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音楽史・記事編172.チャイコフスキーの交響曲、バレエ音楽創作史

 ロシアではグリンカがヨーロッパのオペラを学び、ロシア民族音楽と融合し、ロシア国民楽派を創始しています。そして、フランス、ドイツの血筋を引く移民3世のチャイコフスキーがグリンカの音楽を発展させ、フランス、ドイツ、イタリアを頻繁に歴訪しオペラ様式、交響曲様式、バレエ・舞踏曲の様式などを学び、ロシア随一の作曲家となりました。本編ではチャイコフスキーの足跡をたどり、チャイコフスキーの交響曲やバレエ音楽の創作史を見てゆきます。

〇ヨーロッパを旅するチャイコフスキー、さまざまな様式を学ぶ
 チャイコフスキーの母親はフランス系の移民でドイツの血も引きついでいるといわれ、チャイコフスキーは母親や家庭教師からフランス語、ドイツ語を学び、6歳ころまでにはいずれの言語も話すことができたといわれています。モーツァルトは幼いころからヨーロッパ各地を旅行しさまざまな音楽様式を学び、音楽史における様々な改革を実践し多くの名曲を生み出しています。ロマン派においてはチャイコフスキーがヨーロッパ各地をくまなくめぐり、イタリア、フランスのオペラやベルリオーズの管弦楽法、ドイツの交響曲様式、ワーグナーの楽劇などさまざまな音楽に接し、ヨーロッパのあらゆる音楽様式を学び、それらにロシアの民族音楽を融合し、ロシア音楽史における最高の作曲家となります。チャイコフスキーはカトリックでもプロテスタントでもなく、ロシア正教に属し、ドイツやフランス、イタリアの作曲家のように宗派という前提に縛られることはなく、日本人がさまざまなヨーロッパの音楽を自由に聞くようにさまざまな音楽様式を吸収しており、多様な音楽様式を学んだことが生涯を通じて名曲を作曲し続けた背景にあるように思われます。

〇フォン・メックとチャイコフスキー
 チャイコフスキーは1876年独創的なピアノ協奏曲第1番変ロ長調を作曲し、当時名ピアニストであったハンス・フォン・ビューローに献呈し、ビューローはこの協奏曲をアメリカのボストンで初演しさらにニューヨークで上演を行うと、チャイコフスキーは一躍世界に知られるようになります。このチャイコフスキーの活躍を聞いていたロシアの鉄道業に利権を持つ富豪ナジェージタ・フォン・メックはニコラウス・ルビンステインの仲介でチャイコフスキーに編曲を依頼します。フォン・メックはチャイコフスキーの音楽に魅せられ、やがて多額の金銭を支援するようになり、チャイコフスキーはモスクワ音楽院を辞任し、フォン・メックの支援を得て作曲活動に専念するようになってゆきます。チャイコフスキーとフォン・メックは生涯に800通を超える文通を行っていますが、一度も面会していません。文通では心を開いて心情を吐露し、しかも金銭的にも多額の支援を行っているにもかかわらず、面会は拒否している・・・この理由はわかりませんが、フォン・メックはチャイコフスキーの音楽には魅せられていたものの、チャイコフスキーに男色の気があったことが原因のようにも見られます。このことはチャイコフスキーの音楽創造にも少なからず影響があったものとみられ、子供を愛する、異性を愛する、同性をも愛する、チャイコフスキーの心の広さ、人を愛するやさしさが美しい音楽を生み出した源泉であるように思われます。チャイコフスキーは1854年、14歳でかけがえのない母をコレラで亡くしており、フォン・メックはチャイコフスキーにとって母親のような存在であったのかもしれません。チャイコフスキーはフォン・メックから経済支援が得られるようになってから交響曲、バレエ音楽などの傑作を次々と創作してゆきます。

〇カメンカでのチャイコフスキーとロシア正教
 1860年チャイコフスキーの妹アレクサンドラがウクライナのキエフ近郊のカメンカに嫁いでいます。それ以降、チャイコフスキーはたびたびカメンカを訪問するようになり、姪と甥を我が子のように慈しみ、1871年には姪と甥のために小さいバレエ音楽「白鳥の湖」を作曲し、家族でバレエ上演を楽しんだようです。チャイコフスキーは最初にこの小さいバレエ音楽を作曲し、後に3つの音楽史に残る名作「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」を創作しています。また、カメンカの近くのキエフはロシア正教の聖地として知られています。東ローマ帝国のギリシャ正教の流れを組むロシア正教は、東ローマ帝国が滅亡しバルカン半島がイスラムのオスマン・トルコに占領された400年間、その伝統を受け継いでいます(参考:3.聖書の言語とミサ曲)。チャイコフスキーはキエフのロシア正教のために聖歌「クリソストモスのリトゥルギア」を作曲しています。

