夜22時、歯ブラシを握りながら。いつから『今日を生きる』をやめたのか
夜22時。子どもが寝た後、洗面台の前で歯を磨いていた。
特に深く考えてもいなかった。日課だから磨く。歯ブラシを入れた、その時だ。
妻の言葉が思い出されて、手が止まった。
「明日も、頑張ってね」
朝、会社に出かける前。妻がいつものように言う言葉。別に珍しくない。支援のような、励ましのような。ただの家族の会話だ。
でも、その時初めて気づいた。
「明日も」——その一言に、本当に深い重さが込められていることに。
歯ブラシをながしながら、自分の15年を振り返った。
会社員15年。異動があり、副業が止まり、再構築して、今また月3万を稼ぐ仕組みがある。毎月数字が出る。その実績が、今の自分を支えている。
でも、だ。
ふと気づいたのが、この15年で「今日」というのを、いつ頃からか生きていないということだ。
いや、正確に言うと。今日を生きているのかもしれない。でも、常に「明日」を見ている。
明日の仕事のための、今日の疲労。明日の副業のための、今日の30分。明日の給与のための、今日の出勤。明日の月3万のための、今日のテンプレート作成。
正直に言うと、妻が言う「明日も」は、きっと優しさだ。だからこそ、その言葉の重さに初めて気づくのが怖かった。
それは「明日も、あなたは同じように『明日』を見ながら生きるのね」という確認だったのかもしれない。
15年目の会社員・僕は、そのことに何も言わず、朝6時に起きて、缶コーヒーを飲み、定時のタイムカードを切る。帰り道、副業フォルダを開き、ツールを起動して、テンプレートを触る。それが「今日」だ。
でも、その「今日」に、果たして僕はいたのか。
妻に「明日も」と言われて、笑って返す僕。子どもと晩飯を食べながら、副業の月次報告を頭で計算している僕。土曜朝、子どもに本を読むと約束したのに、スマホで売上通知を確認している僕。
それが、15年目だ。
結論は、別にない。気づいただけだ。
歯を磨き終わって、洗面台から出た。リビングに妻がいた。携帯を見ていた。僕を見て、「お疲れ」と言った。返事をする前に、その一言が「明日も」に続く言葉なんだと気づいた。
明日も、僕は出かける。明日も、妻は家で僕を待つ。明日も、子どもは大きくなっていく。
その「当たり前」に、いつから疑問を持たなくなったのか。
それだけだ。答えはない。ただ、夜22時の洗面台で、歯ブラシを握りながら初めて気づいた。
「明日も」という言葉は、実は「今日」がないことへの、妻からの優しい警告だったのかもしれない。
