伊藤忠と丸紅は、同じ人が同じ日に始めた。就活で語られない1858年の話
総合商社を受ける学生の多くが、伊藤忠商事と丸紅の両方にエントリーする。片方の面接で落ちて、もう片方に受かる人もいる。
その2社が、同じ人の、同じ商売から始まっていることは、あまり知られていない。
1858年5月。近江国犬上郡八目村、いまの滋賀県豊郷町で、ひとりの少年が麻布を担いで商いに出た。名を伊藤忠兵衛という。伊藤忠商事も丸紅も、この年を創業年としている。
つまり両社は競合であると同時に、同じ日に生まれた兄弟でもある。
この記事は、その1858年に何が起きたのかを追う。就活の面接で使える話でもあるし、そもそも「総合商社って結局なにをしている会社なのか」という問いへの、いちばん古い答えでもある。
11歳の失敗から始まっている
忠兵衛は1842年7月2日、五代伊藤長兵衛の次男として生まれた。実家は「紅長(べんちょう)」の屋号で繊維品の小売を営む近江商人の家だ。次男なのでいずれ家を出る。父はそう考えて、早くから商いに慣れさせようとした。
11歳のとき、兄について初めて行商に出る。兄は持っていった荷を楽々とさばいてみせた。これなら自分ひとりでもできる。そう思って次は単独で出かけたところ、ほとんど売れなかったという。
いきなり成功した人の話ではない。最初は売れなかった人の話だ。
そこから修業が始まり、1858年5月、元服して忠兵衛を名乗り、独り立ちする。伯父の成宮武兵衛から麻布50両分を出してもらい、最初は伯父に連れられて村を出た。
このときの年齢が、資料によって食い違う。伊藤忠と丸紅の公式はどちらも15歳と書き、地元の豊郷町や京都丸紅の社史は17歳と書いている。1842年7月生まれで出発が1858年5月なら、満年齢で15歳、数え年で17歳。どちらも間違いではない。
そして、この最初の商売の純利益が記録に残っている。7両だった。
伊藤忠は自社サイトで、このとき忠兵衛は長崎を目指したと記している。他の資料には堺や紀州へ行商したとあり、行き先の記述は一致していない。ただ確かなのは、彼が村を出て、遠くまで歩いて商品を売ったということだ。
持ち下り商いは、いまの総合商社と同じことをしていた
ここで「持ち下り商い」の中身を見ておきたい。就活生にとって、いちばん役に立つのはたぶんこの部分だ。
近江商人は、往路で上方や近江の商品を他国に運んで売り、復路で他国の特産品を仕入れて上方で売った。前者を持ち下り、後者を「のこぎり商い」と呼ぶ。やがて、他国の産物を出店を通じて地域間で売買する「諸国産物廻し」も行うようになる。
そして持ち下りの実務について、伊藤忠のCAOはこう説明している。商品サンプルを見せて注文を取り、産地から商品を届けたあとで料金をいただく商売だった、と。
分解すると、こうなる。
産地と需要地のあいだに立つ
サンプルを見せて注文を取る(受注)
産地から現物を運ぶ(調達と物流)
届けたあとで代金を回収する(与信を負う)
これは、いまの総合商社がやっていることとほぼ同じだ。取引の間に立ち、需要を見つけ、モノを動かし、金を回収する。エネルギーでも食料でも繊維でも、規模と扱う品目が変わっただけで、機能の骨格は変わっていない。
そして、どこか一点でも信用を損なえば成り立たない商売でもある。先に商品を渡して、あとから金をもらうのだから当然だ。商社が「信用が資本」と言うのは、精神論ではなく、この構造から来ている。
15歳の忠兵衛は、天秤棒ひとつで、その全部を回していた。

[図1:持ち下り商いの4つの機能/ALT:持ち下り商いの流れを示す図。産地と需要地の間に立ち、サンプル提示による受注、産地からの調達と運搬、納品後の代金回収という4つの機能を一人で担っていたことを示す。これが現在の総合商社の機能の骨格と一致することを示している。]
