お節料理と、2日目の背徳🍔〜ご馳走疲れ〜お節は文化、焼きそばは生命線。
【毎年思うこと】
元旦、私たちは「立派な日本人のふり」をする。
黒豆を噛みしめ、栗きんとんを舐めながら、
「これは勤勉の象徴」「これは金運の祈り」なんて、
自分に言い聞かせるように、重箱のフタをそっと開ける。
……でも現実の私は、元旦からカップ
ラーメンを啜っていた。
🎍 元旦の縁起は、胃袋には届かない
1月1日。
お節を前にすると、どこか背筋が伸びる。
「ちゃんとした日本人」でいなければいけないような気さえする。
けれど、胃袋は文化で動かない。
正月の重箱の前に佇みながら、私は心のどこかでこう呟く。
😫「それで? どこまで続ければ許されるの?」

🍳 2日目、人はソースを欲する
1月2日になると、身体が静かに反乱を起こす。
お節の甘さ、酢の香り、整った形に、もう満足してしまったのだ。
「──私の人生を救うのは、黒豆ではない。焼きそばだ。」
焼きそばは祈らない。
お好み焼きは説教しない。
マクドナルドのポテトは、私を責めない。
ただ 「うまいだけ。生き返るだけ。」

🍔 背徳ではなく「回復」だ
正月のご馳走に飽きることは、怠惰ではない。
それは、身体が 「日常に帰りたい」と願うサインだ。
儀式の食は、1月1日で十分。
2日目以降は、もっと素直でいい。
🧂胃袋は文化より、油と塩で動く。

🇯🇵 お節離れは、罪ではなく「時代の自然現象」
お節を大切にする家庭を否定したいわけじゃない。
ただ──作る人がもういない。
現在の日本では、男女どちらが家事を担っていても
「年末に3日間キッチンに立ち、お重を埋め続ける時間も体力も、残されていない。」
共働き。残業。ワンオペ。師も走る年末進行。
だから人々は通販に頼る。
何万円もかけて「名店のお節」を買う。
しかし実際には、多くの家庭がこうこぼす。
・「どの店も同じ味。」
・「日持ちを優先した酢の味が支配していて、
食べきる気がしない。」
お節離れは「伝統の崩壊」ではなく、
「社会の構造が変わった結果の食の多様化」だ。
昔と同じ形が守れないなら、
私たちは 「新しい“年明けの食”を自分で決めていい。」
焼きそばでも、カップラーメンでも、ポテトでも、コメダのモーニングでも。
「生き延びた私を祝う食こそ、正月の正解だ。」
※追記※
でも、母のお雑煮と、父のゴマメは素直に美味しいと思います。
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