音楽史・記事編162.ブルックナーの交響曲創作史・・・純正律交響曲
一般に、前期ロマン派の作曲家に対して大規模な交響曲を作曲したブルックナー、マーラーは後期ロマン派に属すると思われていますが、ブルックナー、チャイコフスキー、ドボルザークは同時期に活躍した作曲家であり、ブルックナー以降のチャイコフスキー、ドボルザークも後期ロマン派に分類している文献もあるなどロマン派の時代区分は多様です。本編では最もロマン派の多様な交響曲が作曲されたブルックナーと同時期について中期ロマン派と区分し、ブルックナーの交響曲創作史を見て行きます。

〇フランス、イギリスへのオルガン演奏旅行
ブルックナーはゼヒターやキツラーなどの指導により作曲家としての歩みを始めたものの、ハンスリックなどの辛辣な批評家が活動するウィーンではなかなか認められない時期が続き、リンツで長くオルガン奏者を務め、ウィーンに移った1868年にはウィーン宮廷礼拝堂のオルガン補助奏者となり、またウィーン音楽院の教授にも就任しています。翌年にはフランスのナンシーの聖エプヴル教会で新たに設置されたオルガンの弾き初めを行い、ここで演奏したバッハと即興演奏は大好況を得て、オルガニストとして国際的な第1歩を踏み出し、ナンシーの演奏が好評を得たことから、さらにパリに招かれます。パリでは前年に設置されたばかりのノートルダム大聖堂の5段鍵盤、足鍵盤、86のストップを持つ巨大なオルガンを演奏しています。ノートルダム大聖堂でのオルガン演奏会ではセザール・フランク、サン=サーンス、オーベール、グノーなどパリの音楽界をリードする作曲家たちが集まり、ブルックナーの即興演奏はのちのちまでの語り草になったと伝えられます。1871年にはロンドン万国博覧会開催の前年のイヴェントに、ヨーロッパ各国からのオルガン奏者の競演のためのオーストリア代表として招待され、ロイヤル・アルバート・ホールに新たに設置されたオルガン竣工記念の演奏を行っています。このオルガンは4段鍵盤と足鍵盤、110のストップを持つ巨大なオルガンであったとされます。さらに巨大なイヴェント施設である水晶宮(クリスタル・パレス)でも大オルガンを演奏し、ゴッド・セイヴ・ザ・キングなどのイギリスのメロディーによる即興演奏では7万人もの聴衆の熱狂は最高潮に達したといわれています。(1)


〇改訂を重ねるブルックナーの交響曲
ブルックナーは音楽史においては古典派のモーツァルト、ボン時代のベートーヴェン、ロマン派のベルギー出身でフランスで活躍したセザール・フランク、フランスのサン=サーンスに続くオルガン奏者であり、オルガン音楽作曲家としてはドイツのメンデルスゾーン、リストがあげられ、特にブルックナーは純正律音律に深く関わった作曲家です。このように、ブルックナーは純正なオルガンの響きをオーケストラの重厚な響きに代替するように、壮大な交響曲として作曲していったように思われます。しかも、ブルックナーはそれぞれの交響曲の完璧性を求め、改訂を繰り返しています。若干の手直しを行った交響曲第6番イ長調と唯一改訂を行わなかった交響曲第7番ホ長調以外の交響曲はいくつもの改訂稿を残しており、しかも、各地の演奏会では指揮者の意向によって部分的な切り取りなどが行われたようで、多種多様な楽譜が残されることになります。
ブルックナーの死後、ウィーンに国際ブルックナー協会が設立され、ブルックナー協会では残されたブルックナーの補筆、改訂、校閲などによる多種多様な版の楽譜から、できるだけブルックナーの意志に沿った権威ある楽譜を作成しようと、音楽学者のロベルト・ハースは同じく音楽学者のアルフレート・オーレルの協力の元、全集を刊行します。これがハース版と呼ばれるもので、戦後さらにハースの弟子のレ―オポルト・ノヴァークはハースの仕事を引き継ぎ、こうしてノヴァーク版と呼ばれる全集が発刊されます。ハースとノヴァークの姿勢を推論すると、ハースは精神面でブルックナーに接近しようとしており、ノヴァークはもっと客観的で、科学的で音楽的であるとされているようです。(1)
ブルックナーの交響曲の創作に戻りますが、ブルックナーは自作のミサ・ソレムニスとオルガン即興演奏が認められ、1855年聖フローリアンと別れ、ウィーンの宮廷オルガン奏者ジーモン・ゼヒターのもとに弟子入りし、ゼヒターが著した「作曲の基本」を学び、さらにリンツ大聖堂のオルガン奏者に任命されるとオットー・キツラーもとで音楽形式論と管弦楽法を学び、1863年にはキツラーとともにワーグナーの歌劇「タンホイザー」の総譜を研究し、そのワーグナーの歌劇のリンツ初演はブルックナーに大きな衝撃を与え、交響曲作曲の方向を決定づけたとされています。さらに、1866年にミュンヘンで初演されたワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を聴いたブルックナーはますますワーグナーに傾倒して行ったようです。