1872年、商いだけでなく「制度」を作った
行商で財を成した忠兵衛は、1872年1月、大阪本町二丁目に呉服太物商「紅忠(べんちゅう)」を開く。29歳。行商から店舗商売への転換だ。
注目したいのは、店を開くと同時に「店法(たなほう)」を定めていることだ。伊藤忠はこれを、企業理念と企業行動指針、人事制度、就業規則をあわせたような内規だったと説明している。明治5年である。
さらに、店員とのコミュニケーションを重視した会議制度を導入し、「利益三分主義」を成文化した。店の純利益を、本家納め・本店積立・店員配当の三つに分けるというものだ。
まだ封建色の濃い時代に、店員に利益を分配している。伊藤忠自身が「大変先進的な考え方」と書いているし、宇佐美教授も対談で、社員も共同経営者であるという考えがそこにあったと指摘している。

[図2:利益三分主義/ALT:紅忠が1872年に成文化した利益三分主義の分配構造を示す図。店の純利益を「本家納め」「本店積立」「店員配当」の三つに分けるもので、店員に利益を分配する点が当時としては先進的だったことを示す。]
制度はほかにもある。洋式簿記の採用、学卒者の採用、運送保険の利用。現場主義については「地主の足跡は田畑の肥料となり、牧主の眼光は牛馬の毛沢を増す」と掲げ、経営者自身が現場に出ることを求めた。店員は全員を出店に配属して現場で育てた。
そして、毎月1と6がつく日には、全店員参加の無礼講のすき焼きパーティーを開いていたという。当時としては珍しい全店員の集合写真が何枚も残っている。
15歳で行商に出た人が、29歳で組織の設計を始めている。商いを作った人であると同時に、制度を作った人だった。
分かれ、合わさり、また分かれた
では、なぜ1つの商売から2つの商社が生まれたのか。系譜はかなり複雑だ。
1914年に伊藤忠合名会社が設立され、1918年12月、これが株式会社伊藤忠商店と伊藤忠商事株式会社に分割される。前者が、のちの丸紅につながる。
1921年、忠兵衛の兄の家系である伊藤長兵衛商店と伊藤忠商店が合併して丸紅商店が誕生した。初代社長には九代伊藤長兵衛が就いている。
戦時中に再び一つになる。1941年に丸紅商店・伊藤忠商事・岸本商店が合併して三興となり、1944年には呉羽紡績などとも合併して大建産業になった。
そして1949年、過度経済力集中排除法によって大建産業は分割される。ここで丸紅、伊藤忠商事、呉羽紡績、尼崎製釘所が生まれた。丸紅株式会社の発足は同年12月1日である。
一本の川が分かれ、合流し、また分かれた。だから両社は同じ創業年を掲げている。

[図3:1858年から分かれた道/ALT:伊藤忠商事と丸紅の系譜を示す図。1858年の創業から1914年の伊藤忠合名会社、1918年の伊藤忠商店と伊藤忠商事への分割、1921年の丸紅商店誕生、1941年の三興、1944年の大建産業への合併を経て、1949年に過度経済力集中排除法により丸紅・伊藤忠商事・呉羽紡績・尼崎製釘所へ分割された流れを示す。]
「三方よし」は、近江商人の家訓ではない
ここからが本題だ。
就活の面接で「御社の理念である三方よしは、近江商人に代々受け継がれてきた家訓で」と話す学生は多い。これは、厳密には正しくない。
伊藤忠が統合レポートで公開している、近江商人研究の第一人者・宇佐美英機教授(滋賀大学名誉教授)との対談に、はっきり書かれている。
まず、「三方よし」という言葉自体が、近江商人研究者による後世の造語である。宇佐美教授は、初代伊藤忠兵衛がこの言葉そのものを生み出したわけではない、と明確に述べている。この表現が使われ始めたきっかけは、1988年に滋賀大学教授だった小倉榮一郎氏が著書『近江商人の経営』のなかで、近江商人にとっての商売の哲学が三方よしであると記述したことだった。130年前の家訓ではなく、40年前の学術的な整理から広まった言葉なのだ。
