間違いは正すべきか、見過ごすべきか、両親との会話から考えた境界線
最近、89歳の母親との何気ない会話の中で、事実と個人の認識の間に存在する、いくつかの興味深いズレを考える機会がありました。
例えば母親は、「エアコン冷房の電気料金はとても高い」という強い認識を持っています。しかし実際に計算してみると、居間で使っている電気代は1時間あたりおよそ15円程度のようです。
両親が毎日楽しみにしている150円のデザート2個分と比べれば、相対的にはそれほど大きな負担ではないとも考えられます。
(調べてみると1990年頃は1時間動かすと50円くらいだったようです。)
また、現在では健康面で評価されることの多い玄米に対しても、母親には「子供時代の苦労を思い出す食べ物」という印象が強く残っているようです。
さらに、95歳になる父はテレビを情報源としているためか、最近のAI報道の影響もあって、「AIは、何だか得体の知れない怖いもの」という漠然とした印象を持っています。
こうした出来事を通して、身近な人が持つ認識に対して、「間違いは正すべきなのか、それとも見過ごすべきなのか」というコミュニケーションのあり方について考えてみました。
私たちが日々活用しているAIは、問いを与えれば、かなり正確な情報を短時間で示してくれます。水道料金の比較も、玄米の栄養価も、AIの仕組みも、客観的な情報として説明することは難しくありません。
しかし、その正解をそのまま親に伝えることが、本当に最善なのかと考えてしまいました。
以前の記事では、大衆の不安や期待を煽る「AI驚き屋」のノイズについて考察しました。父がAIに抱いている漠然とした不安も、そのような情報環境によって形づくられた一つの認識なのかもしれません。
もちろん、私自身は毎日AIを活用していますが、決して盲信しているわけではありません。技術が社会に与える影響はまだ発展途上であり、将来振り返ったときには、親が抱いていた慎重さの一部が、結果として妥当だったと評価される可能性もあるでしょう。
今回あらためて感じたのは、相手によって、事実を受け止める土壌はまったく異なるということです。
90年という長い人生の中で積み重ねてきた経験や価値観を、単なる「データ上の間違い」として正論で上書きすることは、相手の尊厳や安心感を、知らず知らずのうちに削ってしまう危うさがあります。
AIには、利用者に不要な不快感や危険を与えないよう、出力を調整する「アライメント」という考え方があります。
人間同士の対話にも、これに少し似た側面があるのではないでしょうか。相手の年齢や人生経験、置かれた状況を踏まえ、あえて訂正しないという判断も、必要なのだと思いました。
もちろん、危険を伴うことや、周囲に大きな迷惑をかける事は例外です。
私は両親に対しては、すべてを正論で白黒つけるのではなく、「正すべき間違い」と「見過ごすべき思い込み」の境界線を、その時の様子を見て静かに見極めることにしました。
正しさで両親の文脈を破壊せず、歩んできた時間や文脈を尊重すること。それもまた、人とAIが共に生きる時代に求められる、大切な知性なのかもしれません。
そうそう、母は私がクレジットカードやスマホ決済するのを嫌がります。ポイントが貯まるのだと話しても、釈然としない様子です。
確かに母は現金払いしているのですが、ポイントカードやクーポン券は使っています。そのあたりの境界線が私には分かりません。

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