1872年に交響曲第3番ニ短調の第1稿を完成させワーグナーに献呈しています。しかし、ブルックナーの交響曲のウィーンでの演奏はなかなかかなわず、交響曲第3番ニ短調ではウィーン・フィルハーモニーから演奏を拒否されるという屈辱を受け、1877年改訂稿においてようやくウィーン・フィルハーモニーによって初演されるものの、ブルックナーの未熟な指揮やそもそも田舎者のオルガン奏者が交響曲を書けるのか、さらに反ワーグナー派のハンスリックの過激な批評が影響したのか、1楽章ごとに演奏が終わると聴衆が減っていくという無残な結果に終わっています。ウィーン宮廷オルガン奏者、ウィーン音楽大学教授として地道な活動を続けていたブルックナーですが、1881年2月に交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(第3稿)がウィーン・フィルハーモニーによって初演され、ようやく成功を収め、ウィーンでブルックナーの交響曲に評価が得られます。このときブルックナーは60歳になっていました。1884年12月にはライプツィヒで交響曲第7番ホ長調がニキッシュの指揮で初演され、大成功を収め、翌年にはミュンヘンにおいても成功を収め、ブルックナーは人生の晩年においてようやく国際的に知られる不動の大作曲家となっています。ブルックナーの交響曲は巨大なパイプオルガンが大聖堂を響かせるように、ルネサンス以来の西洋音楽の伝統の主和音を中心とした純正和声を大オーケストラによって、特に金管楽器による重厚な和声を純正に響かせています。ブラームスが音楽様式や音楽形式で古典派に回帰している一方、ブルックナーは和声や音律で古典派以前に回帰したように思われます。
(参考:7.純正律に回帰したブルックナー)
〇ブルックナー、ワーグナーを崇拝し、たびたびバイロイトを訪問する
ブルックナーは1861年5月にウィーン・宮廷歌劇場で上演されたワーグナーの歌劇「ローエングリン」と歌劇「さまよえるオランダ人」を見て大きく感動したとされ、特に「ローエングリン」の公演はウィーンの聴衆から熱狂的な喝采を受け、ワーグナーは桟敷席から謝辞を述べたとされます(4)。さらに、ブルックナーは1863年リンツで師のキツラーが指揮したワーグナーの歌劇「タンホイザー」に大きな感銘を受け、さらに1866年にはミュンヘンで楽劇「トリスタンとイゾルデ」を聴いてからはワーグナー音楽にのめりこみ、1873年にはバイロイトのワーグナーを訪問し交響曲第3番ニ短調(第1稿)を献呈し、1876年にはバイロイトでワーグナーの大作の楽劇「ニーベルングの指輪」全4夜の初演を聴いています。以降、ブルックナーはバイロイトで夏のシーズンに行われたワーグナーの歌劇、楽劇公演に毎年のように足を運び、舞台神聖祝典劇「パルジファル」を4回、歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」はミュンヘン公演を加えて2回、楽劇「トリスタンとイゾルデ」を3回、歌劇「タンホイザー」はリンツ公演を含めて2回観劇し、ワーグナーが亡くなってから10年後には墓参のためにバイロイトを訪問しています。信心深いカトリックのブルックナーでしたが、カトリック圏のイタリアやフランスのオペラなどには関心を示さず、もっぱらドイツ・プロテスタントの歌劇、楽劇、重厚なオーケストラ音楽に魅せられ、いちずに壮大な交響曲の作曲に取り組んだ作曲家であったように思われます。
〇ウィーンのブルックナー・・・新ドイツ主義と反ワーグナー派
1881年12月、ブルックナーは交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」第3稿をウィーンで成功させ、1884年12月にはライプツィヒで交響曲第7番ホ長調を大成功させ、国際的な作曲家として認められるようになり、1886年皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からフランツ・ヨーゼフ騎士十字勲章を授与され、あわせて300グルデンの年金の支給が通知されます。おそらく皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリーから国際的に認められた作曲家ブルックナーが現れたことを喜び、勲章を授与したものと思われます。このとき、ブラームスは既に4曲の交響曲を初演しており、ウィーンでは巨匠として君臨しており、ブルックナーについては年上ではあるものの田舎者のオルガニストとして見下し、ほとんど無礼ともいえる態度を取っていたとブルックナーは回想しています。そして、1889年皇帝フランツ・ヨーゼフ1世はハンブルク生まれのドイツ・プロテスタントのブラームスに対しても栄誉あるレオポルト勲章を授与しています。ブラームスがレオポルト勲章を授与された年の秋には、ブルックナーは友人たちのアレンジによって、ウィーンのレストランでブラームスと夕食を共にする機会を持ちます。