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午後六時、開店のベルは鳴る

 見落としてしまいそうなビルの間にその店はある。耳を澄ませばきらめくような旋律が聞こえてくる。木枠で縁取られた扉を開くと、澄んだベルの音と一緒に濁流のようなピアノが外へ流れ出る。
 薄暗い店内の端に置かれているのは、蓋が僅かに開けられたグランドピアノだ。芸術に疎い自分は余暇に音楽を聞くことも、ホールへ足を運ぶこともしない。金曜の夜に幼なじみが弾く、よくわからない曲が全てだ。カウンターに姿を見せた髭面のマスターに会釈すると、マスターは苦笑しながら首を横に振った。
「今夜は時間ある?」
 マスターと俺の間には、相変わらずあいつの奏でる激情が流れている。
「ありますけど……それが何か」
「あの子のバイト代から引いておくから朝まで付き合ってやってくれ」
 俺は目を見開いてマスターを見た。いつもなら日付が変わるころには閉店になる。
「何かあったんすか。荒れてますね」
 芸術のことは何一つわからないが、あいつの気分は音を聞けばわかるようになった。選ぶ曲も、タッチも、音は言葉よりも雄弁に語る。
「これから荒れるんだよ。コンクールがあるんだ」
「へえ、出るんですか」
「いいや、海の向こうで行われる、あの子とは無縁のコンクールさ。動画配信もされるよ。興味があるなら見てみるといい」
 そう言いながらマスターは手際よく琥珀色の液体をグラスに注ぐ。とろりとした液体が注がれる音は、あいつの濁流に呑みこまれた。
 俺はカウンターに寄りかかって酒を舐めながら、黒いシャツを肘の上まで捲った痩身の男に目を向けた。
 奏太の意外と無骨な指が自在に駆けて紡ぐ音は、勇壮で、それでいてどこか憂いに満ちている。どこか寂しげな曲調に、ふっと笑いだしたくなる。怪訝な顔を向けてきたマスターから視線を外し、俺は奏太に目をやった。
「ガキの頃は奏太は天才なんだろうなと思っていました」
 奏太は合唱コンクールや卒業式なんかでピアノを弾いていたから、ああ上手いんだろうなとは思っていた。遠方の音高に進んだ奏太は俺とはかけ離れた存在で、風の噂で奏太が音大に進んだと聞いたときも、驚かなかった。「でも、こんなところで弾いているくらいなんだから、そうではないんでしょうね」
 芸術で食っていくのが茨の道であることくらい、門外漢の俺にもわかる。挫折して地元に帰ってきた奏太に居場所を与えたのは、実の叔父であるマスターだ。奏太のことをよく知っている彼は「そうかもしれない」と小さく笑う。
「それでもしがみついている。手放せないんだろうね。それしかないと認めるのが怖いから。認められないのが怖いから」
「誰かに認められなければいけないんですかね。俺にはよくわかりませんが」
「あの子にとって不幸だったのは、誰にも認められなくてもいいと思うほどに孤高にもなれなかったことだ」
 奏太は汗だくで、ただ一人黒い巨体に向かっている。まるで、倒すべき相手かのように。それは執念にも似ている。どれほどの時間を一人で88個の鍵盤と過ごしてきたのだろう。
「でもあの子にとって幸福なのは、こうして誰かが聞いてくれることだ」
 マスターの言葉に俺は答えなかった。聞き覚えのあるフレーズは急き立てられているようにも、加速したようにも思われた。僅かに空いた隙間から、狭い店内から、天へ伸びるように音が上がっていく。鍵盤を端から端まで縦横無尽に駆け巡り、行き着く先はどこなのだろう。暗い部屋から出た先に広がる光景は――。
 余韻が消え、奏太は息を切らせていた。唯一の客である俺がそこにいるのが当然とでも言うような不遜な態度だが、不思議と嫌な気持ちはしない。
「ソナタというものはね、提示部、展開部、終結部という構成でできているんだ。この完璧さは至高と言ってもいい」
「へえ」
「君って人は、本当に弾き甲斐がないよ。曲名も作曲家も覚えないし」
 奏太は額の汗をシャツの袖で拭う。俺は首を横に振る。
「どうせ忘れるから聞くだけ無駄だ」
 何度でも聞けばいい。俺は人間くさいこいつの音を聞くために、この店のベルを鳴らしているのだから。
 奏太は鼻を鳴らすと静かに目を閉じた。そして、音が生まれる。

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