防衛省が否定し、記事が肯定する──同じ事実が真逆に見える理由 [ファクトチェック]
「防衛省がAIでSNSの世論を操作しようとしている」──こんな見出しがタイムラインに流れてきたら、あなたはどう反応するだろうか。「やっぱりそうか」と頷くだろうか。それとも「本当に?」と眉をひそめるだろうか。私は後者だった。公認心理師として、人の認知がいかに「最初に目にした情報」に引っ張られるかを知っているからこそ、一次資料に当たらずにはいられなかった。今回は、2022年末に話題になったある報道を題材に、「同じ事実をめぐって記事と政府の見解がまっぷたつに割れた」経緯を、できるだけ平易に、でも正確に辿ってみたい。
事の発端──ある地方紙の短い記事
2022年12月9日、千葉日報オンラインに一本の記事が掲載された。共同通信の配信記事で、骨子はこうだ。「防衛省がAIを使ってSNS上の国内世論を誘導する工作の研究に着手した」「複数の政府関係者への取材で判明した」。
短い記事だったが、含まれる主張はかなり強烈だった。インフルエンサーを"無意識のうちに"防衛省に有利な発信へ仕向ける。防衛政策への支持を拡大する。有事の際に特定国への敵対心を醸成する。反戦・厭戦の空気を払拭する──。もしこれがすべて事実なら、民主主義の根幹に関わる大問題だ。
だからこそ、「本当にそうなのか?」と立ち止まる価値がある。
ファクトチェックで見えた3つの層
私は記事から主要な事実主張を6つ抽出し、公的資料や政府発言、国際機関の文書など一次情報に当たって検証を試みた。すると、この報道は3つの層に分かれることが見えてきた。
まず、「確認できた事実」の層。
防衛装備庁(防衛省でないことは、PDFで確認)が2022年度に「認知領域に係る動向調査等」という調査を外部に委託していたことは、防衛省自身が公表している予算執行の記録に載っている。委託先はEYで、契約金額は682万円。これは誰でもアクセスできる公開情報だ。また、中国やロシアが情報戦──フェイクニュースの拡散や影響工作──に積極的であることは、米国の国家情報長官室(ODNI)やEUの対外行動庁、OECDなど複数の国際機関が公式文書で指摘していて、ここに異論を挟む余地はほぼない。さらに、日本政府がこうした「認知領域の情報戦」への対処を安全保障上の課題と位置づけ、安保関連3文書に盛り込んだことも、官房長官の発言や外務省の外交青書で裏づけがとれる。
公 告 第 1 1 6 号 令 和 4 年 6 月 2 9 日
https://www.kkj.go.jp/d/?A=Z292My9tb2RfYXRsYV9yZWdpb24vMjAyMi8yMDIyMDYyOV8wMjYyMy5wZGYK&L=ja
次に、「確認できなかった主張」の層。
ここが最も重要なポイントだ。記事の核心である「インフルエンサーを無意識に誘導する」「敵対心を醸成する」「反戦機運を払拭する」といった"攻勢的な国内世論工作"の具体像は、公開されている一次資料からは裏づけがとれなかった。防衛省が公表している委託調査のタイトルは「認知領域に係る動向調査等」であって、ここに「世論誘導」や「インフルエンサー操作」を示唆する文言は含まれていない。
そして、「政府が明確に否定している」という層。
記事の掲載後、当時の岸田首相は文書回答で「事実誤認」とし、「国内世論誘導はあり得ない」と否定した。防衛大臣も記者会見で「国内世論を特定方向へ誘導する研究は行っていない」という趣旨で反論し、報道機関に抗議している。
防衛大臣記者会見 令和4年12月13日(火)
https://www.mod.go.jp/j/press/kisha/2022/1213a.html
「迷惑電話対策」か「営業電話」か
ここで少したとえ話をさせてほしい。
