが対等に扱われ、交響曲では弦楽と木管が対等に扱われます。プラハ交響曲では弦楽が沈黙し、木管楽器が主旋律を担うことがたびたび見られ、また、展開部の対位法的作曲手法ではこれまでのどの交響曲にも見られなかった見事な声部の輻輳が行われ、音楽史における偉大な足跡となっています。
〇ロンドン初演の交響曲
ロンドンにおいても、ヨーロッパの各地でシンフォニーが上演され始めた1740年頃にボイスによってシンフォニアが演奏されたとされています。当時ロンドンでは初期の産業革命が始まっており中産階級向けの音楽会が開催されるなど音楽の一大消費地となっていました。1762年にはセバスティアン・バッハの末の息子のクリスティアン・バッハがロンドンに移住しています。クリスティアン・バッハはドイツからイタリアのミラノに移り、後のモーツァルトの師ともなるマルティーニ師に師事します。ロンドンに移ったクリスティアン・バッハはイタリア様式の華麗なシンフォニアを60曲作曲したと言われ、1764年にロンドンを訪れた幼いモーツァルトと交流し、モーツァルトはクリスティアン・バッハのイタリア様式のシンフォニアを学び、交響曲第1番変ホ長調を初演しています。クリスティアン・バッハはマンハイムやパリをたびたび訪問し、マンハイムの音楽様式も取り入れたようで、同じドイツ人のアーベルと共にロンドンで定期的な音楽会を開催するようになります。
1791年3月、ロンドンのハノーヴァー・スクェア―のコンサートホールで当時ヨーロッパでもっとも人気の作曲家であったヨーゼフ・ハイドンのザロモン・コンサートが開幕します。ロンドンで最初に演奏された交響曲は第96番ニ長調「奇跡」で、一躍人気を得て繰り返し演奏されることになります。その後、ハイドンは2回のロンドン訪問で円熟期の12曲のザロモン交響曲を初演して行きます。なお、興行主のペーター・ザロモンはもとはドイツのボンの宮廷バイオリン奏者であり、同じ楽団ででビオラを演奏していた若きベートーヴェンと交流を持ったとされます。
〇パリ初演の交響曲
ロンドンと並ぶ大都会であったフランスのパリでも公開演奏会が行われています。フランス革命前の聴衆は主に貴族と見られ、1778年にはパリを訪れたモーツァルトはチュイルリー宮殿のスイス衛兵の間で行われていたコンセール・スピリチュエルの演奏会で交響曲第31番ニ長調「パリ」を初演しています。この時期、パリではゴセックが活躍しており、パリに近いマンハイムでシンフォニー様式を学んだゴセックは50曲のシンフォニーを作曲したと言われ、これらはコンセール・スピリチュエルのコンサートで演奏されていたようです。パリを訪れたモーツァルトはゴセックとも交流を持っています。
また、ハイドンの交響曲もパリでは人気があり、ハイドンの交響曲が最も早く出版されたのはパリであったとされます。モーツァルトが1764年にパリを訪問した時にはすでにハイドンの交響曲が出版されており、モーツァルトはパリの同じ出版社からパリ・ソナタを出版しているので、ハイドンの交響曲第13番ニ長調の楽譜を見た可能性があるとされます。ハイドンの交響曲第13番にはモーツァルトがロンドンで作曲した交響曲第1番に登場し、生涯の最後のジュピター交響曲に至るまでたびたび現れるドレファミのジュピターの主題が使われているからです。ジュピターの主題はグレゴリオ聖歌に現れる主題で当時の作曲家にも使われていた主題のようで、特にフランスでは音楽の主題にグレゴリオ聖歌を使うことが定例化されていたとされます。
1784年、ハイドンはパリの興行団体のロージュ・オランピックから6曲の交響曲作曲の依頼を受けます。1785年、86年に作曲されたこれらの6曲のパリ交響曲は総譜としてパリに送られ、オランピック演奏会で初演されます。この演奏会にはオーストリーからフランス国王ルイ16世に嫁いだ大公女マリア・アントーニア(マリー・アントワネット)も臨席したとされ、グルックが王妃のためにオペラを作曲したようにハイドンは交響曲を作曲しています。さらに、フランスからはもとエステルハージ侯爵家の第2バイオリン奏者であったトストから2曲の交響曲が、ドニィ伯爵からは3曲の交響曲作曲の依頼があり、ハイドンは都合11曲の交響曲をフランスからの依頼で作曲しています。しかし、交響曲第92番ト長調はフランス革命の混乱の中、パリで初演されたかどうかは分からず、ハイドンはロンドンの訪問した際に、オックスフォード大学から名誉博士号授与の記念演奏会でこの曲を演奏し、このため「オックスフォード」という愛称がついています。ハイドンはオックスフォード交響曲で既にザロモン交響曲の円熟にまで達していると言われます。
