パソコン通信の幻影を追ったとき : 匿名性の「温度」と、noteという優しい喫茶室
つい最近、春の気配が濃くなったかと思えば、夏の入口も過ぎ、盛夏に立っています。時間の流れが、こうも速く感じられるようになるとは、若い頃には想像もしませんでした。
気がつけば、私がこのnoteという場所に「喫茶室」を求めてから、1年が経過していました。これもまた、ありがたい「note文化」のおかげなのでしょう。そして皆様の。
ピー、ガガガという「礼節」の音
まだ「インターネット」という言葉が一般にはなく、「パソコン通信」と呼ばれていた時代です。電話回線にモデムをつなぎ、「ピー、ガガガ」という、懐かしくも耳障りな接続音を待っていた頃。
そこは、本名ではなくハンドルネームで交流する世界でした。画面の向こうにいる相手の素性は分からない。それでも、一人ひとりが同じ名前で長く活動し、その積み重ねが「その人らしさ」になっていました。
仮面舞踏会では仮面の向こうの、その人を感じ取れました。少なくとも、私が見ていたコミュニティでは、衝突や暴走は多くありませんでした。
うまい表現が見つからないのですが、漫画の『前田慶次』風に言えば、「喧嘩になっても、やり方を知っていた」とでも言えばよいでしょうか。
まぁ、「パソコン通信をしている時点で十分に変わり者だった」という事実は否定しません。けれど、そこには目に見えない、高い参入障壁というフィルターがありました。コマンドを覚え、通信料を気にしながら言葉を紡ぐ。
その手間そのものが、自然と節度や礼節を育てていたのかもしれません。
匿名性が「牙」を剥くとき
それが今では、誰もが無料で、瞬時に、世界へ向けて言葉を発信できる時代になりました。
かつて太平洋をゴムボートで渡るようだった情報伝達は、今や思考そのものをワープさせる速度になっています。
便利になったことは間違いありません。
けれど1990年代後半以降、私たちは何か大切なものを道端に落としてきてしまったのではないか、そんな思いが時折よぎります。
匿名性は、本来は自由な議論を守るための盾でした。しかし今では、ときに相手を傷つけるための刃として使われる場面も少なくありません。
noteという「意味の聖域」
私にはもう、誰かを議論で打ち負かしたり、正論で言い負かしたりするだけの気力はありません。
そんな私が辿り着いたnoteは、驚くほど穏やかな場所でした。
ここでは、誰かが一生懸命に書いた「自分の言葉」を、誰かが静かに読み、そっと頷く。そんな、お互いを尊重し合う文化が、地層のように積み重なっているように感じます。
この心地よさは、かつてパソコン通信で感じた、あの静かな連帯感と、どこかよく似ています。
これからのこと
AIという相棒は、これからも驚くべき速さで進化し、私たちの常識を書き換え続けていくのでしょう。数年後のSNSは、さらに効率的で、さらに合理的で、さらに冷静な世界になっているのかもしれません。
技術は進歩しても、言葉の向こうにいる人を思う気持ちだけは、あの「ピー、ガガガ」の時代から、あまり変わってほしくないと願っています。

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