〇チャイコフスキーの交響曲(参考:伊藤恵子著・人と作品チャイコフスキー(1))
(前期交響曲)
交響曲第1番ト短調「冬の日の幻想」Op.13、1866年秋~冬作曲
・ペテルブルク音楽院を卒業後に作曲され、師のニコライ・ルビンシテインに献呈される
・音楽院ではベートーヴェンとシューマンの交響曲を学ぶ
・副題「冬の日の幻想」は作曲者自らによって付けられる
・第3楽章では3/8拍子に4拍子を組み合わせる交響ワルツ(ピアノ・ソナタOp.80を利用)
・第4楽章ではロシア民謡を使う、この第4楽章は「ピョートル大帝生誕200年祭記念カンタータ」に利用される
交響曲第2番ハ短調「小ロシア」Op.17、1872年10月作曲
・帝室ロシア音楽協会モスクワ支部に献呈され、チャイコフスキーには300ルーブルが贈られる
・第2楽章はオペラ「オンディーヌ」を利用
・各楽章で民謡を使う・・第1楽章「母なるヴォルガのあけぼの」、第2楽章「紡ぎつづけて」、第4楽章「鶴」
交響曲第3番ニ長調「ポーランド」Op.29、1875年夏作曲
・V・シロフスキーに献呈される、5楽章の交響曲
・第2楽章の2組の3拍子の韻律的対比が優雅なゆらめきを表現し、多くのワルツの原型となり、舞台音楽「ハムレット」Op.67に活用される
・第4楽章のトリオは「ピョートル大帝生誕200年祭記念カンタータ」を利用する
・素材の効果的楽節構成と対位法的装飾、第5楽章はポリフォニー的模倣
(後期交響曲)
交響曲第4番へ短調Op.36、1878年1/9作曲
・チャイコフスキーの成熟の始まりを告げた最初の大作・・・結婚と破滅、メックとの友情の始まり、ワーグナーの楽劇の影響
・冒頭のファンファーレは全曲の基本リズムとなる・・・示道理念「運命」
・第4楽章の第2主題に有名なロシア民謡を使用する
交響曲「マンフレッド」Op.58、1885年9/22作曲
・バイロンの詩による標題交響曲・・・ベルリオーズから学んだ固定楽想を発展させ、使用する
・第4楽章では地獄の情景を描く・・・幻想交響曲の「ワルプスギスの世の夢」の影響
・バラギレフから創作を進められたことから、曲はバラギレフにささげられる。
交響曲第5番ホ短調Op.64、1888年8/26作曲
・固定楽想を調性と拍子を変え、全楽章で使用する・・・ベートーヴェンの交響曲第5番ハ短調、ベルリオーズの幻想交響曲の影響
・スケッチには第1楽章:運命への絶対服従・・、第2楽章:絶望・・、と記されている
・チャイコフスキーはこの交響曲をペテルブルクで初演すると、2回目の欧州演奏旅行を行う
交響曲第6番ロ短調「悲愴」Op.74、1893年8月の終わりか9月作曲
・単純な下行4音のため息と嘆きの動機を発展させて第3楽章を除く全ての楽章で再現している
・第1楽章の展開部にはロシア正教の死者のための賛歌「汝のしもべの魂を聖人らとやすらがせたまえ、キリストよ」が現れる
・第2楽章はめずらしい4分の5拍子のワルツ「涙にくれたほほえみ」(ニキッシュ)
・終楽章のコラールでは人間が持つ愛と死の永遠の主題を結びつける
・自ら指揮した9日後、作曲者は世を去る

