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音楽史・記事編176.ヘンデルのオペラ・オラトリオ創作史

 バロック期の巨匠フリードリヒ・ヘンデルはドイツのハレに生まれ、1703年18歳で当時オペラ公演が行なわれていた自由都市ハンブルクに移ります。ヘンデルはハンブルクで初めてのオペラを上演し、イタリアへ渡り多くの様式を学び、ドイツのハノーファー宮廷の楽長となってから以降はイギリス国王となったハノーファー選帝侯の意向によりイギリスのロンドンに渡りイタリアオペラやオラトリオを上演し、バロック期のテレマン、セバスティアン・バッハと並ぶ巨匠にのぼりつめます。ヘンデルの壮大な生涯を短編で語ることは困難であり、本編ではヘンデルのオペラ、オラトリオの創作史の背景を中心に概要を見て行きます。

〇ハンブルクのヘンデル
 ハンブルクは、地中海貿易で富をなした共和都市ベネツィアと同様に、北海周辺で貿易を行うハンザ同盟の中心都市であり、貿易によって潤った財力をもとに1678年にゲンゼマルクト(鵞鳥市場)歌劇場が貿易商などによって開場し、宮廷のない自由都市ハンブルクではオペラは市民の代表である参事会などによって上演されており、イタリアオペラやテレマンなどによるドイツ語ジングシュピールが上演されていたようです。ハレの大学に入学したヘンデルは、自身はルター派でありながらカルヴァン派の大聖堂のオルガン奏者に任命されます。そのころからヘンデルはオペラに興味を持ち、当時オペラ劇場のあったブランデンブルクの首都ベルリンを訪問した後、1年間のハレの大聖堂のオルガン奏者の任期が切れると、ハレ大学を辞め、ハンブルクへ移っています。この頃、ライプツィヒ大学で学んでいたテレマンと親交を持ったヘンデルはテレマンの影響を受け、ハンブルクへ向かったとも見られます。1703年ハンブルクに移ったヘンデルは第2バイオリン奏者としてハンブルク・オペラに加わり翌年にはチェンバロ奏者となります。1704年、経営危機に陥ったハンブルク・オペラの作曲家カイザーの代役としてヘンデルは歌劇「アルミーラ」を作曲し、これがヘンデルの最初のオペラとなりました。このオペラはイタリア語とドイツ語が混在した台本であったとされ初演後20回も上演される成功を収めたとされます。1706年、ヘンデルはハンブルクを訪れたイタリアのトスカーナ大公子であるメディチ家のフェルディナンドから音楽の修行のためイタリア来るよう勧誘を受け、フェルディナンドからは旅費負担の申し出があったにもかかわらず、自主独立精神の旺盛であったヘンデルは自費でイタリアへ行くことを決意します。

〇イタリアのヘンデル
 イタリアへ渡ったヘンデルはフィレンツェのメディチ家の宮殿やローマのルスポリ邸などに約3年間滞在し、およそ100曲にのぼる世俗カンタータと2つのオラトリオなどを作曲します。これらの創作はそののちのヘンデルのオペラやカンタータの源となりました。1707年にはフィレンツェのメディチ家大公子フェルディナンドから歌劇作曲の依頼を受け、フィレンツェのココメロ劇場でイタリア語によるオペラ「ロドリーゴ」を上演します。1708年にはナポリから招待を受け、ナポリ公アルヴィート公とベアトリーチェの結婚式の祝いとして劇的カンタータ「日は昇る」を上演しています。1709年ヘンデルはドイツへの帰り支度をはじめ、イタリアでの最後の作品である歌劇「アグリッピーナ」を作曲し、1709年12/26、ベネツィアのサン・ジョヴァンニ・グリゾストモ劇場で初演します。ヘンデルは「アグリッピーナ」によって一夜にして国際的な名声を得たとされ、イタリア滞在中に知己を得た各国の要人たちは競うようにヘンデルを自国へ招こうとしたといわれ、その中には後のイギリス国王ジョージ1世となるハノーファー選帝侯の弟であるエルンスト・アウグスト公や同選帝侯の主馬頭キールマンゼック男爵、イギリス大使マンチェスター公などがいたとされます。翌年の1710年2月には「アグリッピーナ」は閉幕し、ヘンデルはイタリアを離れ、インスブルックを経由して、ドイツのハノーファーに向かいます。

