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風の吹くままに ~ 井上由紀・自叙伝

出発

誕生

1971年、福井県で井上由紀は生を受けた。両親と祖母、兄、妹の6人家族で育つ。父は自営業を営み、母は専業主婦だったが、病気がちだった。同居していた祖母が家事の多くを担ってくれていたが、私にも幼いころから家庭内の多くの責任が期待されていた。父は昭和の男性らしく仕事に全力投球で、家のことは母と祖母、そして長女である私に任せきりという感じだった。

両親の教育方針は「真面目に、謙虚に、上には上がいると思って生きること」だった。特に父はこの教えを口癖にしており、私はこの言葉を常に耳にして育った。知らず知らずのうちに、これが私の行動や考え方の基盤となっていった。

中高時代

中学時代からビートルズをよく聞いていた。当時の私は、音楽を自己表現の手段というよりも、自己探求のためのツールとして捉えていた。バンド活動を通じて、音楽は瞑想に入るきっかけのようなものであり、日々のストレスや不安から解放される時間を提供してくれた。

高校時代、親しい友達と手紙や交換日記を通じて、自己内省を深める時間を過ごした。大学に進学してからも、親友の提案で交換日記を続け、書くことが自己探求の手段となっていた。この時期、頭に浮かぶ言葉をそのまま書き連ねることで、自己内省が進み、自分自身の感情や考えを整理し、深く見つめる習慣が身に付いた。

多感だった思春期

思春期には、周囲の期待や視線に対する違和感が募った。周囲が見ている私と、自分が感じている私の間に、乖離があるような感覚を覚えることが多かった。だから、分かっているつもりになられるよりも、「君のことは分からない」と言われる方がよほど楽だった。

私の内面は、言葉を通じて外部に放出されることが多かった。詩を書くことで、自分の感情や考えを確認し、自己を探求する手段としていた。ストレートに話すと反発を受けそうなことや、何かおかしいと思うのに世の中の多くの人が普通の顔をしてやり過ごしているようなことに対し、詩という形で表現していた。それは喜びというよりも、むしろ苦しみや悲しみだったかもしれない。

カナダへの旅立ち

日本での人間関係に消耗し、自分の本心が分からなくなっていた。当時の恋人や親友との間で共依存のようになっていたことが大きかった。自分の意見次第で相手が怒ったり泣いたりすることで、自分の本心ではなく相手が言ってほしいことやしてほしいことを優先して考えるようになってしまっていた。そうした状況から抜け出し、一旦日本を離れてカナダに行くことを決意した。とはいえ、「とりあえず1年行ってくる」程度の軽い気持ちだった。

すべてが真っ新な世界で

カナダで出会ったRちゃんという友人が、私の価値観を大きく変えるきっかけとなった。彼女は当時18歳、私より7つか8つ若かったが、常に陽気で明るく、私が「I’m stupid(わたしバカよね)」と言う度に真剣に「ユキ、あなたはバカじゃない!そんなこと言ってはダメ!」と注意してくれた。このことが自分自身の価値観を見直すきっかけとなり、異文化の中での友情が私の視野を広げてくれた。彼女との再会も含め、多くのことを学んだ。

さらに、カナダでの生活は私の価値観に大きな影響を与えた。例えば、アフリカへボランティアに行った友人から聞いた話では、現地のお母さんが赤ちゃんのために配給される粉ミルクを食べてしまうという。美味しいからだという。彼らの文化では年上のものから美味しいものを食べるのが当たり前だからだ。しかし、そのお母さんが自分のせいで赤ちゃんが栄養失調で死んでしまったのに、赤ちゃんが死んだといって号泣する。その矛盾に衝撃を受けた。

また、フィリピン人の友人に招かれたパーティーでは、日本で働いて大金持ちになった女性たちがスーパースターのように語られていた。当時、フィリピンの女性が日本に出稼ぎに来ることに対し、日本人としては申し訳ない気持ちを抱いていた。しかし、彼らには日本人を恨む気持など全くない様子だった。それが驚きだった。こうした異文化との接触が、私の視野を広げ、価値観を柔軟にしてくれた。

そんな中、カナダ人でありながら熱心に日本庭園を研究する造園家の下で、造園業界にデビュー。造園業は挑戦というよりも、神様がくれたギフトのように感じた。すべてが楽しく、宝物となる体験だった。日本庭園の背景にある思想を学び、自然との調和を目指すことで新しい視点を得た。造園業は肉体的にもきつい仕事だったが、やれば身体は鍛えられるということ、汗水たらして土や植物、岩に触れて仕事をすることが動物としての快感というか、本当に気持ちのよいものであると感じた。背中を痛めないための足腰の使い方、シンプルな道具を使って効果的に重いものを運ぶ方法など、多くの実用的なスキルも学んだ。