では、忠兵衛は何を言ったのか。小倉氏がその哲学を代表する言葉として例示したのが、忠兵衛の座右の銘だった。
商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
売り買いのどちらも利し、世の中に足りないものを埋める。ここに、売り手・買い手・世間の三者が揃っている。
さらに宇佐美教授は、三方よしの起源には諸説あるとしたうえで、その一つとされる中村治兵衛家の家訓には該当する表現が見当たらず、それにあたる記述が登場するのは忠兵衛の言葉が最初だと述べている。ついでに言うと、本来は「売り手によし、買い手によし、世間によし」と「に」が入るのが日本語として正しい、とも指摘されている。
整理すると、こうなる。
「三方よし」という四文字は、1988年に研究者が広めた言葉
その内容にあたる記述が最初に登場するのは、初代伊藤忠兵衛の言葉
忠兵衛自身が「三方よし」と言ったわけではない
面接で使うなら、「近江商人に伝わる家訓で」ではなく、「三方よしという言葉自体は後世のものですが、その内容を最初に言葉にしたのが御社の創業者だと伺っています」のほうが、はるかに正確で、そして刺さると思う。
神格化された伝統ではない。一人の商人が、自分の商売を説明するために言語化したものだった。そのほうが、よほど凄い。

[図4:通説と、確認できる事実/ALT:「三方よし」をめぐる通説と事実の対比表。通説は「近江商人に代々伝わる家訓」「創業者が三方よしと唱えた」。確認できる事実は「三方よしは1988年に研究者が用いた表現で後世の造語」「忠兵衛の座右の銘がその内容にあたる最初の記述とされる」「正しくは売り手によし、買い手によし、世間によし」。出典は伊藤忠商事統合レポート2020の宇佐美英機教授との対談。]
そして2020年、企業理念に戻ってきた
伊藤忠は2020年4月1日、グループ企業理念を「三方よし」に改訂した。それまでは1992年に策定した「豊かさを担う責任」で、28年ぶりの改訂だった。
改訂にあたっては宇佐美教授に調査と実証を依頼し、三方よしの精神が初代忠兵衛の商売観に由来するという見解を根拠にしている。つまり、創業者の言葉を学術的に検証したうえで、企業理念に据え直したわけだ。
いまこの理念は、企業価値の向上やサステナビリティの観点から、米国ハーバード・ビジネス・スクールの事例研究対象にも選ばれている。近江の村を出た少年の言葉が、160年かけてそこまで行った。
最後に、就活生へ
総合商社は業務内容が見えにくい、とよく言われる。事業投資も、トレードも、資源も、コンビニも扱うから、一言で説明できない。
でも起点は単純だ。**モノが余っている場所と、足りない場所のあいだに立って、運んで、売って、代金を回収する。**そのために信用を積む。1858年に15歳の少年が天秤棒でやっていたことと、いまの商社の骨格は変わっていない。
そしてもう一つ。その少年は、11歳で兄の真似をして一人で行商に出たとき、ほとんど売れなかった。最初の商売でようやく7両の利益を出した。そこから制度を作り、会社を作り、160年続く言葉を残した。
面接がうまくいかない日があっても、それは別に珍しいことではない、という話でもある。
※本記事は、伊藤忠商事の統合レポート2020掲載の対談およびサステナビリティサイト「歴史と価値創造モデル」、丸紅「ゆかりの先人たち」、京都丸紅社史、国立国会図書館「近代日本人の肖像」等の記述に基づきます。初代伊藤忠兵衛の年齢や最初の行商先など、資料により記述が異なる箇所は本文中に併記しました。「三方よし」の起源には諸説あり、本文は宇佐美英機教授の見解として紹介しています。