伝統的なウィーン料理を大いに楽しんだものの、2人は話題を音楽には決して向けなかったと言われています。背景には批評家ハンスリック率いる反ワーグナー派とワーグナー派とみなされていたブルックナーとの軋轢があり、翌年の1890年にウィーンを訪問した北欧のシベリウスがブルックナーの交響曲第3番ニ短調(第3稿)の演奏を聴き、「ブルックナーこそが最高の作曲家である」と、ブルックナー擁護の言葉を吐いたため、反ワーグナー派と乱闘騒ぎが起き、シベリウスは足にけがをするという事件が起こったとされます(5)。結局のところ、ブルックナーとブラームスが心から和解し、認め合うことはなく、当時ウィーンで人気のあったヨハン・シュトラウスのみが共通の友人であったようです。ヨハン・シュトラウスはブルックナーの交響曲第7番ホ長調のウィーン初演の後、ブルックナーに次のような電報打ったとされます・・・「私はたいへん感動した。それはわが生涯で最も強い印象を受けたもののひとつだった。」
【音楽史年表より】
1880年6/5、第3稿完成、ブルックナー(55)、交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(第3稿、1878/80年稿)WAB104
フィナーレの再度の改訂(第3稿)を完成する。(3)
ブルックナーは前年より進めていたフィナーレを完成させる。1878年の第1楽章と第2楽章の改訂、第3楽章の改作に加えて1880年の第4楽章の改作を合わせたものが、今日一般的に知られる1878/80年稿である。(2)
1881年2/21初演、ブルックナー(56)、交響曲第4番変ホ長調「ロマンティック」(第3稿、1878/80年稿)WAB104
ハンス・リヒター指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演され、大成功を収める。(3)
初演には1878/80年稿が使われたものと思われる。(2)
1884年12/30初演、ブルックナー(60)、交響曲第7番ホ長調WAB107
ライプツィヒ歌劇場でアルトゥール・ニキシュの指揮で初演される。初演に立ち会ったブルックナーは熱狂的な賞賛を受ける。(3)
ブルックナーの手紙によれば、演奏終了後15分間拍手が続く大成功を収めた。ブルックナーの交響曲がオーストリア以外の場所で初演されたのはこれが初めてであり、このことはブルックナーが国際的に交響曲作曲家として評価される出発点となり、ウィーンでの評価を改めるきっかけともなった。1884年12/30はブルックナーの世界的名声の誕生日となったのである。(2)
1890年3/10、第2稿完成、ブルックナー(65)、交響曲第8番ハ短調(第2稿)WAB108
第2稿を完成する。ブルックナーは完成後直ちに、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にこの曲の献呈を願い出る。(3)
3月ブルックナーはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に「深甚の畏敬をもって」献呈し、皇帝は出版譜の印刷製作費を負担した。(2)
1892年12/18初演、ブルックナー(67)、交響曲第8番ハ短調(第2稿)WAB108
ハンス・リヒターの指揮、ウィーン・フィルハーモニーによって初演される。(3)
1894年11/30、第3楽章を完成、ブルックナー(70)、交響曲第9番ニ短調WAB109
アダージョを最終的に完成し、この曲の最初の第3楽章が完成する。(3)
1903年2/11初演、ブルックナー(没後)、交響曲第9番ニ短調WAB109
ウィーン楽友協会大ホールでフェルディナンド・レーヴェの指揮、ウィーン・コンサート協会管弦楽団(後のウィーン交響楽団)によって初演される。完成された3つの楽章だけで7年もの歳月がかかっており、その理由として、旧作の改訂、出版譜の校閲、いくつかの新作の作曲などがあげられ、この時期には第4番、第8番、第3番、第1番の交響曲の最終稿が成立している。絶筆となったフィナーレにはかなりの量のスケッチが残されているが、ブルックナーはフィナーレが未完に終わった場合には、「テ・デウム」をその代用とすることを言い残している。「テ・デウム」で代用されることによって、ベートーヴェンの第9交響曲と同様、合唱によって締めく括られることになった。(2)
【参考文献】
1.門真直美著、ブルックナー(春秋社)
2.作曲家別・名曲解説ライブラリー・ブルックナー(音楽之友社)
3.ブルックナー・マーラー事典(東京書籍)
4.ワーグナー事典(東京書籍)
5.作曲家別名曲解説ライブラリー・北欧の巨匠(シベリウス)(音楽之友社)
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