〇欧州演奏旅行
 ブラームスは交響曲第3番、交響曲第4番を初演した後、ドイツ方面への演奏旅行を行い、チャイコフスキーもこの時期、2度にわたる欧州演奏旅行を行っています。この背景にはこの時期にヨーロッパでは鉄道網が拡大していたことが考えられます。1888年1月から3月の演奏旅行では、ライプツィヒ、ハンブルク、ベルリン、プラハでは2回の演奏会、パリで3回の演奏会を行い、ロンドンで計9回の演奏会を行い、ピアノ協奏曲第1番、バイオリン協奏曲、管弦楽のための組曲第3番、序曲「1812年」、イタリア奇想曲、弦楽セレナード、弦楽版のアンダンテ・カンタービレを演奏曲目としたとされます。翌年の1889年2月には2回目の欧州演奏旅行を行い、ケルン、フランクフルト、ドレスデン、ベルリン、ジュネーヴ、ハンブルク、ロンドンで計7回の演奏会を行い、前年11月に初演した交響曲第5番を中心としたプログラムであったようで、ハンブルクではブラームスと同宿となり、ブラームスは滞在を1日伸ばし、チャイコフスキーの交響曲第5番の演奏を聞いています。ブラームスは終演後、チャイコフスキーに対し第4楽章以外は気に入ったと述べ、おそらくチャイコフスキーとしては渾身の終楽章とも考えていたものと思われますが、ブラームスに対し「自分も気に入らないのです」と述べ、ともに酒豪の2人は飲み明かしたと伝えられています。チャイコフスキーとブラームスは音楽創作様式にかなり違いがあり、お互いに批判的であったようですが、チャイコフスキーの気配りで和解したように思われます。

〇知られざるチャイコフスキーの訪米
 ボストンで行われたビューローによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の初演はアメリカに強い印象を残したことは知られていますが、1891年チャイコフスキーがニューヨークのマンハッタンに新たに開場したカーネギーホールのこけら落とし公演に招かれたことはあまり知られていないようです。鉄鋼王カーネギーはマンハッタンの中心部のミッドタウンに本格的な演奏会用ホールであるミュージックホールを建設し、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地となります。このミュージックホールは後にカーネギーホールと呼ばれるようになります。当日の公演ではアメリカ国家演奏に続き、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番が演奏され、続いてチャイコフスキーの指揮で自作の戴冠式行進曲が演奏されたとされます。こけら落とし公演は5日間にわたって行われ、チャイコフスキーは自作の管弦楽のための組曲第3番やピアノ協奏曲第1番変ロ長調などを指揮しています。ニューヨーク公演の後はナイアガラの滝などの観光を行い、さらにボルチモア、フィラデルフィアでの公演を行っています。

〇チャイコフスキーのバレエ音楽
 ロシアにおけるバレエの歴史は古く、すでにバロック時代のロシア宮廷はフランスの宮廷バレエを取り入れ、ペテルブルクに帝室舞踏学校を設立しています。フランスにルーツを持つチャイコフスキーは頻繁にフランスを訪問しフランス伝統の舞踏様式を学び、交響曲第4番を完成させた翌年の1879年年には管弦楽のための組曲第1番を作曲しています。フランス組曲の様式は、緩急緩のフランス序曲に各種の舞踏曲が組み合わせられ、おそらくバレエのための組曲であったと思われます。セバスティアン・バッハはフランス組曲の様式に忠実に従い、管弦楽組曲を作曲していますが、チャイコフスキーは独自の序奏を置き、続いてワルツやガボット、メヌエットを含むバレエ曲を配置しています。4つの組曲のうち第3番は特にチャイコフスキーのお気に入りのようで、ヨーロッパ演奏旅行や米国演奏旅行で演奏しています。4つの組曲を作曲したチャイコフスキーはバレエ音楽の最高峰となる「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」を完成させます。なお、バレエ音楽「白鳥の湖」は1877年にモスクワで初演し、失敗に終わっており、チャイコフスキーの死後、弟モデストが旧版を改変し、名振付師プチパとイヴァノフらによる新版はペテルブルクのマリインスキー劇場で初演され大成功をおさめます。

 チャイコフスキーは欧州のカトリック圏のオペラ様式、プロテスタント圏の交響曲様式、さらにワーグナーの楽劇様式などさまざまな様式を吸収し、オペラ、交響曲、バレエ音楽の傑作を残しています。特にイタリアでは声楽などで西洋音楽の伝統の美しい和声を重視しており、ピアノ室内楽などは平均律では和声が不純になるためかほとんど作曲されていません。これに対してブラームスなどはピアノ室内楽などで3度の美しい和声や主和音を使わず多様な和声によって情感豊かな音楽作りを行っているように見られます。チャイコフスキーはイタリアの作曲家のように平均律のピアノ・アンサンブルを避けているようで、ピアノ室内楽に分野ではニコライ・ルビンシテインを追悼して書いたピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出に」
Op.50のみを残しています。