〇ドイツ・ハノーファー宮廷の楽長となり、イギリスのロンドンに渡る
 ハノーファーに到着したヘンデルは早々にハノーファー宮廷楽長に就任しています。宮廷楽長就任には、ヘンデルと同世代であり、ヘンデルのチェンバロ演奏に惹かれた選帝侯の王子とその妃キャロラインの強力な推薦があったとされます。ハノーファー選帝侯は後にイギリス国王ジョージ1世となり、その王子はジョージ2世となりますが、特にジョージ2世の妃のキャロラインはイギリス王妃となってからも、死ぬまでヘンデルのよき理解者であり、支持者であったとされます。ヘンデルはハノーファー宮廷楽長就任後わずか1ヶ月半で、宮廷から1年間の休暇旅行の許可を得て、1710年7月下旬にはデュッセルドルフのプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムのもとに滞在します。プファルツ選帝侯の妃アンナ・マリアはメディチ家のフェルディナンドの妹であり、その縁でヘンデルはフェルディナンドの推薦状を得ていたとされます。ヘンデルのチェンバロはデュッセルドルフの宮廷でも称賛の的であり、手厚くもてなされたようです。おそらくデュッセルドルフ宮廷もヘンデル獲得に意欲を見せていたものと思われますが、ヘンデルはこの宮廷には就職しませんでした。その理由は、デュッセルドルフはもともとカトリック支配の強い国であり、プロテスタントのヘンデルにとっては居心地が悪かったためと見られます。1705年、プファルツ選帝侯によって一旦は教会の自由が認められたものの、実際は口先だけでプロテスタントへの迫害は続き、1709年には耐えかねた大勢のプロテスタントがイギリスへ逃れたとされます。1710年9月、ヘンデルはデュッセルドルフを発ち、オランダを経由して、かねてよりオペラの有力な市場として着目していたロンドンへ向かいます。
 ロンドンではアーロン・ヒルがヘイマーケット女王劇場の支配人に就任しており、支配人ヒルはロンドンに渡ったヘンデルに早速オペラ作曲を委嘱したようです。ヒルは、ドイツ人でありながらイタリアで修業を積んだ青年ヘンデルを有能なオペラの作曲家として抜擢し、イタリア人歌手による正真正銘のイタリア・オペラの上演を計画します。18世紀初め、イギリスの貴族たちは若いころにグランド・ツアーと呼ばれた大陸旅行に出かけ、見聞を広める習慣があり、当時のイタリアはあらゆる文化の中心であり、フィレンツェやローマで音楽、美術、建築などのイタリア文化に触れた彼らはまるでかぶれたようにイタリア文化の導入に熱をあげたと言われます(1)。イギリスは当時世界の植民地を広げ、初期の産業革命が始まろうとしており、経済的に豊かになっており、音楽ではイタリアオペラの上演が待ち望まれていたようです。ヘンデルは1711年2/24、ロンドンのヘイマーケット女王劇場で歌劇「リナルド」を初演し圧倒的な大成功を収めます。ロンドンの聴衆はかつて経験したことがないような豊かで劇的で濃密なヘンデルの音楽の表現力に圧倒され、更に大仰な舞台効果や花形カストラート・ニコリーニの活躍で15回も上演が繰り返されたのでした。英国王室も「リナルド」初演に先立ち、ヘンデルとニコリーニを宮廷に招き、アン女王の御前で女王を讃美するイタリア語のディアローグの演奏を行い、ヘンデルは更にアン女王のために旧約聖書にでてくる台詞をもとにした英語による王室礼拝用のアンセム「鹿が冷たい谷川を慕いあえぐように」HWV251aを作曲し捧げています。ヘンデルはオペラシーズンが終了すると、デュッセルドルフを経由してハノーファーへ戻りますが、翌年の秋には「適当な時期には戻る」という条件で、ハノーファー選帝侯から2度目のイギリス旅行の許可を得て、秋のオペラシーズン開幕のころにはロンドンに戻っています。

