透明な私
ここは、冷たい場所だったのかと、さつきは少しうつむいてドアを閉めた。
なにか今までとは違う、あたたかいものを感じていたのは都合のいい勘違いだったようだ。
給湯室のドアが、少し開いていたのだ。
運悪く、通りがかってしまった。
みのりの声が聞こえたから、話しかけようかな、なんて思って注意を向けてしまった。
「えー、これ本当にいいの? ありがとう!
みのりちゃん、すごいね、なんでもできちゃうんだ」
「かわいい! 私ももらっていいの? うれしい~。」
営業部の事務の子たちの声が楽しそうに弾んで聞こえた。
「これって、フランスから取り寄せたレースなの!? すごーい。本当にいいの? そんないい物でせっかく作ったのに・・・」
さつきの眉がぴくりと動いた。
フランスから取り寄せたレース?
作った・・・?
体中の血液が一気に、心臓めがけて流れ込んでくるような気がした。
どっどっどっ。
脈打つように体の中でこだましている。
同時に、体温もかっと上がるような感覚に襲われた。
まさか。
そんな。
一瞬の迷いの間に、女子社員たちが給湯室から出てくる気配がして、さつきは身構えてしまった。
2番目に出てきたみのりは、さつきと目が合うと、いつものように可憐なほほえみを投げた。
「さつきちゃん、お疲れ」
声もまるで鈴のように響く。
話しかける余地もなく、その後に2人の女子社員が続き、さつきはあっという間に取り残された。
心臓に一気に流れ込んだ血液は、今度は滝のように足元めがけて落ちていった。
頭だけが、妙に冴えわたって、冷たく暗いところに置き去りにされたようだった。
さつきは先週、仲よしのみのりに、とっておきの贈り物をしたつもりでいた。
上品な白いサテンの生地に、フランスから個人輸入したレースをあしらった、化粧ポーチを作ったのだ。
そんな上等なものでもなかったのだけど、使いやすいように工夫を凝らして作ったつもりだった。
平たい形状で、真ん中から折り曲げて、リボンで軽く止める仕様。開くと、片側にティッシュを入れるポケット、片側にフラットなポケットと、1㎝ほどのゆとりを持たせてふたつに仕分けられた、深めのポケット。
メイク用品をたくさんもっているみのりに似合うようにと、レースの種類を替えて、色違いにして3つプレゼントした。
みのりは本当によろこんでくれて、大事に使うね、と本当にうれしそうに、天使のような笑顔でさつきに何度も「ありがとう」とくり返していたのだった。
まさか・・・。
さつきは頭の中で、同じ問いばかりをくり返した。
でもさっきの会話。
営業部の事務員の数。
間違いない、でも。
みのりは自分に笑いかけたのだ。いつものように「お疲れ」と。
まさかそんな、いや、でも。
みのりに問いただす勇気などあるはずもなく、さつきはモノクロの午後をただこなした。
苦しい気持ちをなんとか日ごとに収めて、さつきはまた、いつものように経費の精算をしていた。
今月は、林田さんがひと月分すべて担当していたようだったが、取りまとめた報告書を見ると、めずらしく計算ミスが1ヶ所もない。
「今日はばっちり、林田さん。確認してくれたんだね、助かる。」
さつきが笑顔を向けると、「みのりがExcel作り直してくれたんだよね。使いやすくなってて、あたしも助かった。」と林田さんは無邪気に去っていった。
さつきの胸の真ん中が、きゅっと強く締まる音がした。
「え?」
すでに立ち去った林田さんに、さつきの小さく漏れ出た声は聞こえはしなかったが、その声はさつきの頭の中でこだまして、それはまるで、小さい部屋で強く蹴り出したボールが、激しく壁や天井にうちつけられて、永遠にはね返り続けているようだった。
みのりにExcelを渡したのは、さつきだった。
営業部からの精算書にあまりにも間違いが多すぎて、ファイルを見せてもらったのだ。
お粗末な作り方のファイルに、これではミスがなくならないわけだと、さつきは計算式を入れ直して、みのりの社内アドレスに送ってやったのだった。
その時もみのりが、「ありがとう! さつきちゃん、いつも仕事ができてすごいな。私なんてみんなに助けてもらってばっかりだよ。」なんて笑うから、さつきは心がくすぐられるような気持ちになっていたのだ。
みのりに確かめることなど、しない。
もちろん、林田さんに説明することもしない。
さつきは雑踏の中でひとり立ち、人々がものすごい勢いで通り過ぎていく中で、呆然としている自分を遠くから眺めているような、そんな気持ちだった。
どうして・・・。
なんで?
ほめられたいとか、ちやほやされたいとか、そういうことを思っているわけではなかった。
ただ、「でも、それは違うんじゃない?」と思っているだけだった。
誰もが自分の存在をまるでなかったもののように扱う。
そこにさつきの足跡など、ついてないかのように振る舞う。
「おはよう」「お疲れさま」という、当たり前のあいさつは間違いなくかわしているのに、それでも自分のことだけは、誰にも見てもらえていないような、そんな気がした。
遠いところから、自分のことを見ている。
さつきの周りだけをよけて、清らかな水が流れているようだった。
その川に水を注いでいるのは自分も同じなのに、さつきにだけは、その水にふれることが許されていないかのようだった。
泣いては、いない。
ただ、呆然と。
自分のいるところは、あたたかい場所ではなかったのかと、ただ、呆然と。
