【小説】忘れえぬ女(ひと) 第3章 第3話
第3話
掘りごたつの個室は薄暗く、和風の照明がほんのりと温かな空間を作っている。
「今がチャンスやねんで、オマエ。そんなんやってたらアカンよ」
口いっぱいに食べものを頬張った元木が、箸の先で創を差した。口からご飯粒が飛び出す。
「わかってますよ。俺はちゃんとやってます」
ビールが半分残ったジョッキを持ったまま、創は口を尖らせた。
「それやったら、今日みたいなのはアカンなあ」
創がムッとして顔を上げる。すかさず横から矢崎が「まあまあ」と割って入った。
「別に今日の創はそれほど悪くなかったよ。ああいう、タイミングが合わないことは誰にでもあるさ」
言いながら、矢崎が創の背中をぽんと叩く。元木は残ったビールをあおり、矢崎の言葉などまるで耳に入っていないかのように、
「今が正念場やで。『そうしよう』の」
と言って大きなげっぷをした。
「オマエ、さっきから汚いな」
それまで黙っていた大石が、元木のでっぷりした身体を押した。
──地下鉄に乗ったところで電話がかかってきた。着信を見ると、先輩である大石だった。
『もしもし、創か。オマエ今どこおんねん』
大石は同じ事務所の先輩だ。年は二回り近く上で、いつも創に声をかけてくれる。金のない創を気づかい、しょっちゅうご馳走してくれるのもありがたかった。
「え、帰ってる最中ですけど」
周囲をはばかり、手で口元を覆いながら小さな声で返すと、
『早いわ。オマエが来る思って待っててもけえへんから、大部屋の方行ってみたら、もうおらんし』
収録前に大石の楽屋に挨拶をした。その時に誘われたわけではなかったが、いつもの流れなら呑みに行くところだ。逃げるように帰ってきたことを責められている気がして、なにも返せないでいると、
『来いや、今からでも。元木と矢崎もおるから』
と優しく言われた。なにもかもお見通しで恥ずかしかったが、誰かに話を聞いてもらいたいのも本心だった。
「相方だけが売れてるのをな、嫉妬していたらアカンねん。チャンスだと思わな」
ビールのお代わりを受け取るが早いか、すかさず元木がさっきの続きを始める。
「それは俺に言わんといて下さいよ。相方に言うてください」
切り口上で返すと、場が一瞬静まり返った。気まずい空気が流れる。頭を掻いた。
「心配いらんて。創は頑張っとるし、そのうちコンビの仕事も入るようになる。今はしんどいかもしれんけど、大丈夫や。みんな通った道や」
大石の言葉に、創は黙って下を向いた。矢崎がそこですかさず話題を変えた。先日の舞台で卸した新ネタについて、お笑い談義で盛り上がる。
相方から芸人を辞めたいと言われたことについて、大石たちに打ち明けることはできなかった。口にしてしまえば、本当のことになってしまうような気がした。