〇ヘンデル渡英の謎
 ヘンデルはイタリアを離れたのち、ハノーファー宮廷楽長となったものの直ちにデュッセルドルフへ移り、さらにロンドンへ向かうという不可解な行動を行っています。ヘンデルが訪英した理由は何だったのか・・・次の3つの説を想定してみます。
(1)ヘンデルは自らオペラ文化の盛んなロンドンをめざした
ヘンデルは生まれ故郷のハレでテレマンの影響によりオペラの魅力に目覚め、ドイツでオペラが上演されていたハンブルクに移り、オペラ作曲家としての道を歩み始め、本場イタリアへ渡り当時のオペラ様式を習得し、オペラ劇場のないハノーファー宮廷楽長となったもののいずれはハノーファー選帝侯がイングランドの王位を継承することが想定されたため、自らの意志でロンドンのオペラ界に身を投じた。ハノーファー選帝侯は宮廷楽長でありながらロンドンで活動するヘンデルに対し不信感を持った。
(2)ヘンデルはロンドンのオペラ界からの要請でロンドンに移った
当時のロンドンでは先進のイタリア文化の導入がはやりとなっており、イタリアでヘンデルの「アグリッピーナ」を聴いたマンチェスター公などはヘンデルの招聘に動き、ヘイマーケット女王劇場の支配人とともにヘンデルに対し積極的に獲得に乗り出し、ロンドンでの本格的イタリアオペラ上演をめざす動きがあった。
(3)ヘンデルはハノーファー宮廷の外交官の役割を担ってロンドンに行った
イギリス王室と血縁のあるハノーファー選帝侯は跡継ぎのいない英国のアン女王が没すれば自らが英国国王の地位を得ることとなるため、アン女王の状況を把握するため、ヘンデルを宮廷楽長として雇入れ、英国に気づかれないようにデュッセルドルフ経由でヘンデルをロンドンに送り込み、ヘンデルからアン女王に関する情報を手に入れようとした。
 最近の研究では(3)のヘンデルの外交官説が有力のようですが、筆者としては(1)(2)(3)の状況が重なり合って、ヘンデル、ハノーファー選帝侯はそれぞれの目的を果たしたのではないか、すなわちヘンデルはイギリスでオペラ作曲家としての地位を手に入れ、ハノーファー選帝侯は無事に英国国王の地位を手に入れたのではないかと見られます。

〇ロンドンのヘンデル
 2度目の渡英を果たしたヘンデルはピカデリーのバーリントン卿宅に滞在し、早速へーマーケット女王劇場のために歌劇「忠実な羊飼い」、さらに歌劇「テーゼオ」を作曲し初演し、王室のアン女王のためにも「ユトレヒト・テ・デウム」「ユトレヒト・ユビラーテ」を作曲し、セントポール大聖堂でのアン女王のための感謝礼拝の折に演奏されるなど、良好な関係を築き、12月末にはアン女王から200ポンドの年金を受け取っています。しかし、1814年8/1、アン女王は脳出血で急死し、ハノーファー選帝侯はジョージ1世としてイギリス国王として即位します。ヘンデルは早速新国王ジョージ1世のために歌劇「リナルド」を再演し、更に新作オペラ「ゴールのアマディージ」を初演するものの、新しいハノーファー朝に反対するジャコバイト党の反乱により政情は不安定になっていたため、新作オペラの公演は7回で打ち切りになっています。ドイツ人の新国王ジョージ1世は英語を理解せず、イギリス国民にとっては粗野な人物と映っていたようで、きわめて不人気であり、さらに反対勢力のジャコバイト党などが勢力を拡大しており、ジョージ1世は状況を打開するために、ヘンデルに「水上の音楽」の作曲を依頼し、1717年7月に国民の前に姿を現し、存在をアピールするためにテムズ川で舟遊びを行ったものとみられます。ハノーファー宮廷楽長に任命したにもかかわらず、ロンドンで音楽活動を続けていたヘンデルは「水上の音楽」によって新国王と和解したとの説は、現在では否定され、ヘンデルのロンドンでの音楽活動は選帝侯の命による諜報活動を兼ねていたのではないかとされています。