【音楽史年表より】
1866年秋から冬、チャイコフスキー(26)、交響曲第1番ト短調「冬の日の幻想」Op.13
チャイコフスキーの音楽院卒業後の最初の大作で、モスクワ音楽院長ニコライ・ルビンシュタインに捧げられる。自ら付けた副題の「冬の日の幻想」は自然主義的な冬のイメージの音楽化ではなく、当時のロシア芸術に特徴的な冬の旅の主題から連想される熱狂だろう。交響曲第1番~6番と「マンフレッド」の計7曲は、恩師A・ルビンシュテインが容認したベートーヴェンとシューマンのモデル化から出発し、ロシアの古典であるグリンカと民謡への深い愛情ともあいまって独自の世界を創り、ロシア交響曲史を確立した。同年、2つの楽章がペテルブルクにおけるロシア音楽協会の演奏会で演奏される。(1)
1871年夏作曲、チャイコフスキー(31)、小さいバレエ「白鳥の湖」
チャイコフスキーはウクライナのカメンカのダヴィドフ家に嫁いでいた、妹アレクサンドラの子供たちのために作曲する。(1)
1875年10/25初演、チャイコフスキー(35)、ピアノ協奏曲第1番変ロ長調Op.23
ボストンにてビューローのピアノで初演される。ビューローは若い指揮者ベンジャミン・ジョンソン・ランゲと楽員にテンポと解釈を長々と語り、本番にこぎつける。(1)
ボストンでの初演は大成功を収め、初演の様子は電報でチャイコフスキーに知らされた。ロシア初演は1週間後に、サンクト・ペテルブルクにおいてロシア人のグスタフ・コスのピアノ独奏、チェコ人の指揮者ナブラヴニークによって行われる。(2)
1885年1/25(旧暦1/12)初演、チャイコフスキー(44)、管弦楽のための組曲第3番ト長調Op.55
ペテルブルクにおけるロシア音楽協会の第5回交響楽演奏会で、作曲者臨席のもと、ハンス・フォン・ビューローの指揮で初演される。曲はモスクワ初演時の指揮者エルンスト・デルファーに捧げられる。(2)
1888年8/26作曲、チャイコフスキー(48)、交響曲第5番ホ短調Op.64
1888年5月~8/26に作曲される。曲はハンブルクのアヴェラルマンに捧げられる。チャイコフスキーの最初のスケッチには第1楽章は運命への絶対服従・・疑念の嘆き、第2楽章は絶望・・・など謎めいたプログラムを書く。ブラームスが凡庸とみた第4楽章は輝かしい勝利行進への導入、内外の栄誉の日々にもぬぐいきれなかった人間嫌いと絶望が暗示されるが、現在では最も均整の取れた美しい交響曲といわれる。(1)
チャイコフスキーは第4交響曲以降おもに西ヨーロッパで生活していたが、この曲は彼がそうした放浪生活に区切りをつけ、ロシアに定住の地を得たあと、久々に本格的に作曲に取り組んだ交響曲でもあり、かねてから敬愛するモーツァルトの音楽への思いが込められており、また全曲を一貫した運命の主題による循環形式をとっている点なども、新しい試みとして独自なものをうちだした傑作である。(2)
1892年3/19(旧暦3/12)チャイコフスキー(51)、管弦楽のためのバレエ組曲「くるみ割り人形」全8曲Op.71a
ペテルブルクで作曲者自身の指揮で初演され、大成功を収める。チャイコフスキーはバレエの総譜完成前に、自身で演奏会用に8曲まとめて編曲を行った。序曲、「行進曲」「コンペイトウの踊り」「トレパーク」「アラビアの踊り」「中国の踊り」「葦笛の踊り」「花のワルツ」(1)
1892年12/15初演、チャイコフスキー(52)、バレエ音楽「くるみ割り人形」Op.71
歌劇「イオランタ」Op.69とともにマリインスキー劇場で初演される。初演は病気のプチパに代わりイヴァノフが準備し、評価も分かれて11回ほど上演された後にレパートリーから消える。チャイコフスキーの弟モデストは華やかな舞台装置にもかかわらず大成功ではないと断言する。(1)
1895年1/27(旧暦1/15)新版初演、チャイコフスキー(没後)、バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20(新版)
新版として上演され「白鳥の湖」は完全復活する。チャイコフスキーの弟モデストが台本類の改編を行い、ナンバーの一部を短縮、更にピアノ曲集Op.7から3曲を選びマリインスキー劇場の指揮者・作曲家のドリーゴがオーケストレーションを行い、プチパとイヴァノフが振り付けし、上演される。(伊藤恵子・人と作品チャイコフスキーより)

【参考文献】
1. 伊藤恵子著、作曲家・人と作品シリーズ チャイコフスキー(音楽之友社)
2. 最新名曲解説全集(音楽之友社)

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