虚像の王国|最終話: その手を離さない
自宅に帰らなくなって、もうすぐ二年。
鍵は今でも持っている。
──それでもボタンを、押せなかった。
「はーい。花城です」
インターホン越しに、妻がよそ行きのトーンで出た。宅急便が来たとでも思ったのだろう。
「俺だ。入ってもいいか?」
少しの間があった。
「ここは、あなたの家でしょ。入っていいに決まってるでしょ!」
奈緒はいつものように冷たく言った。
ドアのオートロックが解除される音がした。
冷たかった。しかし、ドアは開いた。
全身が棒のように硬く強張っていた。
気持ちが固まらないまま、ドアが開いた。
久しぶりに帰った自宅は、時間が止まっていたかのように、昔と変わらなかった。
まず、懐かしい匂いがした。
奈緒が好きだった玄関の芳香剤の匂い。
それから台所から、カレーの匂いがした。
廊下の端に、光輝の緑のキックスケーターがあった。この細長い廊下を、よく光輝がハイハイをして出迎えてくれた。
恐る恐るリビングに入った。奈緒は台所に立っていて、俺の顔を見ることもなく、背を向けていた。
肩が、以前より小さくなっていた。その背中が、二年分の重さを抱えているように見えた。
「いろいろと本当に悪かった……」
「そんなところで、突っ立っていないで座れば!突然、連絡も無しに帰ってくるから、カレーしかないわよ。健康診断でひっかかるから、あんまり食べすぎないでね。デブになるわよ」
声は相変わらずだった。
しかし背中が、わずかに強張った。
「まずは、俺の話を聞いてくれないか」
奈緒は何も言わなかった。鍋をかき混ぜる手が、止まった。振り返らなかった。それでも、手が止まった。
言葉が、何度も止まった。
それでも、俺は全部話した。
奈緒の足が、そこにあった。
動かなかった。
しばらくして、奈緒が椅子を引く音がした。
冷え切ったお茶をすすった。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……これから、どうなるの」
「わからない。ただ、逃げることはできない」
間があった。
「……わかった」
それだけだった。
顔を上げると、奈緒が初めてこちらを向いていた。
目の下にクマがあった。唇が少し乾いていた。
二年間、この顔が、ここにあった。
──俺は、いなかった。
少しして、奈緒が続けた。
「まったく酷い話よね」
間があった。
「それにしても、あなたってほんとバカだよね」
奈緒はお茶を置いた。
「この二年間、辛かった。あなたは理由も言わずに、この家を出て行った。訳がわからなかったわ。まさか、私が浮気をして、光輝が別の人との子供だと思っていたとはね。笑えるわ」
間があった。
「私、自立するために、仕事も始めたのよ」
「そうなのか?あんなに、仕事に行くのを拒んでいたのに」
「前の職場で、ノルマに追われて、一度倒れたことがあるの。怖かった。でも、光輝を一人で育てなきゃいけないと思ったら、働けた」
奈緒の目には、俺の知らない強さがあった。
「そうか。お前は強いな」
「強くなったの」
──間があった。
「あなたがいなくなってから」
その言葉は、責めではなかった。
しばらくして、奈緒がぽつりと言った。
「ねえ、知ってた? 光輝の目元、あなたにそっくりよ。笑えるくらい、そっくり。この前、あなたの古い写真が出てきたの。光輝と並べたら、おかしくて笑えたわ。同じ顔で、同じところで眉をひそめてた」
俺は、その言葉を黙って聞いた。
「笑えるな。俺も」
奈緒は何も言わなかった。
しかし、かすかに笑った気がした。
薄暗い部屋の中で、光輝は小さく丸まって眠っていた。規則正しい寝息が、静かな部屋に満ちていた。
涙が出た。
声を出さないように、ドアの前で泣いた。
そのとき、ベッドの中の光輝が、寝返りを打った。
毛布が、ずれた。
ゆっくりと、目が開いた。
薄暗い部屋の中で、光輝は起き上がった。何かを探すように、ぼんやりと部屋を見渡した。そして、ドアの前に立っている俺の顔を見た。
俺は動けなかった。
怯えるだろうか。
それとも、もう俺の顔を覚えていないだろうか。
光輝は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、言った。
「とうと、お帰り」
光輝はベッドから降りた。
小さな足が、布団の外に出た。
床を踏んだ。
足音がした。
小さな足音が、暗い廊下を渡って、俺のところへ向かってきた。
見上げた。
それから、俺の手を、両手でぎゅっと掴んだ。
小さかった。
──軽すぎた。
「仕事は終わったの?」
「今までごめんな。……まだ、終わってない」
光輝がまた眠りについた後、俺はそっと布団のそばに膝をついた。
ポケットから、緑の石の破片を取り出した。
しばらく見ていた。
それから、光輝の小さな手のそばに置いた。
光輝の指が、無意識にそれに触れた。
俺は、その手を見ていた。
──離せなかった。