〇キャノンズ時代
 1715年から16年にはハノーファー王朝に反対するジャコバイト党、トーリー党が反乱を起こすなど英国王室は分裂と政情不安による経済的危機が深刻となり、1717年6/29ヘイマーケット国王劇場は閉鎖に追い込まれます。このような状況の中で、オペラ活動を中止せざるを得なくなったヘンデルは裕福な軍人である後のシャンドス公爵に招かれ、ロンドンの北西約25Kmのキャノンズの館に移ります。この館には礼拝堂があり、また小規模ながらも専属合唱団と合奏団があり、ヘンデルは多くの英語の聖歌であるアンセムやイギリス伝統の仮面劇としてマスク「エイシスとガラテア」、マスク「エステル」を作曲し、上演しています。ギリシャ神話に基づく「エイシスとガラテア」は後の世俗的なオラトリオを、旧約聖書に基づく「エステル」は後のヘンデルの典型的な英語による宗教的で劇的なオラトリオを予示する作品であるとされます(1)。

〇ロイヤルアカデミー設立とオラトリオへの道
 1719年ロンドンでは再びイタリアオペラを上演しようとの機運が盛り上がり、「ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック」が認可され、ヘンデルはオペラ作曲に復帰します。アカデミー総裁のチェンバレン卿はヘンデルに優れた歌手と契約するために大陸行きを命じます。ヘンデルはドレスデンでアルト・カストラートのセネジーノ、ソプラノのドゥラスタンティ、バスのボスキらと契約します。これらの歌手はヘンデルがローマのルスポリ邸やベネツィアの歌劇「アグリッピーナ」で共演した旧知の歌手たちでした。セネジーノはこの後、17のヘンデルのオペラで主役を勤めてゆくこととなります。1723年には衰えたドゥラスタンティに代わり、ヨーロッパ随一といわれたソプラノ歌手のクッツォーニをひき抜き、アカデミーの活動は絶頂を迎えます。セネジーノなどの主役級は1500ポンドの年俸であったとされ、ヘンデルでも800ポンド、楽団員は100~30ポンドとされ、現在価値で1ポンド10万円とすれば主役級で年俸1億5千万円、ヘンデルでも年俸8000万円程度であったと言われます。
 1727年、イギリス国王ジョージ1世が亡くなりジョージ2世が即位します。ヘンデルの最も親密な支持者であった新国王の戴冠式のためにヘンデルはウェストミンスター大寺院で「戴冠式アンセム」を演奏します。このアンセムは4つの曲からなっており、その第1曲「祭司ザドク」は今日に至るまで英国国王の戴冠式で演奏されているようです。そして、このアンセムはその壮麗さにおいて群を抜き、これ以降のオラトリオへの重要な伏線となったとされます。一方のアカデミーはヨーロッパで最高のオペラを上演しながらも、放漫経営により赤字が累積し、さらに翌年にはリンカーンズ・イン・フィールズ劇場でジョン・ゲイの「乞食オペラ」が初演され、当時の政治・社会・文化を痛烈に風刺し、イタリア・オペラをパロディ化し、アカデミーに最後の一撃を加え、アカデミーはとうとう閉幕します。翌シーズンには第2期ロイヤルアカデミーにより公演が続けられることとなり、ヘンデルはイタリアへ渡り7人の新たな歌手と契約します。しかし、さまざまな取り組みにもかかわらずヘンデルに新たな難題が次々と押し寄せます。ヘンデルに対抗する貴族オペラ(オペラ・オブ・ザ・ノベリティ)の台頭です。貴族オペラの設立はヘンデルに対する対抗があったとされ、ヘンデルを支持する国王ジョージ2世との間に確執を持つウェールズ皇太子フレデリックが率いていたとされます。ヘンデルはこの時期に英語のオラトリオ「デボラ」などを上演するようになっていましたが、主役のセネジーノまでもが英語で歌うことを嫌い、喜々として貴族オペラに引き抜かれていったようです。しかし、ヘンデルはオラトリオの幕間にオルガン協奏曲を演奏するなどの新趣向により貴族オペラと対抗して行きます。やがて、第2期アカデミーは年間の公演期間を終了し閉幕します。