挑戦

青天の霹靂

2021年の6月、突然の出来事が私を襲った。エコー検査の結果、まさかの緊急入院となった。出血が続き、ヘモグロビン値が極端に低下して心臓発作の恐れがあるということで、救急車で2時間半の病院へ送られたのだ。そこで診断されたのは「子宮頸がん」だった。カナダの医療事情の中で、緊急扱いされたおかげだろうか、あっという間にがん治療が始まった。

私の住んでいるところから放射線治療のセンターまで、車で片道2時間半かかるため、私はセンターの真向かいにあるガン患者専用の宿舎に滞在することができた。ちょうどコロナの折、本来なら二人部屋を一人で使わせてもらい、非常に快適な環境を与えてもらった。宿舎に滞在している間、わたしは多くの時間をインターネットでのリサーチに費やし、ガンに関係する知識をずいぶんと増やした。その結果、自然治癒力をサポートするには、やはり食と運動、休養が大事だという基本に辿り着いた。

試される時

2021年、最初の入院と治療後、私は無事家に帰り、その後は経過観察ということで3カ月ごとにドクターに会っていた。3回目の検診が無事終わり、次は検診期間を半年に伸ばそうか、と言っていたその矢先、左脚付け根の異常が起こった。2022年の暮れには左脚の付け根に異常を感じ、再び病院へ行くことになった。検査の結果、ガンが再発していることが分かった。2023年4月、担当医から正式に末期のステージにあることを告げられ、余命は1年未満と宣告された。余命宣告を受けたことで、さらに自分自身と向き合うこととなった。

余命宣告を受けた後、私は本当に大切なことに集中するようになった。これまで先延ばしにしてきたことを完了させ、重要でないことを手放す。シンプルな生き方を追求し、毎日「生きる」ということにエネルギーを注ぐようになった。この経験が、私の人生観をさらに深め、新たな価値観を見出すこととなった。

人生最後のステージ

新たなる試練

余命宣告を受けた後も、試練は続いた。2024年の3月ごろから、頭痛に悩まされるようになり、5月にはひどい嘔吐が一度あった。病院へ行ったところ即入院、手術となった。尿毒症になりかけていたようで、その原因はおそらくガンとその治療の副作用による尿管の機能不全だった。腎臓に直接管を差し込んで排尿する手術を受け、一生この管は外せないことを告げられた。同時にひどい貧血になっており、これまでの頭痛はそのせいだったと分かった。これらの出来事から、私は「生きる」ということがいかに貴重で、毎日の小さなことにも感謝すべきだと強く感じるようになった。

治療後、仕事を引退し、時間を作り、寝たい時には寝て、「ねばならない」を極力減らす生活へとシフトした。最低限のコミットメントはあるものの、朝の7時以降のミーティングは週に3回、多い時は毎日入っている。しかし、以前と比べると自分がホストをするものが減り、朝の5時6時や夜遅くのミーティングをほとんど辞めたことで、ずいぶん楽になった。

ひとつ、またひとつ

人生の最期に向かって、私は多くの教訓を学んだ。その一つは、「自分自身を信じることの重要性」だった。余命宣告を受けてから、自分が本当にやりたいことや大切にしたいことに集中するようになった。自分の直感や内なる声に従い、他人の期待や評価に左右されず、自分らしい生き方を追求することが重要だと感じた。

また、カナダでの生活を通じて、「話せばわかる、は必ずしも通用しない」という教訓を学んだ。パートナーとの議論やクライアントとのセッションを通じて、異なる視点や価値観を持つ人々とのコミュニケーションの難しさを痛感した。特に、バイアスが激しい人とは話し合わない方がむしろ物事がスムーズに進む場合が多いことを学んだ。話し合いが無駄に終わることが多い中で、自分の視点を押し付けるのではなく、相手の存在を尊重することが重要だと悟った。

そして、これから

私の日常生活は、もはや元に戻ることはない。それまでは「まだ死なない人」として生きていたが、今は「もうすぐ死ぬ人」として生きている。この変化が、今からの生き方に対する視点を大きく変えた。私は、自分が本当に大切にしたいことに集中し、日々の生活を充実させるために全力を尽くしている。人生の旅路を通じて得た教訓と学びを持ち帰り、私はこれからも自分自身と他者の可能性を広げていきたいと強く願っている。自分の本質と向き合い、愛をもって生きていくことで、これからも新たな道を切り開いていくつもりだ。

これからの時間をどのように過ごすか、何を大切にするかが重要だと感じている。自分の心と身体の声に耳を傾けながら、毎日を大切に過ごしていくことが私の目標だ。そして、この経験を通じて得た教訓や気づきを他の人々と共有することで、少しでも誰かの役に立てればと思っている。


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