以上のように、イタリアでオペラの序曲として生まれたシンフォニーは、プロテスタントのベルリンのエマヌエル・バッハに伝えられ、ソナタ形式としての理論化が行なわれ、ソナタ形式はマンハイム楽派によって交響曲に取り入れられ、ソナタ形式による交響曲はさらにカトリックのオーストリア、フランス、イタリアに伝わり、ヨーゼフ・ハイドンによって4楽章の交響曲様式に成熟したものと見られ、音楽史におけるもっとも偉大なベートーヴェンの9つの交響曲を生み出します。
【音楽史年表より】
1763年8月~12月作曲、ハイドン(31)、交響曲第13番ニ長調Hob.Ⅰ-13
第4楽章にモーツァルトのジュピターの主題「ドレファミ」が現れ、対位法的展開が行われる。緩徐楽章ではチェロの独奏。ドレファミの主題はグレゴリオ聖歌に現れるもので、当時グレゴリオ聖歌の主題の使用は一般的に行われていた。(1)
1764年末作曲、モーツァルト(8)、交響曲第1番変ホ長調K.16
イギリスを訪れたモーツァルトは当時ロンドンで活躍していた共にドイツ人のカール・フリードリヒ・アーベルと大バッハの末子ヨハン・クリスティアン・バッハの影響を受けさっそくこのロンドンで、クリスティアン・バッハの交響曲を手本に初めて交響曲の作曲を試みるという、彼の創作活動において重要な成果をもたらした。(2)
緩徐楽章にはモーツァルトが最後のジュピター交響曲のフィナーレで用いたドレファミの動機がホルンで強調されて使われている。しかも、ハイドンは前年1763年に、同じ動機を用いた軽妙なフィナーレを持つ交響曲第13番を作曲している。この当時ハイドンの作品はパリではとくに人気があって、早くて1764年の1月か3月にはラ・シュヴァディエール社とヴニエ社からはじめて彼の曲のいくつかが出版されているから、少年モーツァルトが1764年にパリに滞在したときにこの交響曲の楽譜を見たと推定しても、まったく理にかなわぬというほどではない。しかも、1764年1月にはモーツァルトの曲のいくつかがハイドンとおなじところで印刷されている。2人の巨匠が交わるもう一つの点は、ハイドンの弟ミヒャエルである。ミヒャエルはこれより少し前の1762年、ザルツブルク宮廷楽団の指揮者に任ぜられており、この地位にあって兄の曲をかなりこの地方の音楽界に親しみあるものにしたであろうことは明らかである。(3)
1789年作曲、ハイドン(57)、交響曲第92番ト長調「オックスフォード」Hob.Ⅰ-92
フランスのドニィ伯爵からの依頼を受けて書かれた交響曲の第3曲で、ハイドンの心技ともにきわめて円熟していて、すぐれた内容を示し、当時の代表的な作品としてザロモン交響曲に劣らぬ価値を持っている。対位法的手法を使った緻密な書きかたとオーケストラの響きの豊かさは、交響曲の可能性をおしひろげて、ベートーヴェンに至るまでの道をほのめかせている点で歴史的価値もきわめて大きい。この曲の愛称「オックスフォード」の由来については次のような話が残っている。のちにハイドンがザロモンに招かれてイギリス・ロンドンで音楽会を催し、大成功を収めたが、その成功にオックスフォード大学はハイドンの崇拝者であるC・バーニー博士の推薦により名誉音楽博士の称号を贈った。この好意に対して謝意を表するためハイドンはただちにオックスフォードに赴き、1791年7月6日から8日までの3日間にわたり3回の演奏会を開催した。最終日の8日にはハイドンは公式の学位授与式の席において、ガウンを着用し、みずから指揮してこのト長調交響曲を演奏した。この曲は謝礼のために新たに作曲されたものではなく、旧作をもってこれに代えたものであり、「オックスフォード」の名称もこの大学での記念的演奏ののちに冠せられて一般的呼称となった。(4)
【参考文献】
1. 中野博詞著、ハイドン交響曲(春秋社)
2. 作曲家別名曲解説ライブラリー、モーツァルト(音楽之友社)
3. ラング編、国安洋・吉田泰輔共訳、モーツァルトの創作の世界、E・F・シュミット、モーツァルトとハイドン(音楽之友社)
4. 作曲家別名曲解説ライブラリー、ハイドン(音楽之友社)
SEAラボラトリ