〇コヴェント・ガーデンで独立興行主となる
 1734年7月、5年間の第2期アカデミーが終了するとヘイマーケット・キングズ劇場の支配人ハイデッガーはなんと以降のヘンデルとの契約を行わず、次シーズンからは貴族オペラに劇場を貸与することを決めます。ヘイマーケットを追われたヘンデルは自らコヴェント・ガーデン・ロイヤル劇場を借り、3シーズンにわたって興行を行うことを決意します。ヘンデルに対する国王からのオペラ助成金年間1000ポンドは継続していました。しかし、3シーズンを終え、ヘンデルの必死の努力にもかかわらずヘンデルは1万ポンドの赤字を計上し、また貴族オペラも1万2000ポンドの赤字を計上し、共倒れとなり、セネジーノやクッツォーニなどの多くのイタリア人歌手がロンドンを離れています。さらに、ヘンデルの最も信頼できる支持者であったキャロライン王妃も死去するという悲劇が加わり、ヘンデルはたくわえのほとんどを使いつくし人生のどん底を味わったようです。

〇感動のメサイヤ初演と栄光の晩年
 貴族オペラとヘンデルの自主興行の共倒れは、皇太子フレデリックとヘンデルの和解にもつながったとみられ、貴族オペラは興行の最後にヘンデルのオラトリオ「アレグザンダーの饗宴」を演奏し、さらに1738年3月ロンドンの音楽界はヘンデル救済のための顕彰演奏会を開催し、ヘンデルの戴冠式アンセムの他ヘンデルのオラトリオの一部などを演奏しています。ヘンデルはこの演奏会で1000ポンドほどの収益をあげますが、実直なヘンデルは収益の一部を「困窮音楽家救済基金」に出資するなど、以降のヘンデルは慈善活動に目を向けてゆくこととなります。イタリア語によるオペラか、英語によるオラトリオか、ヘンデルは模索を続け、興行のあり方にも大胆に改革を行ったヘンデルは、オペラなど華美な興行を控える時期とされた四旬節にも上演可能な聖書などに題材をとったオラトリオを中心とした興行に活路を見出し、ジェネンズという優れた作家とともにメサイアをはじめとした晩年の傑作オラトリオを創作してゆきます。
 1741年夏、ヘンデルは前シーズンの失敗の痛手により、気力がわかず落ち込んでいましたが、このような時期にヘンデルはジェネンズから「メサイア」の台本を受け取っています。アイルランドのダブリンから演奏会開催の申し出があり、ロンドンでの聴衆に希望を持てなくなっていたヘンデルはダブリンの新しい聴衆への期待、演奏会が慈善目的でったこと、安定した収入の見込まれる予約演奏会であったことからこの申し出を受け入れ、ジェネンズの見事な台本はヘンデルの想像力を大いに刺激し、8/22に作曲にとりかかるとわずか3週間で一気に完成させたとされます。11月にダブリンに到着すると、ヘンデルは12月から翌年3月までの間に約10回のオラトリオなどによる演奏会を行い、1742年4/13、満を持してこの年の復活祭の時期にオラトリオ「メサイア」を初演します。700人という小ホールでありながら聴衆は感動に包まれたようで、地元紙は次のように伝えています・・・高貴で威厳に満ちた感動的な歌詞に付けられた音楽の崇高さと気品と優しさは、ともに相携えて恍惚とした心と耳をとらえ、魅了した・・・ヘンデルは5月にオラトリオ「サウル」を、6月に「メサイア」の2度目の上演を行い、8月にロンドンへ戻っています。ロンドンで「メサイア」は翌年の四旬節の時期に初演されますが、厳しい論評にさらされたようです。「メサイア」がロンドンの聴衆に心底受け入れられるようになるのは、1750年以降恒常化する孤児養育院における慈善のための「メサイア」上演によってであったとされます。そののち上演規模は拡大し、ハイドンがロンドンを訪れたころにはウェストミンスター寺院で3000人の合唱と500人の演奏家による上演が行われ、1859年にはヘンデル100年祭がクリスタル・パレスで開催され、500人のオーケストラと2万人の合唱、巨大なパイプオルガンによる演奏が行われたとされます。オラトリオはオペラを超える規模の上演がなされ、音楽史においてはヘンデルの「メサイア」の上演が最も規模の大きいイヴェントであったように思われます。