「認知領域の情報戦への対処」を日常に置き換えると、「迷惑電話が増えたから、着信履歴を分析して詐欺を見抜き、注意喚起する仕組みをつくる」ようなものだ。外国からのフェイクニュースを検知し、分析し、国民が騙されないように備える。これは防衛的な行為であり、多くの人が必要性を感じるだろう。
一方で、記事が描くような「国内世論誘導」は、「こちらの都合の良い方向に相手の考えを誘導する」に踏み込む。つまり迷惑電話をブロックするのではなく、自分が営業電話をかける側になるイメージだ。
同じ「SNS分析」「AI活用」という技術が、防御にも攻勢にも使い得るからこそ、報道する側も読む側も、「どちらの文脈で語られているのか」を注意深く見極める必要がある。今回の争点はまさにここにある。
私たちが本当に問うべきこと
正直に言えば、私はこの検証を通じて「真実はこうだ」とスパッと断言したかった。しかし現実は「公開情報の範囲では白黒つけられない」というのが誠実な結論だ。記事が嘘だとも、政府の否定が正しいとも、現時点では断定できない。
ただ、一つ確実に言えることがある。それは、私たちの社会には「認知領域」をめぐる本質的な議論がまだ足りていないということだ。
公認心理師として日々感じるのは、人間の認知は思っている以上に脆いということだ。確証バイアス──自分の信じたい情報だけを集めてしまう傾向──は、誰にでもある。SNSのアルゴリズムはそのバイアスを増幅する。映画『マトリックス』の有名なセリフに「赤い薬と青い薬」の選択があるけれど、現実世界では、自分がどちらの薬を飲んだのかすら自覚できないことが多い。
だからこそ、一本の記事を読んで「やっぱりね」と片づけるのではなく、「一次資料はどこにあるのか」「政府はどう言っているのか」「国際的にはどう捉えられているのか」と、自分の手で情報の地層を掘っていく習慣がものすごく大切だと私は思う。
ファクトチェックは「疑うこと」ではない
最後に一つだけ伝えたい。ファクトチェックは、報道を敵視することでも、政府を盲信することでもない。どちらの言い分も一次資料に照らして検証し、「ここまでは確認できた」「ここからは未確認」と線を引くことだ。
たとえるなら、健康診断に近い。「たぶん大丈夫」と放置するのではなく、データを見て、異常値があれば精密検査を受ける。情報との付き合い方も同じだと思う。
いま世界では、国家レベルの情報戦が当たり前になりつつある。中国やロシアの事例は他人事ではない。そして日本がその対処能力を整備すること自体は、政府文書でも明確に謳われている政策方針だ。問題は、「対処」と「誘導」の境界線をどこに引くか、そしてそれを誰が監視するか。この議論は、専門家だけでなく、私たち一人ひとりが参加すべきテーマだと確信している。
まとめ
今回の検証で見えてきたことを整理しておく。
防衛省が「認知領域」に関する調査委託を行っていた事実は、公開資料で確認できる。しかし、報道が主張する「国内世論誘導(攻勢)」の具体像は、公開情報では裏づけがとれず、政府は明確に否定している。中国・ロシアの情報戦活用と、日本の対処能力整備の必要性は、国際文書・政府文書で広く支持されている。そして何より、一つの報道に対して「確認できたこと」と「できなかったこと」を分けて考える姿勢そのものが、情報戦時代を生きる私たちの最大の防御になる。
あなたが次にSNSで衝撃的な見出しに出会ったとき、「面白い。で、一次資料はどこだ?」と心の中でつぶやけたら、それだけでもう、情報戦に対する最強の防御が始まっている。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます。今日の記事が、皆さんの明日以降の一歩を考えるきっかけになればうれしく思います。
#ファクトチェック #認知領域 #情報リテラシー #公認心理師 #メディアリテラシー
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします。いただいたチップは、執筆のための書籍購入や、AIのために使わせていただきます。