【音楽史年表より】
1709年12/26初演、ヘンデル(24)、歌劇「アグリッピーナ」HWV6
3幕のドランマ・ペム・ムージカ、ベネチアのサン・ジョバンニ・グリゾストモ劇場で初演される。アグリッピーナ役にはソプラノのマルゲリータ・ドゥラスタンティ。ヘンデルのイタリア時代における2作目のオペラで、ヘンデルの国際的な名声を確実なものにし、有力な人脈を形成することにもなった。イタリア滞在中に知己を得た各国の要人たちは競うようにして、ヘンデルを自国に招こうとした。そうした中に、後のイギリス国王ジョージ1世となるハノーファー選帝侯の弟であるエルンスト・アウグスト王子や同選帝侯の主馬頭キールマンゼック男爵、イギリス大使マンチェスター公などがいた。(1)(2)
1727年10/11初演、ヘンデル(42)、「戴冠式アンセム」HWV258~261、第1部「司祭ザドク」HWV258、第2部「あなたの手は強く」HWV259、第3部「主よ王はあなたの力によって喜び」HWV260、第4部「私の心はうるわしい心であふれる」HWV261
ウェストミンスター大寺院においてジョージ2世の戴冠式が盛大に執り行われ、ヘンデルの戴冠式アンセムが初演される。七声や六声の大規模な合唱、Ob2、Tp3、ティンパニを含む大編成のオーケストラを必要とするこのアンセムはその壮麗さにおいてヘンデルの作品中群を抜く。英語による合唱中心の戴冠式アンセムはのちのオラトリオへと通じる重要な伏線となる。戴冠式アンセムは4つのアンセムからなる。(1)
1742年4/13初演、ヘンデル(57)、オラトリオ「メサイア」HWV56
ダブリンのフィッシャンブル街ニュー・ミュージック・ホールで初演される。慈善を目的として、初演は大成功を収め聴衆に深い感動を与えた。合唱のメンバーはダブリンの2つの大聖堂、セント・パトリックとセント・クライストの聖歌隊から選抜された26名、歌手はソプラノのアヴォーリオ、アルトのシバー以外およびオーケストラは地元メンバーが担当した。600名収容のホールに700名が入り、収益は400ポンドで、刑務所の囚人救済、マーサー病院、インズ波止場慈善診療所の3つの慈善事業に127ポンドずつ寄付される。台本はジェネンズによる。おそらく1741年の夏の間にアイルランド総督ウィリアム・カヴェンディッシュから、ダブリンでの演奏会開催の申し出があった。ロンドンでの聴衆に希望を持てなくなっていたヘンデルはダブリンの新しい聴衆への期待と、慈善目的であること、安定した収入の得られる予約演奏会であることなどから、この申し出を快諾した。ジェネンズは、旧約聖書、新約聖書の中から聖句を自在に選び、新たな文脈の中に配して、救世主の到来の預言、降誕、受難、福音の広がり、復活、栄光までを感動的に謳いあげた。ヘンデルの音楽は、深い祈りの心情を慎み深く歌う抑制美の際立つアリアから、絶対的な神を讃える荘厳無比の合唱まで受難の悲しみから生誕の歓喜まで、極めて多様多彩で起伏に富む。ヘンデルが「メサイア」を作曲中、感涙で楽譜のインクが滲んだというエピソードがあるが、これは眉唾ものとされる。(1)
24日間で書き上げられた「メサイア」はヘンデルのオラトリオ作曲家としての器量の大きさを象徴している。世俗オラトリオ16曲、聖書を題材とした16曲合わせて32曲のオラトリオは迫真に迫る性格描写と、筋に密着した合唱および二重合唱の使用という2つの大きな特徴が見られる。合唱はそれぞれ和声的、フーガ的、朗唱的、描写的、陰気性、壮麗性という特徴をもつ。合唱の合間にはレチタティーヴォ、イタリア風アリア、牧歌的カンティレーナなどが挿入される。またオルガン協奏曲が中心に置かれている。(3)

【参考文献】
1. 三澤寿喜著、作曲家・人と作品シリーズ ヘンデル(音楽之友社)
2. 新グローヴ・オペラ事典(白水社)
3. ブノワ他著・岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
4. ピーター・ジェイコビ著、熊木晟二・玉田由紀子訳、「メサイア」とヘンデルの生涯(日本基督教団出版局)
5. ドナルド・バロウズ編、藤江効子・小林裕子・三ヶ尻正訳、ヘンデル・創造のダイナミズム(春秋社)

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